ディミトリー・ティオムキン |
Dimitri Tiomkin 1894〜1979 |
ティオムキンといえば西部劇音楽の第一人者として知られますが、その彼は実はロシアのウクライナ生まれと言うのは興味深い事実です。
ペトログラード音楽院でグラズノフに学び、ロシア革命後パリでピアニストとしてデビュー。1925年渡米し、1930年からMGM映画ほかで映画音楽に従事することとなりました。
彼はシンフォニック・スコアが書けると同時に、下積み時代に培ったポピュラー音楽の素養により、ヒット性のあるポピュラー・ソングを書くこともできました。この二面性が彼の音楽にヴァラエティと複雑さを与えています。
『真昼の決闘』(1951)、『OK牧場の決斗』(1957)、『リオ・ブラボー』(1959)などで西部劇の音楽のスタイルを確立した功績は大きく、主題歌や挿入歌もヒットさせました。
一方『紅の翼』(1951)、『ジャイアンツ』(1956)、『老人と海』(1958)といったドラマもこなせば、『ナバロンの要塞』(1961)、『北京の55日』(1963)、『ローマ帝国の滅亡』(1964)のようなスペクタクルものも得意だし、『ダイヤルMを廻せ』(1954)、『見知らぬ乗客』のようなヒッチコック・サスペンスの音楽も書きました。
とにかく多彩な人です。
以下では T. Thomas : Film Score: The Art & Craft of Movie Music (Riverwood Press, Burbank, California 1991)、W. Darby / J. De Bois : American Film Music - Major Composers,
Techniques, Trends, 1915-1990 (McFarland & Co., Jefferson, North Carolina &
London 1990) 、及び映画音楽研究家島田幸市さんにご提供いただいた資料などに基づきながら、ティオムキンの魅力に迫ってみたいと思います。
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1950年代後半から1960年代前半にかけてハリウッドで最も有名な映画音楽作曲家と言えば、紛れもなくティオムキンでした。
彼はアカデミー賞に24回ノミネートされ、4つのオスカー(『真昼の決闘』(1952)で作曲賞と主題歌賞、あとは作曲賞を『紅の翼』(1954)と『老人と海』(1958)で)を取りました。また「映画史上最も稼いだ作曲家」とも言われます。
彼は仕事を選り好みせず、様々な監督とあらゆるジャンルの映画で仕事をしました。
一緒に仕事をした監督には、フランク・キャプラ、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークス、スタンリー・クレイマー、William Pine、William Thomas、Samuel Bronstonなどがおり、『Angel on My Shoulder』(1946)、『男たち (The Men) 』(1950)、『午後の喇叭 (Bugles in the Afternoon) 』(1952)といった文学の香り高い名作も手掛ける一方で、B級とされる『犯罪王ディリンジャー (Dillinger) 』(1945)、『都会の牙 (D.O.A.) 』(1950)、『南部に轟く太鼓 (Drums in the Deep South) 』(1951)などにも優れたスコアを付けています。
彼の音楽は時として対位法的に錯綜し、耳を聾する音響と相まって見通しの悪いことがあり、評論家の評価は必ずしも高くありません。彼の人気は、当時のテレビの普及の勢いにうまく乗って、テレビ・ドラマの主題歌をヒットさせたからだ、とも言われます。
にも関わらず、骨太でエネルギッシュな彼のスコアからは、二流として片付けることの出来ない、真の音楽の力が溢れ出ているのは確かなのです。
ロシアでの青年時代
ディミトリー・ティオムキンは、1894年5月10日、ロシア帝国ウクライナ地方の中流家庭に生まれました。
父は、梅毒の特効薬を発見したパウル・エーリッヒ博士の助手を務めた病理学者ですが、幼いディミトリーはむしろ、音楽好きの母から強い影響を受けました
息子をピアニストにするという夢を抱く母は1898年、まだ4歳のディミトリにピアノを習わせ始めます。
1901年、父と共にロシア帝国の首都ペテルブルグへ移った7歳のディミトリーは、子供向けピアノ教室に入学し、厳格なヴィンクラー教授の下で学びましたが、音階(スケール)の練習やハイドンのソナタ以外弾くことを禁じられたため、やがてエスケープしては河岸で遊ぶことが多くなりました。
