ポルトガル
Portuguesa [ポ] / Portugal [英]
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 ヨーロッパ南西端、イベリア半島南の国。

〔地勢〕

 東部スペイン国境地帯は丘陵性の山地が続き、最高点はエシュトレラ山脈中の標高1991m。
 西部大西洋岸には海岸平野が開け、海岸には潟湖、砂丘が多い。
 北部にはドウロ川が西へ流れる。
 中部ではテージョ川が南西へ流れる。首都リスボンはその河口に位置する。
 南部ではグアディアナ川が南へ流れて大西洋に注ぐ。

 北緯40度線が国土のほぼ中央を通り、北部は西岸海洋性、南部は地中海式気候を示す。

〔住民〕

 インド=ヨーロッパ語族ラテン系ポルトガル人が主で、公用語はポルトガル語。90%はカトリック教徒。


= ポルトガル小史 =

 
紀元前10〜8世紀
 フェニキア人が植民。
 現在のリスボンの地に街を建設。

前9〜7世紀
 北方からケルト系民族が到来。先住のイベリア人と混血し、ケルト・イベリ族を形成した。

前6世紀
 古代ギリシア人が現在のポルトガルに到着。
 彼らがこの半島をイベリアと名付ける。

201 BC
 第2次ポエニ戦争でカルタゴを撃ち破った古代ローマがイベリア半島に進出。

154 BC
 古代ローマ帝国の侵略。当時はルシタニア (ポルトガル中部〜イベリア半島内陸) と呼ばれた。

147 BC
 ルシタニアで古代ローマの支配に対する抵抗運動。

139 BC
 抵抗指導者ウィリアトス没。

133 BC
 スキピオ率いる古代ローマ軍、全イベリア半島を占領。
 ルシタニアはローマの属州となる。

61 BC
 カエサルの遠征。オリシポ (現・リスボン) などに都市を建設し、イベリア半島のローマ化が進む。

1世紀半ば
 現在のポルトガルの地にキリスト教が伝来

3世紀
 ポルトガルのキリスト教化が進む。

411
 ゲルマン系スエヴィ族がガラエキア (ポルトガル北部〜スペイン西北部) に侵入 → スエヴィ王国を建設。

507
 西ゴート王国、ガリアでフランク王国に撃退され、イベリア半島中央部トレド (スペインの古都) に移動。 → いにしえのルシタニアもその支配下に。

585
 西ゴート王国がスエヴィ王国を征服、イベリア半島を統一。

589

 西ゴート王国がキリスト教で異端とされたアリウス派から、正統派のカトリックに改宗。

711
 西ゴート王国の後継者争いに乗じ、イスラム帝国ウマイヤ朝のタンジール知事ターリク・ビン・ジヤードがジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入。西ゴート王国を滅ぼす。
 ポルトガルもイスラム帝国の支配される。

756
 ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーンがスペインに逃れて後ウマイヤ朝を建設。

868
 ドウロ川以北を占領していたイベリア半島北部のキリスト教国アストゥリアスの国王アルフォンソ3世は、ドウロ川の河口の街ポルトカレを占領し、ヴィマラ・ペレス伯爵に与える。
 伯爵の血をひくメンデス家は、ポルトカレ周辺に勢力を拡大。

10世紀
 アストゥリアス王国が勢力を伸ばす。

988
 イスラム勢力がアストゥリアス王アルフォンソ3世からコインブラ地方を奪う。

11世紀前半
 ナバラ王国のサンチョ大王 (位1000〜1035) の治世。
 サンチョはカスティリャ伯領も支配下に治め、イベリア半島のキリスト教諸国を統合する勢いを見せた。

1031
 後ウマイヤ朝の最後のカリフ、ヒシャーム3世が死去。
 以後、イベリア半島にはタイファ諸国が乱立。ポルトガルはセビリアとバダホースのタイファ国に支配されていた。

