マホメット (正しくはアラビア語で「ムハンマド」)によって創唱された宗教。
正確には「(アル=)イスラーム」と発音。「マホメット教」、「回教」、「フィフィ (回回) 教」などと呼ばれたこともある。
〔特徴〕 厳格な一神教
〔神〕 アラー
〔聖典〕 『コーラン』
〔教義〕 六信 (アラー、天使、啓典、預言者モハメット、来世、天命) と五行 (信仰告白、1日5回のメッカ礼拝、ラマダーン月の断食、喜捨、メッカ巡礼)
〔教祖〕 マホメット
〔成立年〕 610年頃
〔宗派〕 スンナ派 (正統派) とシーア派 (少数派) に大別され、ほかに分派としてハワーリジュ派、ワッハーブ派など。
元来は中東アラビアに発した民族宗教だが、現在は世界宗教として、北アフリカ〜西アジア〜インド〜東南アジアを中心に分布。「ムスリム」と呼ばれる信者は推定で6億人。
=Contents=
起源
教義
宗派
社会への影響
歴史
=COLUMN=
イスラムの国家原理 ---イスラム世界と西欧社会の相互理解のために
= 起源 =
アラビア半島の西ヒジャーズ (ヘジャズ) 地方に位置するメッカ (アラビア語ではマッカ Makka) は、古代からインド洋〜シリア間の交通路に当たり、キャラバン (隊商) 貿易の中心地として繁栄していた。
またメッカにあるカーバ神殿は古くから聖地としても知られ、アラブの遊牧諸部族は、それぞれの部族神の偶像を共同でカーバ神殿に祀り、年に一回巡礼した。その期間、部族間の戦争は休戦で略奪も中止する習慣があった。
カーバ神殿には当時、ホバル、マナート、アッラート、アル・ウッザーなど多数の神像が祀られていた (一説ではカーバ神殿の御神体は隕石) 。
このように、メッカはちょうど経済的にも豊かで、社会的にも周辺アラブ諸族の宗教・文化センターとして発展しつつある時期だった。
当時のアラブ社会では遊牧民が最高層とされ、商人も遊牧民になろうと思っていたが、メッカ商人の経済力は従来の秩序を揺るがすほど大きくなりつつあった。
また、経済活動の活発化、都市化の進展は、貧富差の拡大、都市問題など新たな問題を生み、遊牧民の部族信仰では対応しきれなくなっていた。
これらがイスラーム勃興の背景となった。
- 6世紀頃
- クライシュ族がメッカを支配するようになり、カーバ神殿の守護者の地位も占有。
マホメットは、クライシュ族ハーシム家の商人として生まれた。
- 610
- マホメットはヒラー山中で啓示を受ける。
- しかしマホメットの教団は迫害を受ける。そこで……
- 622年7月16日 ヒジュラ ヘジラ [英]
- マホメットは親友アブー・バクルらと共にメッカからメディナ (アラビア語ではマディーナ al-Madina) へ計画的に移住した。これを「ヒジュラ (ヘジラ [英]) 」と呼び、「聖遷 (せいせん) 」「遷都」などと訳されるが、元来はアラビア語で移住のこと。
この日がヒジュラ暦 (イスラム太陰暦) の紀元に当たる。
- マホメットがメディナに築いた社会は、理想のイスラム共同体 (ウンマ) とされる。
- 630年1月
- マホメットがメッカを再征服、カーバ神殿の偶像を破壊。
- 631 マホメット、アラビア半島を統一
- 632年6月
- マホメットがメディナに病没。
アブー・バクルが後継者 (カリフ) となり、それ以後イスラム教はシリア、エジプトなどへ普及し始める。
= 教義 =
「イスラーム」という言葉はアラビア語で (アッラーへの) 「絶対的帰依」または「全き平安」を意味する。
例えば『コーラン』3の17には、「まことにアッラーに於ける教えこそイスラムなり」とある。
イスラム信仰の基本は、以下に示す6つの事柄を信じ、5つの勤行を行うことである。
これらを六信五行と称することがあり、これら「信 (イーマーン)」と「行 (イバーダー)」を完備した者のみが「ムスリム (イスラム教徒) 」と呼ばれる。
〔イーマーン (信心) 〕
次の6つを信じる。