1903年、父がエーリッヒ博士の誘いで単身ベルリンへ移ったため、母は息子をいったん実家に呼び返しましたが、息子のピアノへの情熱を見て、ペテルブルグで普通学校へ通わせました。
ディミトリーが有名なペテルブルグ音楽院へ入学したいと言ってきたのは1907年、彼が13歳の時です。
この頃には両親の間に不和が生じ、父からの送金が途絶えていたので、ディミトリーは学費を稼ぐためにパイ工場などで働きました。両親は間もなく離婚します。
16歳になった時、ディミトリーはバイトの一環としてニュー・オーリンズ出身の歌手ミス・ルビーに音楽を教えますが、彼女を通して初めてラグタイムのアメリカのポピュラー音楽の香りを嗅ぎ、シンコペーションなどに興味を持ったと言われます。
1912年、18歳のティオムキンは名門ペテルブルグ音楽院の入学試験に見事合格、晴れて入学を果たしました。
当時の院長は、リムスキー=コルサコフの一番の愛弟子アレクサンドル・グラズノフで、チャイコフスキー亡き後、ラフマニノフに並ぶロシア随一の大作曲家でした。
ティオムキンは彼から曲を教わり、なかんづくフーガ形式の愛好はR=コルサコフからの影響だったと回想していますが、この授業は一般教養課程の一つに過ぎず、当時の彼の一番の興味はピアノでした。
ピアノの教師フェリックス・ブルーメンタールは、世紀の名ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツの先生としても有名です。
1914年の夏、グラズノフの勧めで、ロシアの前皇帝アレクサンドル2世の王女バリアチンスキーの歌の伴奏者を務めます。それが縁となり、二人は恋に落ちます。第1次世界大戦で別れ別れになっても、ラブレターを送り合いますが、ティオムキンは後に失恋してしまいます。
しかし、我々にとって、ティオムキンの初恋より大事なのは、彼と伴奏音楽との出会いです。
1914年、世界大戦勃発数ヶ月前、ペトログラードに世界的に有名なヨーロッパのコメディアン、マックス・リンダーがやってきました。
駅までは汽車で来たのに、そこでわざわざ複葉飛行機に乗り換え、Astoria Hotelに乗り込むというスタンド・プレーは、当時のペトログラード市民の度肝を抜きました。ティオムキンは「〔大奇術師〕フーディニのように、彼は舞台にいなくてもショーマンだった」と感嘆しています。
ティオムキンは、リンダーのパントマイムに即興のピアノ伴奏を付けました。これが、ティオムキンの最初のバックグラウンド・ミュージックとなったのです。
1914年夏に第1次世界大戦が勃発し、首都はドイツ風の「ペテルブルグ」からロシア風の「ペトログラード」に改称されましたが、当面は従来と同じ生活が続きました。
「帝政ロシア映画は映画先進国のアメリカやフランスの水準には及ばないが、中進国といっていい北欧諸国やイタリアとは肩を並べるぐらいには発展していた」(ロシアの中央映画博物館長ナウーム・クレイマン)
1911年 1本 |
1918年、24歳のティオムキンはプロのピアニストとしてデビューし、夏の音楽祭でスクリャービンのピアノ協奏曲嬰ヘ長調を弾くことになりました。 スクリャービンもティオムキンに大きな影響を与えた作曲家の一人で、彼はスクリャービンのことを、母国の様々な「矛盾」に実体を与えた大音楽家と考えていました。 が、ティオムキンは軍隊に召集され、残念ながら出演は不可能となります。
病気と経済的困窮のため、ペトログラードを去って医師の父が住むベルリンへ脱出を決心したのは、1919年、ティオムキン25歳の時でした。
ベルリンでの2年半
ベルリンでは最初、父と暮らしましたが、ティオムキンは結局、母と離婚した父と決定的に決裂します。
そんな彼の支えとなったのが、ベルリンで知り合ったピアニストの親友ミカエル・カリトン (Michael Kariton) でした。
ティオムキンが、著名なピアニスト兼作曲家兼音楽教師のフェッルッチョ・ブゾーニの下で音楽を学べるよう骨を折ってくれたのも、カリトンでした。
ブゾーニから教わった形式と和声感覚は、グラズノフが示してくれた音楽のロマン的精神と共に、後の作曲家人生でかけがえのないものになった、と後年ティオムキンは回想しています。習作として舞曲や行進曲などを盛んに作曲するようになったのもこの頃でした。彼は同時にブゾーニの二人の弟子、エゴン・ペトリとミカエル・フォン・ツァドラ (Michael von Zadora) からも教えを受けました。
音楽教師として生計を立てていたティオムキンが本格的なピアニストとしてデビューしたのもベルリンです。
