スハルト 1921〜
Soeharto
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スハルト (5KB)
大統領時代のスハルト
 インドネシア共和国の第2代大統領。

 =性格・特徴=

 機の熟するのを待つのが得意。ゲリラ戦でも反乱鎮圧でも、大統領としての統治に於いてもこれを踏襲。

 義理堅く部下思い。それが一方では身内に対するえこひいきとなり、過度の癒着体質を作った。

 いつも微笑みをたたえていることで有名。

 =家族構成=

  • 父 Kertosudiro……
  • 母 Sukirah……
  • 夫人シティ・ハルティナ (Siti Fatimah Hartinah) (愛称ティン)(August 23, 1923〜April 28, 1996)……元カトリック教徒。夫の手綱をしっかり握っていた節あり。1996年に死亡した後、スハルトの気力や判断力はすっかり鈍くなった。
  • 長女シティ・ハルディヤンティ・ハストゥティ・ルクマナ (Siti Hardiyanti Hastuti Rukmana) (愛称トゥトゥット)……実業家でメンテン・ミトラサラサ社オーナーのルクマナ氏と結婚。結婚生活があまり上手くいっていないこともあり、ゴルカルでの政治活動に身を入れ、議長職など歴任。
  • 長男シギット・ハルヨユダント (Sigit Harjojudanto) ……
  • 次男バンバン・トリハトモジョ (Bambang Trihatmodjo) ……巨大財閥ビマンタラ・グループの総帥。
  • 次女シティ・ヘディジャティ・ハリヤディ・プラボウォ(Siti Hedijati)(愛称ティティック)……プラボウォ・スビアント退役陸軍中将(元陸軍特殊部隊司令部(コパスス)及び陸軍戦略予備軍(コストラッド)司令官)と結婚。彼は、スハルト大統領の最有力後継者だった。
  • 三男フトモ・マンダラ・プトラ(愛称トミー) (Hutomo Mandala Putra) ……新興財閥フンプス・グループを率い、国産車メーカー「ティモール・プトラ・ナショナル」やスンパティ航空などを経営したが、スハルト退陣後は政権との癒着が批判され、巨額の不良債権を抱える。
  • 三女シティ・フタミ・エンダン・アディニグシー (Siti Hutami Endang Adiningsih) (愛称マミー)

 =趣味=

 釣り、ハンティング、ゴルフ 

 =履歴=

1921年6月8日
 ジャワ島中部ジョクジャカルタ市近郊の一寒村Kemusukの、灌漑管理人の子として生まれる。

1923〜1939
 赤貧ゆえ2〜18歳の間、親戚縁者、知人を頼って転々とする。

1929〜1935
 ジョクジャカルタとスラカルタ(ソロ)の小学校を渡り歩く。

1935〜1939
 ウォリギリとジョクジャカルタのオランダ中学校に通う。
 学歴はオランダ中学校のみ。

1940
 オランダ領東インド植民地陸軍に入隊。

1942
 日本の軍政開始。蘭領東インド軍にいた経験を買われて警部補となったが、日本人上司の勧めで「祖国防衛義勇軍 (PETA=ペタ)」に入隊。
 厳しい軍事教練が軍人として身を立てることを決意させた。

1943
 義勇軍(ペタ)小団長。

1944
 義勇軍(ペタ)中団長。西ジャワのボゴールで士官学校のコースを受講。

1945〜50  
 インドネシア独立後、国軍の中でとんとん拍子に昇進。
 ジョクジャカルタ地区戦闘部隊中隊長、旅団長、司令官を歴任。

1947年12  
 ウルヤントロのウェドノ(郡長)で、マンクヌゴロ王家につながる貴族ラデン・マス・ンガベヒ・スモハルジョモの娘、シティ・ハルティナと結婚。

1948年12月  
 オランダは第2次軍事行動を起こし、ジョクジャカルタを占領。
 スーディルマン大将はジョクジャカルタ南方、グヌン・キドゥル山中に国軍司令部を設営、スハルトはビビスに連隊司令部を設置した。

1949年3月1日  
 ジョクジャカルタのスルタン、ハメンクブウォノ9世からジョクジャカルタ奪回の指示を受けたスハルト中佐は、部隊を率い、この日、同市中央を約6時間だけ占領した。
 これが名高い「暁の攻撃」だった。
 作戦の考案者はスハルトとされてきたが、実際はスルタンだったとする説が根強い。

1950〜55  
 ディポヌゴロ師団連隊長、参謀本部付を歴任。作戦参謀として名声を博す。

1956年3月
 ディポヌゴロ師団の参謀長に。

1957年1月
 ディポヌゴロ師団長(大佐)。 。

1959年8月
 ナスティオンが腐敗一掃キャンペーンをはじめ、スハルトの“内職”や“寄付”がこれにひっかかる。

1959年10月
 ディポヌゴロ師団長を解任される。

1959年11月
 バンドゥンの陸軍幹部学校(指揮幕僚学校)の6ヶ月の指揮幕僚課程 (C-II Course) に参加。
 家族をスマランに残しての単身赴任。

1960年1月
 陸軍准将に昇進。

1960年3月
 学校卒業後、陸軍参謀本部第1参謀(総括参謀代理)(保安)に就任。

1961
 参謀本部次長、陸軍防空隊司令官を歴任。

1962年1月
 陸軍少将に昇進、東インドネシア方面軍司令官、西イリアン解放の「マンダラ作戦」司令部司令官に任命される。

1962年6月
 三男誕生。西イリアン解放作戦の名にちなみ、フトモ・マンダラ・プトラと名付ける。

1962年6月
 スハルトとヤニの「親父」ガトット・スブロト死亡。

1963年1月(白石によれば5月)
 陸軍戦略予備軍〔司令部〕司令官。
 戦略予備軍は緊急事態への対応を目的に新設されたエリート部隊。

1965年1月
 「マレーシア粉砕」作戦司令部の副司令官(司令官はオマール・ダニ空軍少将)。

1965年10月3日
 陸軍司令官兼、新設の「治安秩序回復作戦司令部」司令官に就任、「共産党狩り」を推進。

1965年10月16日
 陸軍大臣兼陸軍参謀長。

1966
 陸軍大臣兼陸軍司令官。内閣幹部会議長(陸軍大将)。

1966年2月
 陸軍中将(大将?)に昇進。

1967
 大統領代行。

1968
 大統領。

1973
 大統領再選。

1976年6月
 陸軍退役。

1978年3月
 大統領3選。

1983年3月
 大統領4選。

1988年3月
 大統領5選。

1993年3月
 大統領6選。

1998年3月
 大統領7選。

1998年5月21日
 大統領辞任。



= 関連サイト =

インドネシア歴史探訪
ジャワ原人からメガワティまで!
 激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
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更新日:1998/08/31, 12/05

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