インドネシア歴史探訪
---ジャワ原人からメガワティまで
by 早崎 隆志

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目次

タマン・アユン寺院
タマン・アユン寺院(バリ島タバナン)
 16世紀にマジャパヒト王国の遺民がバリ島に築いたゲルゲル王国は17世紀末に8つに分裂。その一つタバナン王国が国寺として、この美しい寺院を創建しました。


モナス
モナス (独立記念塔)
 中央ジャカルタ、ムルデカ広場中央に位置するモナスは、スカルノ初代大統領が独立宣言の翌1946年に建てた高さ137mの塔。ヒンドゥー教のリンガ (男根の象徴) をかたどっており、頂上14mの炎には35kgの純金が貼られています。
 背後には東洋最大のイスラム教モスク「ムスジッド・イスティクラル」とカトリックの「カテドラル教会」がそびえ、国是「多様性の中の統一」を示すかのようです。

Prakata----はじめに

  1. ジャワ原人の故郷

  2. 最初のインドネシア人

  3. 国家の誕生

  4. 交易帝国シュリーヴィジャヤ

  5. ボロブドゥールを建てた人々

  6. ヒンドゥー・ジャワ文化の形成

  7. 栄光のマジャパヒト王国

  8. イスラム教の拡大

  9. オランダ人の到来

  10. 進む植民地化

  11. オランダ領東インドの完成

  12. 独立運動と日本の占領・統治

  13. インドネシア共和国の成立

  14. スハルトの「新秩序」

  15. 民主化、混乱、そして……?

ここがポイント!

仮想インドネシア歴史ツァー

参考文献

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ジャワ原人の故郷
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 氷河時代にはインドネシア周辺の海は干上がり、島々はつながって「スンダ大陸」を形成していました。この豊かな古代大陸には前期旧石器時代からずっと人類が住み着き、インドネシアは人類進化の一大舞台となったのです。

人類の進化
@猿人→A原人→
B旧人→C新人
 100〜65万年前には中部ジャワのサンギランに「ピテカントロプス・エレクトゥス」と呼ばれる原人が存在し、旧石器文化を保持していました。

 時代が下り、20〜15万年前になると、旧人段階に相当する「ソロ人」が、やはり中部ジャワのソロ川流域に住んでいました。

最初のインドネシア人
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 1万2000年前に登場した新人タイプの「ワジャク人」は原住のネグリトやプロトマレー人種へと分化。
 紀元前5000年頃には東南アジア大陸部からスマトラ方面へ中石器文化を持った原モンゴロイド(黄色人種)も入ってきますが、現在のインドネシア人の直接の先祖と言えるのは、紀元前1500年以降、インドネシア方面に南下してきた「アウストロネシア(オーストロネシア)語族」という南方モンゴロイド集団です。

 うち、「インドネシア語派」の「西インドネシア語群」は、根栽農耕と海洋通商文化を携えて前500年以降、ジャワスマトラに広まって、現在のジャワ人スンダ人マレー人などの祖先となるのです。


国家の誕生
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 東南アジアには紀元後1世紀頃からインド商人が多数来住し、その影響下、4世紀にはサンスクリット語とヒンドゥー教を奉ずるインド型の初期国家が誕生します。
 ジャワでも遅くとも5世紀には国家が成立、「タルマ国」のプールナヴァルマン王が碑文を残しています。
 同じ頃カリマンタン東部でも、ムーラヴァルマン王がインドネシア最古の文字記録と言われる「クテイ碑文」を書いています。

 6世紀末には、同じインド型国家でもヒンドゥー教ではなく大乗仏教を保護する国が登場、のちのシュリーヴィジャヤ王国やシャイレーンドラ朝を予告します。


交易帝国シュリーヴィジャヤ
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 インド型国家の中でも最も栄えたのが、7世紀後半からスマトラのパレンバンを中心に勢力を広げたシュリーヴィジャヤ王国です。マレー族が築いた海上貿易帝国で、大乗仏教を奉じましたが、活動の大半は経済的利益の追求に費やされました。
 8世紀後半にはマレー半島北部まで勢力を拡大しますが、その発展はシャイレーンドラ朝の勃興で中断されます。