1921年、彼は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をバックに、リストのピアノ協奏曲第1番 変ホ長調を弾いて、コンサート・ピアニストとして華々しいメジャー・デビューを飾りました。ティオムキン27歳の時のことです。
同時に、カリトンとピアノ・デュオを組んでヨーロッパ中を演奏旅行する生活が始まります。
間もなくティオムキンは、パリに移ることにしました。
パリ---この華やかな芸術の都には、当時、ストラヴィンスキーやディアギレフといった多くの亡命ロシア人が活躍していました。同じ境遇のティオムキンが吸い寄せられたのも不思議ではありません。
パリでの演奏活動
ティオムキンとカリトンのピアノ・デュオがパリでコンサートを開いたのは1924年、ティオムキンが30歳になった年のことです。
彼らのデュオは大受けで、どこでもコンサートは大成功を収めました。ティオムキンは、お金を稼ぐ大切さを初めて学ぶことになりました。
一方、パリではラヴェルらの作品を学び、また当時アメリカから流入してブームを巻き起こしていたジャズにも親しく接しました。
ロシアの天才バス歌手フョードル・シャリアピンと知り合ったのもこの頃です。
同郷の先輩で、主にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で活躍するシャリアピンの話を聞くうちに、ティオムキンの中で、アメリカという金のなる国への憧れが膨らんできました。
そんな矢先の翌1925年、ティオムキンらの人気ピアノ・デュオは、シャリアピンの紹介で、アメリカ演奏旅行の招待を受けました。週千ドルで6ヶ月間。悪くありません---但しヴォードヴィル (寄席芸人) の巡業としてでした。
アメリカへの移住
1925年の演奏旅行が、ティオムキンにとって最初のアメリカ体験でした。と同時に、ティオムキンの人生の大きな転換点でもありました。
まず、彼はこの旅行中に、人生の伴侶を見つけました。彼女の名はアルベルティーナ・ラッシュ。オーストリア生まれのバレリーナ兼振付師で、ティオムキンに英語を教えたのも彼女でした。
また同時に、アメリカ移住の決心もしました。一旗揚げるならこの国だと思ったし、現実的で生活力のある新妻も勧めてくれたからです。
アメリカに移ったティオムキンを魅了したのは、当時大流行のジャズでした。
ただ、1920年代のジャズは現在イメージするジャズとは違い、ラグタイムやフォックストロットのようなダンス音楽に近い、ツー・ビートのちゃかちゃかした音楽です。それがクラシック音楽が主流の当時は新鮮に感じられたのです。
1926年には、「シンフォニック・ジャズ」の代表作と言われたガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」 (1924) などに傾倒し、翌1927年にはクラシック音楽の殿堂カーネギー・ホールでリサイタルを開くことができました。
同じ1927年に妻ラッシュが「ラプソディ・イン・ブルー」をバレエ化した時、念願のそのピアノ・パートを弾いたのでした。
ティオムキンのピアニスト人生の絶頂は、1928年にやってきました。この年彼はガーシュウィンの新作ピアノ協奏曲ヘ調 (1925) のパリ初演を行ったのです。
ティオムキンがガーシュウィンと初めて会ったのは、初演前の3月27日のことです。ガーシュウィンが泊まっているマジェスティック・ホテルに招かれたティオムキンは、作曲家イベールと共に、世紀のスーパースター、ガーシュウィンに紹介されました。
5月29日、パリ・オペラ座でのヨーロッパ初演は、ガーシュウィンの他、プロコフィエフ、オネゲル、ディアギレフ、ヴァーノン・デューク (ガーシュウィンの友人の作曲家。ロシア出身) 、俳優モーリス・シュヴァリエらも聴きに来ました。
ガーシュウィンとその仲間たちとは親友になり、彼らはよくティオムキンの家に遊びに来ました。ガーシュウィンは書きかけの「パリのアメリカ人」の一部を、ティオムキンの家で書きました。
アメリカに帰国後の1929年、ティオムキン夫妻はニューヨークに定住し、カーネギー・ホールで「ラプソディー・イン・ブルー」やフランス現代ものを弾いて成功します。
ティオムキンはますますピアノ演奏に励み、また妻のアルベルティーナも自分のバレー団を率いて公演に精を出します。夫は妻のバレー団のために新曲を書きもします。
夫妻の前途は洋々たるものでした。
ところが、10月にニューヨーク株式市場を襲った暴落が、ティオムキン夫妻の夢を完膚無きまで壊してしまいます。
彼らは財産の多くを失っただけではありません。
この大恐慌時代に、誰が彼らのピアノや踊りにお金を払おうとするでしょうか?