- 唯一の至高神アッラー……「アラー」とも。正確には「アッラーフ (Allah) 」。全知全能、初めも終わりもなく、その力は無辺際に及び、至全至善。万物を創造し、かつ滅ぼす。
アラビア語の「神 (alla:h) 」に発し、イスラム以前の一神教教団ハニーフでも唯一神の呼称として使われていた。
- 天使……アッラーの手伝いをする存在で、罪を犯さない。
- 啓典……聖典『コーラン』及びそれ以前にアッラーが人類に与えた諸聖典。キリスト教の『旧約聖書』も含まれる。
イスラム教の根本聖典『コーラン (Koran) 』は、正しくはアラビア語で 『(アル=) クルアーン (al-Qur'an) 』と言い、マホメットが晩年22年ほどの間にアッラーから下された啓示を書き記したもの。114章から成り、現在の形にまとめられたのは第3代カリフ、ウスマーンの時代。
内容は、神の唯一性 (タウヒード)、ユダヤ教やキリスト教とも共通する天地創造から「最後の審判」に至る人類史の他、儀礼的規範、徳目・礼儀・作法、婚姻・相続・売買・刑罰などの法的規範まで多岐に渡り、神の言葉としてイスラム教徒の全生活、全行動を規制する。
- 預言者……神の言葉を伝える預言者は、『コーラン』に述べられているだけで25人おり、その他にも各時代に各民族にアッラーの預言者がいたが、マホメット以前の偉大な預言者としては、
- アダム
- ヌーフ (=ノア)
- イブラーヒーム (=アブラハム)
- ムーサー (=モーゼ)
- イーサー (=イエス)
の五者が上げられる。
彼らに対し、マホメット (正確にはアラビア語で「ムハンマド」) は、最大にして最後の預言者という位置付け。
但し、神の子ではなく、あくまで人間。
- 最後の審判……この世の生はかりそめであり、最終の審判とあの世の生活の存在を信じる。
- 天命……アッラーの定めた運命。
〔イバーダー (信仰の五つの柱) 〕
次の5つを実行する。
- シャハーダ (信仰告白、念真)……「私は、アッラーの他に神はなく、マホメットはその使わし人であることを証言いたします」と唱えること。
- サラー (礼拝、礼真)……毎日5回、次の時刻に「キブラ (メッカのカーバ神殿を中心とする6塔のモスクの方向) 」に向かってアラビア語で礼拝を行う。
- スブフ = 早朝
- ズフル = 午時
- アスル = 午後
- マグリブ = 日没
- イシャー = 夜
- サウム (断食、斎戒)……「ラマダーン」 (ヒジュラ暦 (イスラム太陰暦) 第9月)の昼間に一切の飲食、喫煙、香料、性行為などを絶つこと。但し病弱者、生理中の女性などは免除される。
- ザカート (喜捨、捐課 (えんか) )……「ザカー」「サダカ」とも。現世の財産は悪魔が与えたものであり、来世の苦悩の源だが、その一部をアッラーに捧げれば、残りの分まで清くなる、という考えに基づく。
イスラム法の観念では、土地を私有しない限りムスリムに納税の義務はないが、宗教的な義務として所有物の一部を拠出させられるザカートは、事実上の租税として機能。但しその用途は困窮したムスリムの扶助に限定されるため、「救貧税」とも呼ばれる。
- ハッジ (巡礼、朝勤)……アラビア語で「巡礼」を意味し、特にムスリムによるメッカのカーバ神殿及びメッカ北郊の聖地への巡礼を指す。
ヒジュラ暦第12月7〜10日までの間に行われ、その最終日はムスリム2大祭礼の一つ、供犠祭 (くぎさい) に当たる。
巡礼の方法は『コーラン』には規定されておらず、マホメットの「決別の巡礼」が先例として踏襲されているが、そこには多神教時代の巡礼儀式が多く含まれている。
以上に「ジハード (聖戦)」を入れることもあり、また「シャハーダ (信仰告白)」の代わりに「タハーラ (清め、清浄)」を入れることもある。
〔ハディース (Hadith、伝承) 〕
「伝承」を意味するアラビア語で、マホメットの言行 (スンナ) に関する伝承を指す。