1035
 ナバラ王国のサンチョ大王が死去。 → 王国はナバラ、アラゴン、カスティリアに3分。

1064
 レオン国王フェルナンド1世、コインブラ地方を再占領。

1071
 ポルトカレの支配者ヌノ・メンデス、ガリシア王国と戦って死去。

1085
 カスティリア王アルフォンソ6世がトレドを占領。

1094
 ポルト地方の領主が自立、ポルトガル王国の祖となる。

1086
 ムラービト朝の軍がサグラーハスの戦いにおいてカスティリャ王アルフォンソ6世の軍を破る。
 そこでクリュニー修道院の影響下にあった南仏ブルゴーニュの騎士達が危機感を募らせ、アルフォンソ6世の軍に参加。
 その一人ブルゴーニュ騎士アンリ (エンリケ) はカスティリア王女テレサと結婚。

1096
 ブルゴーニュ騎士エンリケは、ポルトカレ伯爵エンリケ・デ・ボルゴーニャとなる。

1121
 ポルトカレ伯エンリケの未亡人テレサは、トラヴァス家のフェルナン・ロペスと再婚。
 トラヴァス家はポルトカレ伯領を併合した上で、ガリシア王国を再興することを狙っていた。

1126
 しかし、レオン=カスティリャ国王アルフォンソ7世は、サンティアゴ大司教にガリシアの統治権を与えた。
 そこでトラヴァス家とポルトカレ女伯テレサは、サンティアゴ大司教への服属を拒否。
 両者の対立は激化、翌1127年にはポルトカレ各地で焼き討ちが発生。

1128
 ポルトカレの貴族たちはポルトカレ女伯テレサとトラヴァス家に反発、エンリケ・デ・ボルゴーニャの息子ドン・アフォンソ・エンリケスを指導者として蜂起し、ポルトカレ女伯テレサの軍を撃ち破る。 → こうしてドン・アフォンソ・エンリケスはポルトカレで権力を確立、またポルトカレ伯領の自治的傾向が強まった。

 この後、ポルトカレ伯アフォンソ1世エンリケス(エンリケシュ)はカスティリャ王アルフォンソ7世と対立しながらイスラム教徒とレコンキスタ (国土回復) の戦いを進めていく。

1139  オウリケの戦勝
 ポルトカレ伯アフォンソ1世エンリケスがカスティリャ王アルフォンソ7世の軍を撃破。
 以後王を名乗る (ポルトガル王国の成立)。

1143  サモラ条約
 カスティリャ王アルフォンソ7世にポルトガルが王国となることを認めさせる。  コインブラを都にポルトガル王国が独立。

1147
 国王アフォンソ1世、イギリス十字軍艦隊と連合してリスボン (アラブ名:アル・ウシュブナ) の街を占領。

1179
 アフォンソ1世はローマ教皇アレクサンドル3世に臣従、教皇はポルトガルを王国と認める。
 (カスティリャ王国からの完全独立)