しかし、途方に暮れるティオムキンを尻目に、しっかり者の妻アルベルティーナは、発明されたばかりのトーキー映画が必ずやバレーや音楽を必要とする時代が来ることを予想し、自分たちを売り込むならハリウッド以外あり得ないと考えました。
これがティオムキンの人生の最大の転機となるのです。
1930年、アルバーティナ---オーストリア娘「アルベルティーナ」の名は、もはや英語で発音すべきでしょう---はハリウッドに行きました。ミュージカル映画の中にモダンなバレーのシークエンスを挿入する、という彼女のアイデアに飛びついたのは、MGM映画社でした。
抜け目ない彼女は、MGMが自分をバレリーナとして採用する際、夫をバレー音楽の作曲家として推薦することを忘れませんでした。
実際ティオムキンは、妻のバレー団のためにバレー音楽「軍神マルスのバレー (Mars Ballet) 」を書いていました。このバレー曲はスタジオに3000ドルで売れました。
その年のうちに、ティオムキンは『Devil May Care』 (1929)、『悪漢の唄 (The Rogue Song) 』(1930)などMGMの3本のミュージカル映画にバレー場面の音楽を書きました。中でもL. ティベット主演の『悪漢の唄』は好評でした。
こうしてティオムキンの映画作曲家としてのキャリアが始まったのです。
翌1931年には、劇映画のアンダースコアの注文まできました。
トルストイの『復活』を映画化しようとしていたユニヴァーサル映画社は、ロシア人のティオムキンに“ロシア風”スコアを要請し、ティオムキンは注文通り「何曲かの短調のロシア民謡と、お馴染みのロンバーグのミュージカル風のお涙頂戴路線を調合して」(ティオムキン)、スコアを完成させましたが、出来上がった『復活 (Resurrection) 』(1931)は駄作で、作曲者の努力は台無しになりました。
経済恐慌の深刻化はミュージカル映画の製作本数の減少をもたらし、ティオムキンは再び困難に直面しました。
生活のため、映画用の雑多な歌やテーマ曲を書く一方で、1932年にはユダヤ系実業家モンタギュー・グラスと組み、ニューヨークでブロードウェイ・ミュージカルに挑戦しますが、失敗に終わります。
ハリウッドで第2の大きな仕事が手に入ったのは、ようやく1933年のことです。
パラマウント製作の『不思議の国のアリス (Alice in Wonderland) 』(1933)は、撮影所の誇るスターたちを華麗な衣装で勢揃いさせた意欲作でしたが、興行的に成功したとは言えませんでした。
続く時期に、ティオムキンは監督のフランク・キャプラと親しくなります。
『或る夜の出来事 (It Happened One Night) 』(1934)と『Mr. Deeds Goes to Town』(1936)で急速に頭角を現したキャプラ (後者はティオムキンが作曲) は、1937年に『失はれた地平線 (Lost Horizon) 』を撮るに当たり、ティオムキンこそ、楽園シャングリ=ラの探索というロマンと憧れに満ちたこの映画の「理想的な作曲家」だという予感がした、といいます。
ティオムキンが『失はれた地平線』に付けたスコアは画期的なもので、コロムビア・スタジオがかつて経験したことのない膨大な楽器編成を要求し、予算超過で社長ハリー・コーンの頭痛の種となりました。
しかも、そのスコアを書いている最中、右腕を骨折する大けがを負い、これが致命傷となって、ピアノ演奏活動を断念せざるを得ないというつらい出来事がありました。直前に行ったロスアンジェルス交響楽団とのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のコンサートが、ピアニストとしての最後の活動となってしまったのです。
しかし、音楽監督マックス・スタイナーが指揮した『失はれた地平線』のサウンドトラックは、素晴らしい出来でした。
ガーシュウィン兄弟は1936年8月10日、ハリウッドにやってきた。 RKO製作のフレッド・アステア主演のダンス映画『踊らん哉 (Shall We Dance?) 』(1936)と『踊る騎士 (A Damsel in Distress) 』(1937)、さらにサミュエル・ゴールドウィン製作のMGMミュージカル映画『華麗なるミュージカル (The Goldwyn Follies) 』(1938)の音楽を書くためだった。
1937年当時、ガーシュウィンは『踊る騎士』の仕上げと、『華麗なるミュージカル』のスケッチに従事していた。
その後、1937年6月末に『華麗なるミュージカル』の音楽の一部が録音された時、セッションの様子が何枚かの写真に残された。 ガーシュウィンが脳腫瘍のため帰らぬ人となったのは、この写真が撮られた約1週間後のことだった。 |
『失はれた地平線』の音楽は、大成功を収めてアカデミー賞候補にもなり、ティオムキンの映画音楽の真の出発点となったのです。
キャプラ監督との協力はその後も続き、『我が家の楽園 (You Can't Take It with You) 』 (1938)、『スミス都へ行く (Mr. Smith Goes to Washington) 』 (1939)、『群衆 (Meet John Doe) 』(1941)、そして『素晴らしき哉、人生! (It's a Wonderful Life) 』(1946)などのスコアが生まれました。
また、彼らの共作には第2次世界大戦中の衝撃的な新兵教育用記録映画『我らはなぜ戦うか』シリーズも含まれます (音楽は主に既存のクラシック音楽の編曲)。
1938年には、『コンドル (Only Angels Have Wings) 』(1939)を通じてハワード・ホークス監督とのつながりも生まれます。
この監督とは、断続的ながら、『赤い河 (Red River) 』(1948)、『果てしなき蒼空 (The Big Sky) 』(1952)、『ピラミッド (Land of the Pharaohs) 』(1955)、『リオ・ブラボー(Rio Bravo)』(1959)といった名作を仕上げていくことになります。