「スンナ」とはもと「所行」の意味だったが、のちにマホメットの言行を意味するようになり、およそムスリムの体得すべき模範的生き方となり、ひいては一種の慣習法として、宗教・倫理,法慣行における判断の基準となり、コーランに次ぐ重要なものとなった。
個々の伝承は、本文と伝承者の名前を列記した部分からなる。
多くのハディース集が存在するが、その形式は、項目ごとに分類したものと伝承者のアルファベット順のものとがある。
しかし信仰上は『コーラン』が基本であり、ハディースは慎重に扱わないと危険。
= 宗派 =
多数派の正統派であるスンニー派と、少数派異端とされるシーア派に大別できる。
その他に様々な分派が存在する。
〔スンニー派〕
「スンナ派 (Sunna) 」とも。
ムハンマドの言行「スンナ」に従う人びとを意味する。
スンナ派には分派はないが、「シャリーア (イスラム法) 」の解釈をめぐって、次の4法学派に分けられる。
- マーリク派……北西アフリカ、スーダン
- ハナフィー (ハニーファ) 派……トルコ、中央アジア、アフガニスタン、中国、インド
- シャーフィイー派……東南アジア、南アラビア、南インド
- ハンバル派……はじめシリア、イラクに分布。のちに中央アラビアのみとなり、ワッハーブ派を生む。
なお「シャリーア (sharia) 」とは、以下の法源と『コーラン』を照らし合わせ、儀礼的規範 (浄め、礼拝、断食、巡礼など) と、法的規範 (婚姻,相続,犯罪,裁判など) を包括する一種の慣習法。ウラマー (学識者) や裁判官の個人的判断に委ねられる部分も多い。
- スンナ……預言者の言行
- イジュマー……イスラム共同体の一致した意見。主にウラマーによって表明されることが多い。
- キヤース……類推
〔シーア派〕
「シーア」とは「シーア・アリー (アリーの党派)」の略で、第4代カリフのアリーとその子孫のみを正統と認め、それ以降の歴代カリフの正統性を否認する一派。
預言者マホメットはアリーに秘義を授けて自らの後継者としたとし,彼を初代のイマーム (教主、無垢・無謬の指導者) とする。
イマームは死んだのではなく"隠れ"ており、マフディーとして再臨するという思想など、神秘主義的側面をもつ。
宗教上の実践ではスンニー派と大差ないが、フサインの殉教を悼むアーシューラー儀礼、宗教的抑圧の下では信仰を隠すこと (タキーヤ)を認める点などが特徴。
イスラム世界に於ける不平分子、例えばアラビア人と差別待遇を受けたイラン人などが多く支持。
アリー以降、誰をイマームと認めるかで議論が分かれ、次のような分派が発生した。
- 十二イマーム派……シーア派最大の派。「ジャーファル法学派」とも。
1502年サファヴィー朝成立以来イランの国教的存在で、他にイラク南部、ペルシア湾岸、レバノン、インド、パキスタンなどにも分布する。
マホメットの血縁であるアリーを初代イマームとして、この男系を12代まで認める。
9世紀に12代イマームは“隠れ”たとし、世界終末時に再臨して正義を行うとする。
イマームが隠れている間は法学者がイマームの意図を知ってウンマ (イスラム共同体) を導く。このため法学者 (ウラマー) が最高権威として認められ、その学識に応じて「ホジャトル・イスラム」、「アーヤトッラー」、「マルジャエ・タクリード」などと呼ばれる。
- イスマーイール派……シーア派の6代目イマーム、ジャーファル・アッサーディク (c.699〜765) の後継者に、一部の者たちは、その子ムーサー (c.745〜799) を認めず、その兄イスマーイール (?〜760) の子ムハンマドこそ正統な7代目であり、しかも最後のイマームであると主張した。これがイスマーイール派である。
同派は9世紀後半から、インド、中央アジア、北アフリカに勢力を持ち、ファーティマ朝の国教ともなった。
10世紀にイラクのバスラを本拠に活動した秘密結社「イフワーン・アッサファー」は、同派の教義と新プラトン主義的ギリシア哲学の総合を図った『ラサーイル・イフワーン・アッサファー』なる大部な百科全書的論考を残して西方世界(たとえばダンテ)にも影響を与え、同派の理論的支柱となった。
