スカルノ晩年の謎
〔別ウィンドウ表示〕
 1998年5月にインドネシアのスハルト大統領が失脚すると、多くの関係者が一斉に、前代の大統領スカルノからスハルトに、どのように権力が委譲されたかを語り始めた。その証言内容によってはインドネシア現代史が大きく書き換えられる可能性がある。

 ここでは、「権力委譲脅迫説」「毒殺説」を検証してみよう。


権力委譲脅迫説

 スカルノ初代大統領は、1965年10月1日早朝に起こった共産党によるクーデター未遂事件、いわゆる「9月30日事件」以降、政治のイニシアティヴを失い、次第にスハルトに権力を奪われていった。
 そのスカルノが最終的に大統領権限をスハルトに譲った命令書が、1966年3月11日に出された「スーパー・スマール(1)」である。

 ところが、当時の衛兵ウィラルジト氏が1998年8月下旬、「スカルノ大統領は拳銃で脅されて『スーパー・スマール』に署名した」と証言したため、大騒動となった。
 彼によれば、3月10日深夜、ボゴール宮殿を訪問した陸軍将校4人のうち、M.ユスフ陸軍司令官が、持参した文書に署名するよう大統領に要求。問答が繰り替えされた後、大統領はピストルを突き付けた2人の将校に両脇を挟まれ、静かに署名したという。ウィラルジト氏は阻止しようとしたが、大統領自らこれを制した。
 ジョクジャカルタの法律援護協会で証言したウィラルジト氏は、「スハルト前大統領は自叙伝の中で、スーパー・スマールはスカルノ大統領と3人の将校が話し合って決めたと語っているが、これは事実ではない」と訴えたのであった。

 ところが、各界からはさっそく反論が続出した。
 ピストルを突き付けたと名指しされたパンガベアン元大将は、「署名が行われたボゴール宮殿には行っていない」とこれを否定。
 署名に立ち合ったM.ユスフ元陸軍司令官も、「ピストルを持ち込むどころか、脅迫もしていない」と否定。また、彼によれば、ボゴールの大統領宮殿に行ったのはパンガベアン元大将ではなく、陸軍のバスキ・ラフマット少将とアミール・マフムッド准将であり、ボゴール宮殿を後にしたのも、証言にあったように12日午前1時ではなく11日午後8時30分だったとのこと。行方不明の「スプル・スマール」の原本については「スハルト大統領に渡したので知らない」と主張。
 ユスフ氏に近い実業家のカラ・ユスフ氏は、「『スプル・スマール』の草案は、当時の国軍高官と、スカルノ大統領派のスバンドリオ、レイメナ両氏の協議で作成されたもの。ピストルで脅された事実はない」と反論した。

 これらの反論を受けたウィラルジトは9月9日、証言を翻し、「先の証言は誤りだった。(ボゴール宮殿を訪れた)スハルト派の将軍が腰に携えたピストルに手を添えたのを見た」と言い直した。

 10日には警察までが事情聴取に動き出した。
 スカルノ大統領の第2夫人だったハルティニは、大統領が「スーパー・スマール」に署名した時は一緒にいたと言い、「宮殿に来た将校は3人で、パンガベアン大将はいなかった」と証言。しかしピストルを持っていたかどうかについては「知らない」と答えた。
 一方パンガベアン元大将は「当日はジャカルタの陸軍本部にいた」と証言した。

 これまでのやりとりを見る限り、元衛兵のウィラルジト氏の証言はどうも眉唾っぽいという感じがする。
 しかし10月7日に至って、元スカルノ第三夫人デウィ夫人(根本七保子)がジャカルタで記者会見を行い、「政権委譲を命じた『3月11日命令書』は、スハルトによるクーデター」と告発。また65年9月30日の軍事決起行動についても、「9月30日事件は共産党が仕組んだものではない、共産党はスハルト前大統領によってスケープゴートにされたにすぎない」と批判。この事件以外にも米国CIAが関与したクーデター計画の証拠文書を披露するなど、血気盛んである。