同じ1938年、ヘンリー・ハサウェイ監督の『北海の子 (Spawn of the North) 』 (1938)では、アラスカの舞台を表すのにロシアのポルカやインディアンの音楽を取り入れました。
この年の春ハリウッドを訪問したソ連の大作曲家プロコフィエフが関心を持ってスタジオを訪れ、後に彼の『アレクサンドル・ネフスキー』 (エイゼンシテイン監督) で参考にしたと言われます。
同じ年、指揮者としてハリウッド・ボウルでデビューしたことも記しておくべきでしょう。ピアニストの夢を断念したティオムキンは、今度は指揮者として再び音楽の檜舞台に立ったのです。
こうして、1930年代末までには、ティオムキンはハリウッドの重要な作曲家としての地位を占めました。
しかし、それを越えて“超”有名作曲家になるためには、何らかのブレイクスルーが必要です。
それを彼に与えたのが、西部劇というジャンルだったのです。
『失はれた地平線』の仕事をしていた時分、監督キャプラはアメリカ民謡、ニュー・イングランドの賛美歌、黒人霊歌、カウボーイのバラード、労働歌などの楽譜をティオムキンに与え、アメリカ音楽を勉強させました。
その成果は、1940年のユナイテッド・アーティスツ製作の『西部の男 (The Westerner)』(1940)で発揮されました。これはティオムキン最初の西部劇ですが、すでに成熟したウェスタン・スコアのスタイルを示しています。
但し、完成した映画では、スコアのかなりの部分がアルフレッド・ニューマンのものと入れ替えられましたが (クレジットされているのはティオムキンの名前のみ)。
ティオムキンは指揮活動も順調に続け、1941年のキャプラ監督『群衆』以降、サントラの指揮を執ることも多くなります。
西部劇音楽における最初のブレイクは、1946年にやってきます。
“独裁者”の異名を取る剛腕プロデューサー、デイヴッッド・O・セルズニックは、自ら「『風と共に去りぬ』のテキサス版」と呼ぶ壮大なウェスタン映画『白昼の決闘 (Duel in the Sun)』(1946)の音楽担当者を決めるために、不遜にも、コルンゴルト、フランツ・ワックスマン、ミクロス・ローザにそれぞれサンプルの場面集に音楽を付けるように命じました。
ワックスマンとローザは激怒し、コルンゴルトは肩をすくめ、「勝つべきだと思う?」と告げて去って行きました。
セルズニックはその後も何人もの作曲家に打診を繰り返しました。そして、7人目の作曲家が、ティオムキンだったのです。
以下、オットー・フリードリック(柴田京子訳)『ハリウッド帝国の興亡 −−夢工場の1940年代−−』 (文芸春秋) から引用してみましょう。
11のテーマ(主題)がほしいのだ、セルズニックは言った。スペイン風テーマ、牧場のテーマ、愛のテーマ、オルガスムのテーマ−− 「オルガスム?」ティオムキンは言った。「オルガスムにどうやって曲をつけるんです?」セルズニックの独断で、『白昼の決闘』のスコアは大幅に変更されたりカットされたりしましたが、彼の気ままな要求によく応えたティオムキンは、セルズニックの全幅の信頼を得、翌年の『ジェニイの肖像 (Portrait of Jennie) 』(1948) の音楽も任されます。
「やってみてくれ」セルズニックが言った。「ほんとうにいいシュタムプがほしい」
ティオムキンは数週間にわたって十一のテーマと悪戦苦闘の末、オーケストラを集めてセルズニックの前で演奏した。セルズニックは満足した。ティオムキンはさらに数週間悪戦苦闘して、スコアを完成させた。四十一人のドラマーと百人から成るコーラスが編成に組み込まれていた。セルズニックの不安はまだ去らなかった。彼はティオムキンに、愛のテーマを口笛で吹いてみてくれと言った。ティオムキンが口笛を吹いた。
「上等、上等」セルズニックは言った。「今度はオルガスムのテーマだ」
ティオムキンが口笛を吹いた。セルズニックはまじめくさった顔で頭を振った。
「ちがうちがう」セルズニックは言った。「それじゃオルガスムではない」
ティオムキンは引き下がり、さらに案を練った。彼はため息をつくようなチェロとやかましく吠えたてるようなトロンボーンを、後に片手ノコで木を挽くような、とみずから表現したリズムでまとめ上げた。いま一度、彼はセルズニックの撮影所に呼び出され、いま一度オーケストラが集められたが、今回セルズニックは、ティオムキンの音楽をグレゴリー・ペックとジェニファー・ジョーンズ(三年後セルズニック夫人となる)の嵐のごときラヴ・シーンの映像にのせて演奏するよう命じた。すべてがうまく運んだが、オルガスムのテーマになると、セルズニックはくり返すように言い、さらにもう一度くり返させた。
「恨まれるかもしれんが、これじゃだめだ」ついに彼がティオムキンに言った。「あまりに美しすぎる」
「セルズニックさん、何が引っかかっているんです」ティオムキンが抗議した。「どこが気に入らないんです?」
「気に入りはしたが、これはオルガスムの音楽ではない」セルズニックが言った。「シュタムプじゃない。私のファックはこんなんじゃない」
「セルズニックさん、あなたはあなた流にファックし私は私流にファックする」ティオムキンが叫んだ。「私にとっては、これぞファック音楽だ」
こうしてティオムキンはオルガスムのテーマを承認させた。
『白昼の決闘』の音楽はティオムキンの名声を高め、彼を映画音楽界のメインストリーム(主流)へと一気に押し上げました。アーサー・フィドラーの指揮によるサントラ盤も発売されました。
さらに、1948年のホークス監督『赤い河 (Red River) 』は、西部劇音楽の第一人者という評判を確立させました。
これ以降、西部劇ではティオムキンはなくてはならない作曲家となりました。Randolph Scottの『カナダ平原 (Canadian Pacific) 』(1949)からジョン・ウェインの大作『戦う幌馬車 (The War Wagon) 』(1967)に至るまでティオムキンはあらゆる西部劇にスコアを書きます。
ティオムキンは生粋のロシア人なのに、なぜこうも、西部男の開拓魂を見事に描くことが出来るのでしょう?