しかしのち分裂を重ねて、以下のような諸派を生じた。
- カルマット派……一種の共産主義に基づく秘密結社で、9世紀末にイラク南部で社会革命運動と結びついてアッバース朝を脅かす。12世紀中にほぼ絶滅したが、東部アラビアのアフサーでは18世紀頃まで地方政権を維持。
- ニザール派……1090年から約150年間、イランのアラムートに山中本拠地を構え、あらゆる敵を暗殺するという方針でセルジューク朝の宰相,将軍らを殺した。暗殺の戦士に大麻ハシーシュを与えて勇気づけたので、アラビア語でハシーシーン (大麻を吸う人) と呼ばれ、ヨーロッパの十字軍士も彼らを「アッサッシン」、この派の首長を「山の長老」と呼んで恐れた。英語のassassin(暗殺者)はこれに由来する。
1256年モンゴル軍に滅ぼされた。
- ドルーズ派……「ハーキム派」とも。イスマーイール派から分かれて11世紀にシリアで成立。ファーティマ朝カリフのハーキムを神格化する。その教儀は秘儀的で、周辺イスラム教徒からは異端視される。レバノン南部とそれに隣接するシリア、イスラエルの一部に約90万人の信徒がいる。
- アラウィー派……「ヌサイル派」とも。イスマーイール派信仰が、キリスト教及びシリアの土俗宗教の伝統と結びついた宗派。秘伝の奥義を有する。シリア、レバノン、トルコ南西部海岸に広がり、シリアでは人口の1割を占め、アサド大統領をはじめバース党、軍の有力指導者らが信者。
- ザイド派……イェメンの国教。
〔その他の分派〕
- ハワーリジュ派……イスラム最古の分派。
657年アリーがムアーウィヤとシッフィーン (イラク) で戦い和議を結んだ時、これを不満として分離。特異な教義を発展させた。
以下のような分派を生んだ。
- ムルジア派……ハリージュ派と反対にウマイヤ家のカリフを正統と弁護。「善行の不信者より悪行の信者の方がまし」
- スーフィー派……イスラムの形式主義に対し、神秘主義を持ち込む。
迫害を加えられ、922年には大立者ハッラージュが磔になる。しかし大勢力を得るようになる。
ガッザーリー (アルガゼル) はスーフィー思想 (スーフィズム) と正統派神学の調和を目指した。
〔近代イスラム改革運動〕
- ワッハーブ派……18世紀半ば、アラビア半島中央高原ネジド地方で、ムハンマド・ビン・アブドゥル・ワッハーブ (1703-87) が厳格な復古主義に基づく教えを展開。
『コーラン』とスンナへの復帰を唱え、法学上はハンバル派を採用し、中世の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を受けている。信徒は徹底した禁欲的態度が要求される。
イブン・サウド家の勢力拡大と結びついてアラビア半島全域に広がり,のちのサウジアラビア建国の原動力となった。現在サウジアラビア王国の国教。
- バーブ教……19世紀中頃、イランのミールザー・アリー・ムハンマドが唱える。
- バハーイ教……バーブ教開祖ミールザーの門弟バハー・アッラーが興す。
- アフマディー派……「アフマディア運動」とも。19世紀末のパンジャブ地方に出現。キリスト教、ヒンドゥー教の要素を取り込む。
- マフディー派……1881年東スーダンで、ムハンマド・アフマドが自らを終末論的なマフディー (救世主) であると宣言、ジハード (聖戦) を呼びかけて対英反乱を指導し、マフディー教団国家を建設した。1885年にはハルトゥームでゴードン将軍を破ったが、同年アフマドが死ぬと同国家は衰退、1898年イギリス軍に滅ぼされた。
= 社会への影響 =
ムスリムは『コーラン』を憲法とし、「シャリーア (イスラム法) 」を個別の法律として信仰生活を送る。
しかし現実には社会の秩序は個人の自覚に待つだけでは成り立たない。法を強制的に執行する機関が必要である。この観点から初めて、イスラム社会では国家や政府というものが正当化される。
- ウンマ……「イスラムの共同体」を指すが、生活を主体とする村落共同体的なものではなく、正義の実現や、イスラム世界を発展させることなどの使命を共有する運命共同体的なもの。
