大乗仏教の歴史 (概説)
三つの時期に分けて考えることが出来る。
(1) 前1世紀〜後300 形成期
紀元後2世紀頃、ナーガールジュナがアーンドラ王国で大乗教学を大成。 → 北西インドのクシャーナ朝などで発達。 → ここを拠点に、中国へは2世紀頃から伝わっている。
(2) 300〜600 発展期
グプタ朝朝を中心として最盛期。中国でも北魏などで栄えた。
しかし、グプタ朝に見られたヒンドゥー民族文化復興の流れには逆らえず、7世紀中ごろからインド仏教は バラモン教 (ヒンドゥー教) に影響されて密教が現れる。
中国仏教はこの時期は摂取の時期 (5世紀〜6世紀後半) で、中央アジアのクチャの仏僧クマーラジーヴァ (鳩摩羅什) (350〜409,又は344〜413) が、384年クチャを破った前秦の遠征軍に連れられて涼州に至り、さらに後秦の後涼征服後、後秦王に迎えられて長安に入って布教に従事したが、特に仏典の翻訳作業は名高く、この訳経家に刺激され、中国仏教は発展を始める。北魏では大乗仏教保護政策が取られた。
(3) 600〜1200 衰退期
インド仏教は密教化著しく、特にベンガルのパーラ朝では7〜12世紀の間、大乗・小乗に代わって栄えた。密教は、大乗教学の理論的帰結と、民間の呪術儀式(特にヒンドゥー教のそれ)とが融合して生まれたものであり、人間の本能を、理想実現の手段として認め、実践を重んじた。
密教はそれ自体として中国や日本に伝えられる一方、7世紀にはチベットに伝わってラマ教 (チベット仏教)を生み出した。ラマ教はモンゴル人にも伝わり、モンゴル征服下の元代中国でも行われた。
中国仏教は独立発展の時期 (6世紀後半〜8世紀半ば) を迎え、智ギが法華経を中心に天台宗を開き、仏教を完全に中国化し、道シャクの浄土教は唐初期の善導によって中国仏教として大成した。
ところが唐代になってインド留学僧・玄奘 (げんじょう) がもたらした「唯識仏教」が一世を風靡するようになった。唯識派は、ナーガールジュナの系譜を引く中観派に代わってインド大乗仏教の主流となっていたものである。この影響下、唐初には律宗、華厳宗が、少し遅れて禅宗、真言宗が起こり、これら諸宗は玄宗の治世に最も隆盛となり、教理においても、ほとんど密教に吸収されかかっていたインド仏教を凌ぎ、中国独特の仏教として栄えた。
その後、中国仏教は、実生活に役立つ方向に進み (751〜1120)、禅宗は貴族階級で、念仏宗は庶民階級で栄えたが、南宋頃から単なる継承の時期 (1121〜1910)に入って衰えた。
なお、インド仏教は12世紀の末ごろ、イスラム教徒が南部ビハールを占領するに至って衰え、ほぼ消滅してしまった。
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