彼の答は、西部の大平原(プレーリー)は、ロシアの大草原(ステップ)によく似ているからだ、というものでした。
この頃から、大スペクタクルに分厚いテクスチュア、複雑に込み入った対位法、落ち着きのない騒々しい響き、という彼のスコアの特質が明らかになり、それが批評家たちの批判の的ともなりました。
確かに彼は、必要に応じて「重低音の音響爆撃」 (T. トーマス) を厭いませんでしたが、一方で静謐で瞑想的な書法にも長けていました。その例は、『The Moon and Sixpence』(1942)、『男たち (The Men) 』(1950)、『私は告白する (I Confess) 』(1953)、『36時間/ノルマンディー緊急指令 (36 Hours) 』(1964)などに見られる。
そして、ホークス監督の壮大な西部劇『果てしなき蒼空 (The Big Sky) 』(1952)では、落ち着いた、デリケートで美しい音楽を書いて評論家たちを驚かせたのです。
ティオムキンは作曲家としてだけではなく、音楽監督としても優れた手腕を発揮しました。
特に彼は、昔のクラシックの名曲を編曲してスコアに含めるのに喜びも感じていました。映画を通じて名曲を多くの人々に知ってもらえることが嬉しかったのです。
従って、『朝はまだ来ない (The Long Night) 』(1947)ではベートーヴェンの交響曲第7番イ長調を使い、『ジェニイの肖像』(1948)はドビュッシーの「夜想曲 (ノクテュルヌ) 」を用いています。
しかし、キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』(1946)でも音楽監督を兼ねたのですが、録音済みのサウンドトラックの音楽をキャプラが無断で編集し、かなりの部分を他の作曲家によるアメリカ民謡の編曲と入れ換えたため、それ以降ティオムキンはキャプラと仕事をしませんでした。
同じ頃、『ムコ捜し大騒動 (So This Is New York) 』(1948)によって独立プロデューサー、スタンリー・クレイマーとの合作も始まりました。
名作『チャンピオン (Champion) 』(1949)、『シラノ・ド・ベルジュラック (Cyrano de Bergerac) 』(1950)をはじめ、『Home of the Brave』(1949)、『男たち (The Men) 』(1950)など、一作ごとに全く作風の異なるこれらの映画に、ティオムキンはふさわしい音楽を付けていきました。
そして、二人の共作の頂点として、いよいよ『真昼の決闘 (High Noon) 』(1952)が登場します。
ところがこの名作も、ほとんど音楽を付けずに行われた最初のプレミア上映では、惨憺たる失敗に終わっていたのです。
その時ティオムキンは、「歌があればこの映画は救われると考えた。たぶんメロディと抒情的な詩が、映画に翼を生やすことが出来るだろう」と感じたのでした。
そこで彼は、ネッド・ワシントンと共作した歌詞によるバラード調の主題歌と、主題歌の変奏に基づく緊迫したドラマティックなアンダースコアを書きました。その結果、映画は正当な評価を得ることが出来ました。
この映画が古典的名作となったのは、ティオムキンの音楽と、ワシントンの詩のおかげといっても言い過ぎではなく、スコアがいかに映画全体の出来を左右するかのいい見本となりました。
ティオムキンは作曲賞と主題歌賞、二つのオスカーを獲得し、主題歌は大ヒットしました。
但し、この主題歌のヒットは、思わぬ後遺症を残すことになります。映画会社が“売れそうな”主題歌を付けることに熱中してしまったのです。
そもそも『真昼の決闘』の主題歌にしてからが、テックス・リッターの歌うサントラ盤にはレコード会社は興味を示さず、フランキー・レインのカバー盤が先行ヒットして、これが映画の成功につながった、という面がありました。
だから、各映画会社には、映画をヒットさせるため、映画の内容と関係あろうがなかろうが、とにかく何でもかんでもキャッチーな主題歌を付けてしまえという風潮が広がったのです。
この嘆かわしい傾向は今日まで続いていますが、特に1950年代半ばから1960年代前半にかけては、いわゆる“バラード”スタイルの映画音楽が氾濫しました。
主題歌を書くために、本編のアンダースコアの作曲者とは別に、人気流行歌作家が連れてこられることも希ではありませんでした。
例えば、フランク・スキナーの『Written on the Wind』 (1956) のスコアには、ヴィクター・ヤングの主題歌が付けられ、ワックスマンの『サヨナラ』 (1958) にはアーヴィング・バーリンが歌を書きました。
そしてティオムキン自身、アーネスト・ヤングが担当したカーク・ダグラス主演の西部劇『ガン・ファイター (The Last Sunset) 』(1961)のスコアのために、主題歌を書いたのです。