ヒジュラによって預言者がメディナで実現した共同体が理想とされる。
- ウラマー……アラビア語「アーリム (alim) 」の複数形で、「学識ある者」の意味。一般にはイスラムの学者や宗教指導者層を指し、具体的にはハディース学、神学、法学、コーラン注釈などの伝統的諸学を修得した人々である。
イスラムでは信者を同列におくため、ウラマーの特権は認められない。従って彼らは聖職者ではなく、社会生活面では学者、教師,裁判官 (カーディー)、モスクの管理者などの職業に就いている。
- カリフ……初期イスラムの最高指導者の称号。アラビア語で正しくは「ハリーファ (khalifa) 」。
本来は「代理者」「継承者」を意味し、632年マホメットの没後アブー・バクルが教団の指導者となった時採用された。
ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝などの君主が使用し、政治的な指導者である「スルタン」に対して、イスラム共同体 (ウンマ) の精神的権威とされた。
なお、オスマン朝ではスルタンがカリフを兼ねた時期があった (スルタン=カリフ制) 。
カリフの制度は1924年、トルコでケマル・アタテュルクによる「トルコ革命」で最終的にイスラム世界で廃止された。
- スルタン……「サルタン」とも。正しくは「スルターン」。11世紀のセルジューク朝に始まるイスラム王朝の君王の称号。
イスラム世界の精神的権威である「カリフ」から、その保護者として世俗政治を司ることを認められ、称号を授かるという形をとった。
このほかのイスラム世界の君主の称号としては、アミール、マリク、シャー (イラン系) などがある。
- イマーム……イスラム教徒の集団の指導者を意味するアラビア語。礼拝の指揮者、ある地域の指導者などを指す場合もある。
スンニー派ではカリフをこの名で呼ぶが、シーア派ではマホメットの女婿アリーの直系の子孫でなくてはならないとされる。また両派を問わず、学徳すぐれた者の尊称としても使われる。
- マフディー……「正しく導かれた者」を意味するアラビア語。
初期イスラムにおける4人の正統カリフなどを呼ぶ場合もあるが、普通は、世界の終末に現れて正義を実現する者として、メシア (救世主) の意味で使われる。これは、イマームの「隠れ」と「再臨」を特徴とするシーア派独特の思想としばしば結びつくが、メシア思想はスンニー派にも見られる。
近代以降、終末論的マフディーと称された人物には、スーダンのマフディー派の指導者ムハンマド・アフマド、1979年メッカのカーバ神殿占拠事件を起こしたグループが奉じたカフターニーなどがいる。
- モスク……イスラムの礼拝堂。正しくはアラビア語で「マスジド (masjid) 」と言い、「平伏する場所」を意味する。
主堂は長方形の大きな堂で、メッカに向かう壁にミフラーブを設けて龕 (がん) を装飾し,そのわきに説教壇 (ミンバル) を設ける。堂の前には回廊で囲まれた中庭があり、中央に噴水があって、信者は礼拝前に身を清めるようになっている。のちには堂の左右に1〜6基のミナレットが建てられた。
地方・時代により種々の要素が混じり合い、ミナレットの形や堂のドームの形等は多様である。
- ミフラーブ……モスクの壁面に設けられる龕 (がん) 。イスラムでは礼拝の対象としての偶像を排斥し、その代わり聖地メッカの方角に面した壁に装飾したミフラーブを設けて、これを礼拝の目印とする。
- ミナレット (minaret) ……モスクに付属して建てられる高塔で、僧がこの上から礼拝の時刻の到来を告げる「アザーン」を流す。
「マナーラ」とも呼ばれ、光を意味するアラビア語の manara から転訛した語。古くは上方に光を点じて標識としたと言われるが明らかでない。
= 歴史 =
- 657