ボロブドゥールを建てた人々
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 8世紀後半、中部ジャワに突如出現したシャイレーンドラ朝は、周辺国を征服して一大軍事国家を築き、有名な大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てます。
 しかし9世紀前半には早くも勢力を失い、その後スマトラにはシュリーヴィジャヤ王国が復活、中部ジャワには新興勢力サンジャヤ朝が勃興します。


ヒンドゥー・ジャワ文化の形成
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 9世紀半ば以降、中部ジャワで権力を握ったサンジャヤ朝は、大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てたシャイレーンドラ朝の向こうを張って、華麗なヒンドゥー遺跡プランバナンを築きました。

 ところが10世紀前半、(おそらく)メラピ山の大噴火により中部ジャワは壊滅、サンジャヤ朝の末裔(ジャワ族)は東ジャワへ落ち延びます。
 東ジャワに移ったジャワ族の文化は大きく変容を遂げます。中部ジャワであれほど巨大石造建築にこだわった人々が、東ジャワでは一転して、演劇や文学、音楽のような観念的な世界に没頭するのです。
 ここで形成された「ワヤン」などのヒンドゥー・ジャワ文化は、その後現在に至るまでジャワ独特の民族文化として保持されます。

 東ジャワは1016年、シュリーヴィジャヤ王国の攻撃で壊滅的打撃を受けますが、英雄エルランガ王が復興し、その子孫たちはクディリ王国を築いて栄えます。


栄光のマジャパヒト王国
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 その後インドネシアは戦国時代となります。
 シンガサリ朝は1222年クディリ朝から国を奪い、血なまぐさい権力争いを経て、13世紀末クルタナガラ王の時代に最盛期に達します。王は周辺諸国を服属させ、元(モンゴル)の使節をも侮辱して追い返すほどの勢いを示しました。

 が、1292年、王はクディリ朝遺臣ジャヤカトワンに暗殺され、シンガサリ朝は滅亡。
 そこへ折悪しく、モンゴルの遠征軍が到着します。

 この危機を救ったのはクルタナガラ王の女婿ラーデン・ヴィジャヤでした。
 彼は元軍と共にジャヤカトワンを倒した後、元軍を追い払い、マジャパヒト王国を建国したのです。

 マジャパヒト王国は14世紀半ば、名宰相ガジャ・マダの下、最盛期を迎えます。版図は歴代王国で最大になり、文学・建築などの分野でヒンドゥー・ジャワ文化は頂点を築きました。
 王国は15世紀末、沿岸イスラム都市国家の執拗な攻撃を受けて崩壊し始めるまで、繁栄を続けました。



イスラム教の拡大
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 西インド起源のイスラム教が東南アジアに最初に定着したのは、13世紀末のスマトラ島北端でした。
 しかしイスラム教が東南アジア各地に広がり始めるのは、マレー人が14世紀末に建てた貿易大国マラッカ王国が15世紀後半にイスラム化してからです。
 マラッカはイスラム布教の基地となり、マラッカの貿易路に沿ってイスラム教は広まってゆきました。

 ジャワ島北岸に誕生したイスラム港市国家群は、1480年代以降激しくマジャパヒト王国を切り崩してゆきます。
 沿岸諸国のうち最も優勢だった中部ジャワのドゥマクは、16世紀初めには西ジャワを征服、16世紀後半には中部ジャワ内陸部へ進出します。
 間もなくドゥマクが内紛で分裂すると、中部ジャワにはマタラーム王国が独立、大発展し、1590年代には中・東部ジャワを支配、西ジャワにも進出する勢いを示しました。


オランダ人の到来
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 16世紀末ジャワに到達したオランダ人は1602年オランダ東インド会社(VOC)を設立、バタヴィア(今のジャカルタ)を建設しました。
 バタヴィアのVOCはマタラーム王国の攻撃に耐え、イギリスやポルトガルを蹴落として、1640年前後には東洋貿易で独占的な地位を確保しました。
 17世紀後半には諸王国の内紛に乗じ、西スマトラ、南スラウェシ、マタラーム王国などで権益や領土を増やしてゆきます。


進む植民地化
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 マタラーム王国は18世紀前半に3回も王位争いを繰り返してオランダ東インド会社(VOC)の介入を招き、結局1755年にスラカルタ王国ジョクジャカルタ王国に二分されてしまいます。