暗殺説

 スカルノが死亡した1970年にも、「医師が毒入り注射を打った」という新聞報道がなされたことがあった。
 しかし、疑惑が再燃したのは、1998年9月になって、スカルノの三女スカマワティが「父は確かに毒殺された」と発言したことからだ。
 彼女の発言は、数年に及ぶ軟禁生活ですっかり老け込んだスカルノにとって、どんな薬も毒にしかならなかった、という文脈でなされており、額面通り受け取れるものではないが、腎臓を病んでいたスカルノに対し、「当時の政府が海外での治療を認めなかった」と述べ、スハルト政権がスカルノの死期を間接的に早めたことを批判している。

 ここに追い打ちをかけるように「スカルノ初代大統領を殺したのはスハルト前大統領だ」と証言したのは、元スカルノ第三夫人デウィ夫人(根本七保子)だ。
 10月7日の証言によれば、スカルノは死の前日の夕方6時頃から翌朝4時頃まで大きないびきをかき通しだった(2)。デウィ夫人が5人の侍医に「一体何が起こったのか」と尋ねても、医師らは「上からの厳命で説明できない」と繰り返すだけだった。
 夫人が後に知り合いのアメリカ人とフランス人の医師に聞いたところ、その症状は大量の睡眠薬を投与されたためではないかとの見解で一致したという。
 また、幽閉されていたヤソー宮殿から、嫌がるスカルノを無理やり病院に運んだという当時の女中の証言もあるという。
 夫人によれば、総選挙と独立記念日を間近に控え、スハルト大統領が故意にじゃま者スカルノの命を縮めたというのである。

 「ブン(兄貴)・カルノ」の愛称で国民に親しまれた「独立の父」スカルノは、1965年の「9月30日事件」で一転幽囚の身となり、1967年からはボゴールからジャカルタのヤソー宮殿へ移されたが、外出はおろか子供たちとの面会も制限されるうつろな日々を送るうち、エネルギッシュだった現役時代の面影は見る見る衰え、腎臓を病むようになった。
 スカルノは60年代に片方の腎臓を摘出し、1970年6月21日の早朝に享年69歳で世を去る直前には、残り一つもほとんど機能しない状態だった。

 主治医だったマハール・マルジョノ教授は、スカルノは自然に永遠の眠りについたと断言し、デウィ夫人の告発に対しては「ナンセンス。ブン・カルノは静養していたヤソー宮殿(=現・国軍博物館)で昏睡状態に陥り、急遽陸軍病院に運ばれたがそのまま亡くなった。デウィ夫人は当時国外にいて、危篤の知らせでようやく病院に駆けつけたのだから、入院時の状況など知るわけがない。昏睡時にいびきをかくのは普通のことだ」とコメントしている。
 しかし政府は、スカルノが人工透析や海外での治療を受けるのを認めなかったのは事実。睡眠薬注射説の真偽はにわかには図りかねるが、スハルト政権がスカルノを間接的に“暗殺”したことは間違いないだろう。


1.  Supersmar = Surat Perintah Sebelas Maret(3月11日命令書)の略。これはまた、ジャワの影絵芝居ワヤン・クリットに於ける道化にして最高神スマールをもじった掛け言葉(「超(スーパー)スマール」)にもなっている。
 スーパー・スマールが出される経緯は、一般の歴史書では次のようになっている。
 3月11日、ジャカルタの大統領官邸で閣議が開かれた(スカルノ大統領は「風邪」で欠席)時、官邸前のムルデカ(独立)広場には空挺連隊所属部隊が集結した。「(スカルノと親しい容共派の)スバンドリオ、オマール・ダニ空軍提督を逮捕するため」(ケマール・イドリス陸軍戦略予備軍司令部参謀長)だった。
 この知らせを受けて、スカルノは、スバンドリオ、ハイルル・サレと共にヘリコプターでボゴール宮殿まで逃亡した。
 同日夜、スハルトは、

  • アミール・マフムッド
  • モハマッド・ユスフ
  • バスキ・ラフマット
の3人の将官をボゴール宮殿に派遣した。
 スカルノは彼らの要請に応じ、その日のうちに大統領命令書を作成し、署名した。

2.  1998年10月8日付のインドネシア紙『KOMPAS』より。

前ページに戻るよ 歴史コラム索引へ

©1998 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1998/10/20

ご意見・ご希望きかせてね eden@uninet.net.id
inserted by FC2 system