- 最後の正統カリフとされる第4代カリフ、アリー(カリフ位656-661)が、ウマイヤ家のムアーウィヤとシッフィーン (イラク) で戦い、和を結ぶ。 → これを不満とする人々が「ハワーリジュ派」として分離。
- 661
- アリー、暗殺される。 → アリー支持者は「シーア派」結成。
- 680
- アリーの息子でシーア派第3代イマーム、フサインは、ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアが息子ヤジードをカリフの継承者と定めたことに反発して挙兵。
しかしカルバラーでウマイヤ朝軍に包囲され戦死した。
シーア派ではこれを殉教と見なして精神的よりどころとし、毎年ムハッラム月の最初の10日間にその死を悼む殉教祭 (アーシューラー) が行われる。
- 8世紀初め
- ウマイヤ朝(661〜750)はイベリア(スペイン)半島からインダス川流域に至る最大版図を実現。
- 765
- シーア派第6代イマーム、ジャーファルが死に、後継者を巡り「イスマーイール派」が誕生。
- 786-809
- アッバース朝(750〜1258)最盛期のカリフ、ハールーン・アル=ラシードの治世。
- 9世紀
- シーア派の第12代イマームは隠れ”たとする「十二イマーム派」成立。
- 9世紀後半
- 「イスマーイール派」がインド、中央アジア、北アフリカに勢力を持つように。
- 901〜906
- イスマーイール派から分離した「カルマット派」の反乱。イラク南部に一時政権を樹立し、アッバース朝を脅かす。12世紀頃まで勢力保つ。
- 922
- 「スーフィー派」のハッラージュが磔になる。
- 973
- アルジェリアに独立したイスマーイール派のファーティマ朝(909-1171)は、969年エジプトを征服、この年にはカイロに遷都し、シリアやアラビアに支配を広げた。
- 10世紀
- イラクのバスラに、イスマーイール派の教義と新プラトン主義的ギリシア哲学の総合を図った秘密結社「イフワーン・アッサファー」が存在。
- 11世紀
- セルジューク朝トルコ帝国が中央アジアから拡大、1055年にバクダードに入城、カリフから「スルタン」の称号を得てシーア派を押さえ、イスラム世界に君臨。
- 11世紀
- シリアでイスマーイール派から「ドルーズ派」分離。
- 1090
- イランのアラムート山中にイスマーイール派から分離したニザール派の国家が誕生、「暗殺教団」として恐れられる。
- 12〜13世紀
- ヨーロッパの十字軍遠征が中東のイスラム諸国に打撃を与える。
- 12世紀末〜13世紀初頭
- アフガニスタンのゴール朝がインド侵入 → 北インドのイスラム化の進展と、デリー・スルタン朝の成立。
- 13世紀頃
- スーフィー派がヒンドゥー教に影響を及ぼす。
- 13世紀前半
- モンゴルによる中央アジア〜中近東のイスラム諸国征服。
- 1256
- 「暗殺教団」 (ニザール派) 、モンゴル軍に滅ぼされる。
- 1502
- シーア派「十二イマーム派」がイランにサファヴィー朝を建国。以来イランでは十二イマーム派が支配。
- 1538 オスマン朝トルコ帝国がメッカを支配下に
- オスマン・トルコ(13世紀末-1922)は16世紀に急膨張し、ハンガリー、シリア、メソポタミア、エジプト、そしてアラビアを征服。
- 16世紀
- イスラム教の影響を受け、ナーナクが一神教的・偶像否定のシーク教を組織する。
- 18世紀半ば
- アラビア半島中央高原ネジド地方で、ムハンマド・ビン・アブドゥル・ワッハーブが「ワッハーブ派」を創始。
- 19世紀中頃
- イランのミールザー・アリー・ムハンマド、「バーブ教」を開く。
その門弟バハー・アッラーは「バハーイ教」を興す。
- 1881
- 東スーダンで「マフディー派」旗揚げ。
- 19世紀末
- パンジャブ地方に「アフマディー派」出現。
- 20世紀前半
- サウディアラビアが「ワッハーブ派」を錦の御旗に勢力を伸ばす。
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