 しかしVOCの方も、フランス革命の影響で成立したオランダ新政府に1798年に解体されてしまいます。
 オランダ直轄となった植民地は、1811年、イギリスによって占領され、ラッフルズの統治が始まります。
 様々な改革を行ったラッフルズも、植民地を旧オランダ王家に戻すという本国の方針には逆らえず、1816年にジャワを去り、2年後シンガポールを建設するのです。


オランダ領東インドの完成
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 19世紀前半、パドリ戦争 (1821−37) ジャワ戦争 (1825−30) という2大反乱を鎮圧したオランダは、悪名高い「強制栽培制度」を導入、インドネシアから莫大な富を搾り取り、なおも外島の植民地化を進めていきます。

 これが1870年に廃止される頃にはオランダ民間資本の進出が進み、インフラや近代的統治機構・教育制度の整備が進められます。
 その一方で、アチェ戦争 (1873−1904) のような苛烈な征服戦争が相変わらず続けられました。


独立運動と日本の占領統治
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 20世紀初頭、オランダ領東インドが成立すると同時に、「東インド」----1920年代には「インドネシア」という言葉が定着----の独立運動が始まります。

 最初は理解を示していたオランダも、1926年末〜1927年初に共産党の蜂起が起こると態度を変え、活動家を容赦なく取り締まるようになりました。
 スカルノハッタといった人々も1933〜34年頃逮捕されます。

 彼らを監獄から連れ出したのは、1942年3月に進駐してきた日本軍でした。
 日本軍は太平洋戦争遂行のため、インドネシアの資源、人間を必要としていました。そのため「戦後独立」の約束をスカルノらと交わし、彼らの協力を得たのです。
 日本軍は全国住民組織、軍隊など、オランダが決して教えなかったことを教え、インドネシア人に大きな刺激を与えました。
 反面、経済無策、食糧強制徴用、「ロームシャ(労務者)」強制労働などの暴政も敷きました。


インドネシア共和国の成立
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 1945年8月17日、スカルノはインドネシア共和国の独立を宣言しましたが、正式に独立が承認されるのは、再支配をめざすオランダとの戦争後、1949年のことです。

 しかし独立後も内外で反乱が続き、議会政治も腐敗を重ねたので、1955年に最初の総選挙が行われました。ところが総選挙は逆に対立を激化させ、議会は空転、地方反乱やクーデターが頻発。1958年には西スマトラや北スラウェシで軍閥化した地方師団長が一部中央政治家と結んで「暫定臨時政府」を樹立し、インドネシアは分裂の危機に陥りました。
 国軍の力で何とか反乱を鎮圧したスカルノは、勢いをかって1959年7月、強大な大統領権限を規定した「1945年憲法」の復活を宣言、翌年議会を解散して「指導される民主主義」という一種の大統領独裁制を開始しました。

 この体制は国軍と共産党の微妙なバランスの上に成立していました。
 しかし、1963年のマレーシア連邦結成を「新植民地主義の陰謀」と非難、対決政策を開始したスカルノは、西側諸国と対立して共産圏に接近し、国内でも共産党にテコ入れして均衡を崩しました。
 急成長する共産党と国軍との対立が頂点に達した1965年10月1日早朝、国軍内の左派勢力が6将軍1士官を殺害するクーデター未遂事件(9月30日事件)を起こしました。
 この事件をきっかけに、スハルト率いる治安秩序回復作戦司令部は共産党の解体に乗り出し、3ヶ月の間に約50万人に達する大虐殺となりました。
 政治の主導権を失ったスカルノ大統領は、1966年3月、スハルトに大統領権限を委譲するのです。


スハルトの「新秩序」
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 1966年に成立したスハルトの「新秩序(オルデ・バルー)」は、スカルノ時代とはがらりと異なるものでした。
 その政策は、一言で言えば「反共」「開発独裁」です。
 反共の旗を掲げて西側先進国から巨額の援助を受け取り、大型開発プロジェクトで経済成長を実現して政権を維持する、という「開発独裁」は、年平均6.7%経済成長、米の自給、貧困層縮小など、目覚ましい成果を上げました。1973年と1979年に起こった石油ショックも莫大な原油収入を国庫にもたらしました。1976年には東ティモールを併合、国際社会の非難を浴びます。
 総選挙のたびに全軍人・公務員を翼賛政治組織「ゴルカル」に投票させて政治基盤を固めたスハルトは、イスラム原理主義の高まりを恐れ、1983年、キリスト教徒ベニー・ムルダニを国軍司令官とし、パンチャシラ(建国五原則)教育を徹底してイスラム教徒を政治から遠ざけました。しかしベニーが政権を脅かす勢力になったため、彼を1988年に解任、イスラムに再接近を開始します。