しかし、映画のドラマトゥルギーという観点からは、『真昼の決闘』ほど主題歌が効果的に用いられたスコアはありませんでした。
ティオムキン自身、その後数々のヒット主題歌を書きます。例えばフランキー・レインとコンビを組んだ『吹き荒ぶ風 (Blowing Wild) 』(1953)、『荒野の貴婦人 (Strange Lady in Town) 』(1955)、『OK牧場の決斗 (Gunfight at the O.K. Corral) 』(1957)、そして連続テレビ・ドラマ『ローハイド (Rawhide) 』(1959−63)などは有名です。
しかし、辛うじて『真昼の決闘』に近い水準を保っているのは、『OK牧場の決斗』(1957)、『ナバロンの要塞 (The Guns of Navaron) 』(1961)程度で、『友情ある説得 (Friendly Persuasion) 』(1956)、『アラモ (The Alamo) 』(1960)、『北京の55日 (55 Days at Peking) 』(1963) などの主題歌は、映画スコア全体の中は付け足しという感じが拭えない、と言われます。
1950年代前半には、『見知らぬ乗客 (Strangers on a Train) 』(1951)、『私は告白する (I Confess) 』(1953)、『ダイヤルMを廻せ! (Dial M for Murder) 』(1954)など、アルフレッド・ヒッチコック監督との共作も続きました。1943年の『疑惑の影 (Shadow of a Doubt) 』に始まる二人の関係は、ヒッチコックがハーマンとの理想のパートナーシップを見出す1955年までは、最も成功したコラボレーションの一つでした。
1954年、ティオムキンはジョン・ウェイン主演の航空映画『紅の翼 (The High and the Mighty) 』(1954)で再びアカデミー作曲賞を取りました。 この時の受賞スピーチは傑作です。
紳士淑女の皆様、私はこの映画の都で25年間にわたり働いて参りましたので、私を成功に導き、この都に芸術的価値を加えた大変に重要な人々に、一種の感謝を捧げたいと存じます。ヨハネス・ブラームスさん、ヨハン・シュトラウスさん、リヒャルト・シュトラウスさん、リヒャルト・ワーグナーさん、ベートーヴェンさん、リムスキー=コルサコフさん、どうもありがとうございました。会場は笑いの渦に巻き込まれ、ボブ・ホープは「こんなショーには二度とお目に掛かれないよ!」とコメントしました。
その後、『ピラミッド (Land of the Pharaohs) 』(1955)、『ジャイアンツ (Giant) 』(1956)、『世界の楽園 (Search for Paradise) 』(1957)など重厚なシンフォニック・スコアが続きます。
1958年には『老人と海 (The Old Man and the Sea) 』(1958)でみたびアカデミー作曲賞を受賞 (オスカー総数は4個)、映画音楽作曲家としての栄誉の頂点を極めました。
1961年の『ナバロンの要塞』では、ハリウッド作曲家としては最高額の5万ドルの報酬を受けたと言われます。
しかし、1960年代に入ると、ティオムキンの老齢と映画産業自体の低落から、映画音楽の仕事は減っていきます。
また、1963年には作曲家サミー・カーンが大衆紙で、
「1954年の『紅の翼』がアカデミー賞主題歌賞候補となったため、地方の一劇場で1週間だけ主題歌入りプリント版『紅の翼』が限定上映されたがこれはオスカー・ゲームの悪い習慣だ」
と非難、論争を巻き起したりして、ティオムキンには面白くない時期が続きました。
しかし、映画製作本数の減った1960年代の作品は、一作一作の内容が濃く、録音技術の進歩と相まって、質の高いサウンドトラックが生み出されました。
その中でも、彼の最高傑作との評判が高いのは、1964年の『ローマ帝国の滅亡 (The Fall of the Roman Empire) 』(1964)です。
この映画への音楽的アプローチの方法について、ティオムキンはサントラ盤レコードのライナー・ノートに次のように書いています。
私は映画に記録映画のような音楽を付けるというアイデアは捨てねばならぬと心に決めた。私の考えというのは、私が徐々に評価し始めた『ローマ帝国』のドラマ的な要素に自発的に反応する、というものだった。私は興奮しつつ重要な劇的あるいは抒情的なパッセージ(楽句)をブロックとして組み立てることを始め、私自身驚いたことに、私が関わっているキャラクターは、18世紀前の人間ではなく、今の我々と同じ問題を抱えた、実際上全ての人間ドラマと共通した人物像であることを知った。彼らは面白いほど生き生きとし、私に近く〔中略〕、そしてメロディが浮かび始めたのである。しかし、このスコアは、アカデミー作曲賞の候補に上げられながら、シャーマン兄弟の『メリー・ポピンズ』(1964)に敗れてしまいます。
