大統領時代のスハルト
|
インドネシア共和国の第2代大統領。
=性格・特徴=
機の熟するのを待つのが得意。ゲリラ戦でも反乱鎮圧でも、大統領としての統治に於いてもこれを踏襲。
義理堅く部下思い。それが一方では身内に対するえこひいきとなり、過度の癒着体質を作った。
いつも微笑みをたたえていることで有名。
=家族構成=
- 父 Kertosudiro……
- 母 Sukirah……
- 夫人シティ・ハルティナ (Siti Fatimah Hartinah) (愛称ティン)(August 23, 1923〜April 28, 1996)……元カトリック教徒。夫の手綱をしっかり握っていた節あり。1996年に死亡した後、スハルトの気力や判断力はすっかり鈍くなった。
- 長女シティ・ハルディヤンティ・ハストゥティ・ルクマナ (Siti Hardiyanti Hastuti Rukmana) (愛称トゥトゥット)……実業家でメンテン・ミトラサラサ社オーナーのルクマナ氏と結婚。結婚生活があまり上手くいっていないこともあり、ゴルカルでの政治活動に身を入れ、議長職など歴任。
- 長男シギット・ハルヨユダント (Sigit Harjojudanto) ……
- 次男バンバン・トリハトモジョ (Bambang Trihatmodjo) ……巨大財閥ビマンタラ・グループの総帥。
- 次女シティ・ヘディジャティ・ハリヤディ・プラボウォ(Siti Hedijati)(愛称ティティック)……プラボウォ・スビアント退役陸軍中将(元陸軍特殊部隊司令部(コパスス)及び陸軍戦略予備軍(コストラッド)司令官)と結婚。彼は、スハルト大統領の最有力後継者だった。
- 三男フトモ・マンダラ・プトラ(愛称トミー) (Hutomo Mandala Putra) ……新興財閥フンプス・グループを率い、国産車メーカー「ティモール・プトラ・ナショナル」やスンパティ航空などを経営したが、スハルト退陣後は政権との癒着が批判され、巨額の不良債権を抱える。
- 三女シティ・フタミ・エンダン・アディニグシー (Siti Hutami Endang Adiningsih) (愛称マミー)
=趣味=
釣り、ハンティング、ゴルフ
=履歴=
- 1921年6月8日
- ジャワ島中部ジョクジャカルタ市近郊の一寒村Kemusukの、灌漑管理人の子として生まれる。
- 1923〜1939
- 赤貧ゆえ2〜18歳の間、親戚縁者、知人を頼って転々とする。
- 1929〜1935
- ジョクジャカルタとスラカルタ(ソロ)の小学校を渡り歩く。
- 1935〜1939
- ウォリギリとジョクジャカルタのオランダ中学校に通う。
学歴はオランダ中学校のみ。
- 1940
- オランダ領東インド植民地陸軍に入隊。
- 1942
- 日本の軍政開始。蘭領東インド軍にいた経験を買われて警部補となったが、日本人上司の勧めで「祖国防衛義勇軍 (PETA=ペタ)」に入隊。
厳しい軍事教練が軍人として身を立てることを決意させた。
- 1943
- 義勇軍(ペタ)小団長。
- 1944
- 義勇軍(ペタ)中団長。西ジャワのボゴールで士官学校のコースを受講。
- 1945〜50
- インドネシア独立後、国軍の中でとんとん拍子に昇進。
ジョクジャカルタ地区戦闘部隊中隊長、旅団長、司令官を歴任。
- 1947年12
- ウルヤントロのウェドノ(郡長)で、マンクヌゴロ王家につながる貴族ラデン・マス・ンガベヒ・スモハルジョモの娘、シティ・ハルティナと結婚。
- 1948年12月
- オランダは第2次軍事行動を起こし、ジョクジャカルタを占領。
スーディルマン大将はジョクジャカルタ南方、グヌン・キドゥル山中に国軍司令部を設営、スハルトはビビスに連隊司令部を設置した。
- 1949年3月1日
- ジョクジャカルタのスルタン、ハメンクブウォノ9世からジョクジャカルタ奪回の指示を受けたスハルト中佐は、部隊を率い、この日、同市中央を約6時間だけ占領した。
これが名高い「暁の攻撃」だった。
作戦の考案者はスハルトとされてきたが、実際はスルタンだったとする説が根強い。
- 1950〜55
- ディポヌゴロ師団連隊長、参謀本部付を歴任。作戦参謀として名声を博す。
- 1956年3月
- ディポヌゴロ師団の参謀長に。
- 1957年1月
- ディポヌゴロ師団長(大佐)。
。
- 1959年8月
- ナスティオンが腐敗一掃キャンペーンをはじめ、スハルトの“内職”や“寄付”がこれにひっかかる。
- 1959年10月
- ディポヌゴロ師団長を解任される。
- 1959年11月
- バンドゥンの陸軍幹部学校(指揮幕僚学校)の6ヶ月の指揮幕僚課程 (C-II Course) に参加。
家族をスマランに残しての単身赴任。
- 1960年1月
- 陸軍准将に昇進。
- 1960年3月
- 学校卒業後、陸軍参謀本部第1参謀(総括参謀代理)(保安)に就任。
- 1961
- 参謀本部次長、陸軍防空隊司令官を歴任。
- 1962年1月
- 陸軍少将に昇進、東インドネシア方面軍司令官、西イリアン解放の「マンダラ作戦」司令部司令官に任命される。
- 1962年6月
- 三男誕生。西イリアン解放作戦の名にちなみ、フトモ・マンダラ・プトラと名付ける。
- 1962年6月
- スハルトとヤニの「親父」ガトット・スブロト死亡。
- 1963年1月(白石によれば5月)
- 陸軍戦略予備軍〔司令部〕司令官。
戦略予備軍は緊急事態への対応を目的に新設されたエリート部隊。
- 1965年1月
- 「マレーシア粉砕」作戦司令部の副司令官(司令官はオマール・ダニ空軍少将)。
- 1965年10月3日
- 陸軍司令官兼、新設の「治安秩序回復作戦司令部」司令官に就任、「共産党狩り」を推進。
- 1965年10月16日
- 陸軍大臣兼陸軍参謀長。
- 1966
- 陸軍大臣兼陸軍司令官。内閣幹部会議長(陸軍大将)。
- 1966年2月
- 陸軍中将(大将?)に昇進。
- 1967
- 大統領代行。
- 1968
- 大統領。
- 1973
- 大統領再選。
- 1976年6月
- 陸軍退役。
- 1978年3月
- 大統領3選。
- 1983年3月
- 大統領4選。
- 1988年3月
- 大統領5選。
- 1993年3月
- 大統領6選。
- 1998年3月
- 大統領7選。
- 1998年5月21日
- 大統領辞任。
= 関連サイト =
- インドネシア歴史探訪
- ジャワ原人からメガワティまで!
激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
|