 この間成長した華人財閥は、金融自由化で大量の外資を借り入れ不動産投機に走りましたが、1997年秋、アジア通貨危機の到来と共にバブルははじけ、インドネシアは未曾有の経済危機に叩き込まれます。
 物価高騰と米不足は、大統領一族の特権や華人政商との癒着への怒りを呼び、抗議行動と暴動が荒れ狂う中、スハルトは1998年5月21日に辞任を表明、32年に及んだ長期政権の幕を引いたのです。


民主化、混乱、そして……?
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 1998年5月21日、スハルトから突然政権を受け継いだハビビ大統領は、ウィラント国軍司令官と協力して、スハルト派を追い、政治犯釈放、言論自由化、東ティモールアチェイリアンジャヤからの撤兵など、改革路線を順調に進むかに見えました。
 しかし9月以降、スハルト汚職調査引き延ばし、デモ弾圧発言など、ハビビ政権は反動化の兆しを見せ、11月には国会へ向かった学生デモ隊が治安部隊と衝突、16人が死亡(スマンギ事件)。翌1999年1月にはアンボンで血で血を洗う大宗教抗争が発生。アチェでも同年初から独立を求める住民と国軍の間で武力衝突が相次ぎ、独立に向けた住民投票の実施が決まった東ティモールでも併合派と独立派の間で衝突が再開するなど、社会不安が再燃しました。

 1999年6月7日に行われた総選挙では、メガワティ率いる闘争民主党が得票率約35%で圧勝。しかしゴルカルも2位に付き、「ナフダトゥール・ウラマ (NU)」議長アブドゥルラフマン・ワヒド (グス・ドゥル) の民族覚醒党(PKB)、「ムハマディア」総裁アミン・ライスの国民信託党(PAN)を押さえて強みを発揮。また開発統一党 (PPP) などイスラム勢力が政治的発言力を強めたのも特徴です。
 8月30日には東ティモールの独立の是非を問う住民投票が行われ、78.5%の圧倒的多数で独立が承認されましたが、併合維持派が独立派住民への攻撃を強化、事態を収拾できないインドネシア政府は国際的非難にさらされ、9月12日に国連多国籍軍の受け入れを余儀なくされました。
 東ティモールでの失態とバリ銀行への公的資金注入に絡むスキャンダルで10月の国民協議会の不信任を受けたハビビ大統領は、次期大統領選への出馬を断念。10月20日に行われた同選挙では、イスラム系中道会派が擁立したグス・ドゥルがメガワティを破り、第4代のインドネシア大統領に就任しました。
 一方メガワティは翌10月21日に副大統領に選出され、グス=メガによる「兄妹」政権が誕生。さらに国民協議会議長にはアミン・ライス、国会議長にはゴルカル党総裁アクバル・タンジュンが就く等、挙国一致的な政権が生まれました。
 しかし、国民の期待を担って出発したこの改革政権は、グス・ドゥルの放言癖が仇となり、国会や国民協議会(MPR)と摩擦を繰り返し、実効を上げられないうちに、2001年7月のMPRでグス・ドゥルが大統領を罷免されるというお粗末さを露呈しました。
 副大統領から昇格した第5代インドネシア大統領メガワティは、中道保守路線で国民生活を安定させることに成功しますが、アチェ独立紛争では2003年5月19日に反政府勢力の掃討のための本格的軍事作戦を発動させるなど、タカ派的側面も持っています。また、世界的な反テロの流れの中、イスラム過激派を徹底的に取り締まれないという弱点も露呈しました。
 彼女の政権が、インドネシアをどういう方向へ導いていくか、目が離せません。



ここがポイント


仮想インドネシア歴史ツァー

(写真メイン。ちょっと重いですよ。)

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更新日:2003/10/07

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