彼を一層映画音楽から疎遠にしたのは、1967年に長年連れ添った愛妻アルバーティナの死でした。
ティオムキンは、翌1968年の『キャサリン大帝 (Great Catherine) 』 (1968) を最後に映画音楽の世界から足を洗い、その後はプロデューサー業に乗り出して『マッケンナの黄金 (Mackenna's Gold) 』(1969)のリメイクに乗り出しました。
しかしこれは製作段階からトラブルが続き、興行成績も思わしくなく、またクインシー・ジョーンズのドライな音楽も映画の意図とはしっくりこず、結局その投資のほとんどを失うこととなったのでした。
1968年にティオムキンはハリウッドを去り、ロンドンへ移住、パリでも暮らします。
また、ソ連に出掛けて『チャイコフスキー (Chaikovsky) 』(1969)を製作しました。この映画はソ連では好評でしたが、英語版はすぐに忘れ去られました。
ティオムキンは人生の最後にもう一度周囲の人々をあっと言わせました。
1972年にロンドンで彼の若い秘書オリヴィア・シンシア・パッチと再婚したのです。その時ティオムキンは78歳。花嫁との年の差は45歳でした。
その後は幸せな余生を送った末、1979年11月11日、ロンドン北にあるハイゲート自宅で、軽い病気の後、85年の生涯を閉じたのです。
勇ましい前奏ファンファーレに続き、木琴と木管を重ねた原色の音色で全音音階グリッサンドが聴かれますが、電話のベルの安っぽい模倣でしょう。
それから現れるメイン・テーマはゴージャスなワルツ調のものです。
これは、ティオムキンの名を高めた記念碑的なエピック・スコアであり、それ以前の彼の映画音楽の総決算でもあります。
ティオムキンの最初のスコアはプロデューサーのセルズニックに相当手を入れられましたが、そのうち「前奏曲」はティオムキンの意図を最も明瞭に残し、カウボーイの里テキサスの暑さ、騒音、埃、そして恐ろしいくらいの広大さを彷彿とさせる音楽になっています。
曲は幅広い、抒情的なテーマで始まります。これは、主人公の男女、パール・チャヴェス (ジェニファー・ジョーンズ) とジョゼフ・コットンを表すメロディーですが、元来は、キャプラ監督『群衆』(1941)のために書かれたものです。
やがて、ファンファーレを伴う炎のようなアレグロ・マエストーソに入り、メイン・テーマが提示されます。これもキャプラ監督『失はれた地平線』(1937)のラクダ隊商の場面の音楽から取られたものです---但し、テンポはずっと速められています。
間もなくゆったりとした音楽となり、ここにオーソン・ウェルズのナレーションが重ねられ、映画本編に入ってゆくわけです。
ジョン・ウェイン主演・監督のこの西部劇は、ティオムキンの音楽スタイルの多彩さを知る上で格好の作品です。
(1) 序曲
映画は管弦楽による序曲に始まります。
まず、アラモ砦の悲劇を予告するかのように、ホルンが悲しげな主要主題を吹き鳴らし、他の楽器を導きます。
ヴァイオリンに「遥かなるアラモ」の主題が悲壮感を帯びて出ますが、やがてひなびたオーボエが「テネシー・ベイブ」の主題
を奏して気分が変わります。すぐに「デイビー・クロケットの主題」が陽気におどけて現れますが、再び重い雰囲気になり、最初の主題が戻ってきます。
ティオムキンのオーケストレーションは、音色が重く、和声的にも対位法的にも複雑で凝っているので、やや音楽としての見通しが悪いと言えます。
(2) メイン・タイトル
この曲はうって変わって民俗調になります。
ギターのかき鳴らしを伴奏に、ソロ・トランペットが哀愁に満ちた「皆殺しの歌」を吹きます。このメロディーはティオムキンの前作『リオ・ブラボー』でも使われたものです。
続いてアコーディオンが「遥かなるアラモ」を弾きます。
(3) テネシー・ベイブ
ア・カペラ (無伴奏) のコーラスによって、限りなく優しく、ソフトな歌が歌われます。
(4) 遥かなるアラモ
ブラザース・フォアの歌でも有名なこの曲を、やはりア・カペラ・コーラスが歌っています。ティオムキンの合唱の扱いはなかなかのもの。
アメリカでも日本でも人気となった連続テレビ西部劇で、クリント・イーストウッドのデビュー作でもありました。フランキー・レインの歌うタイトル・ソングはいま聴いても血沸き肉躍る感じがします。
オーケストラ曲では混み入った作風を示すティオムキンが、単純なメロディーのポピュラー・ソングにも才能を示すのは面白いことです。
(後日追加の予定。すんません!)
(作成協力:島田幸市さん)
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