1185
 国王アフォンソ1世死去。
 サンショ1世が王位を継承、アルガーヴの都市シルヴェスを占領。

1190
 イスラム諸国がムワッヒド朝の支援を得て反撃を開始。
 イスラム軍はシルヴェスを奪還し、テージョ川近くまで進出。
 両勢力はテージョ川をはさんで対峙。

1212年7月12日  ラス・ナバス・デ・トロサの戦い
 アラゴン、ナバラ、カスティリャ、ポルトガルのキリスト教連合軍がムワッヒド朝の軍隊を撃ち破る。

1249
 アフォンソ3世、ファロとシルヴェスを占領、南部のアルガーヴからイスラム教勢力を駆逐。
 ポルトガル国内でのレコンキスタ (国土回復運動) 完成。

1255
 コインブラからリスボンに遷都。

1279−1325  デニス1世農夫王
 造林、鉱山開発、商業・航海促進で国土を開発。

1297
 アルカニーゼス条約でカスティリャとの国境を画定。
 この国境線は、現在のヨーロッパの国境線の中で最も古いものと言われる。

14世紀以降
 絶対主義化が進められる。

1333
 北アフリカのベニメリネ軍がイベリア半島に上陸し、ジブラルタルを占領。
 ポルトガル王アフォンソ4世はカスティリャ王アルフォンソ11世と連合し、サラダの戦いでイスラム教軍を撃ち破る。
1369
 カスティリャ王国でクーデターが起こり、ポルトガル王フェルナンド1世はアラゴンやグラナダと共に介入するが失敗。
 カスティリャの政権についたトラスタマラ家はポルトガル遠征を繰り返す。

1372〜1385 トラスタマラ朝カスティリャとの戦争 

1385年8月  アルジュバロッタの戦い
 同年5月に即位したジョアン1世 (位1385−1433) は、イングランド軍の支援を受け、アルジェバロッタでカスティリア王フアン1世の軍を撃ち破り、アヴィス朝ポルトガル王国の地位を確保する。

1415年8月
 ジョアン1世は最初のアフリカ領土セウタを獲得。
 この時第3王子のエンリケ航海王子 (1394〜1460) はカナリア群島に探検隊を派遣。

 以後エンリケ航海王子は西アフリカ周航を目指して配下の航海者たちを支援した。
 ただ最近、新航路開拓と航海術向上の最大の功労者としての伝説的偉業は多くが否定されつつあり、その評価は大きく揺れている。

1419  ポルトガルの航海者、マデイラ諸島に到着。

1431  アゾレス諸島に到着。

1445  ヴェルデ岬に到着。

1482  コンゴ川河口に到着。

1488
 バルトロメウ・ディアシュ、アフリカ南端喜望峰を周航。

1495−1521  マヌエル1世 (大王)
 植民地獲得により、王国の黄金時代を現出。
 ヴァスコ・ダ・ガマ、アルブケルケ等を派遣、アフリカ、インド、東アジア、ブラジルとの貿易を独占し、首都リスボンに世界の富を集めた。リスボンにジェロニモス修道院を建立。
 中央集権化を進め、絶対王政を確立。またユダヤ人に改宗を強制し弾圧した。
 ポルトガルは強大な商業国家となるが、植民地からの莫大な富は国民を過度に興奮させ、堕落させた。

1494  トルデシリャス条約
 ローマ教皇アレクサンデル6世は地図に線を引き、ポルトガルとスペインの植民地獲得の勢力範囲を定めた。
 西経 46度 30分を境に、東がポルトガル、西がスペインの勢力範囲。

1498
 ヴァスコ・ダ・ガマ、3隻の船と150人の船員でインド航路を発見。
(1497年11月22日:喜望峰通過、1498年5月20日:インドのカリカットに到達、1499年8月、リスボンに帰還)

1500
 マヌエル1世による第2次インド派遣船隊の隊長ペドロ・アルヴァレス・カブラルは、西進してブラジル海岸に漂着 (4月22日)。
 ブラジルは南米唯一のポルトガル植民地となる。

1505〜1515
 副王フランシスコ・デ・アルメイダ (初代インド総督) とアルブケルケ、ゴア、スリランカ、マラッカ、インドネシア (東インド諸島) にポルトガル商業網を築く。
ただしこの通商帝国は約1世紀しか続かない。

1510  2代目インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケ、ゴア占領。
 ゴアはポルトガル領インド帝国の首都へ。

1511  アルブケルケ、マラッカ占領。

1515  アルブケルケ、オルムズを占領。

15〜16世紀
 アフリカ西岸回りのインド航路の拠点の数々に海岸要塞を築く。これはアラブ人の攻撃を防ぎ、奴隷市場ともなった。

1543
 ポルトガル船が日本の種子島 (たねがしま) に漂着、西欧で最初に日本との接触。
 その後鎖国に至るまで約1世紀両国の交流が続く。

1557
 中国のマカオを獲得した。

1578  アルカサールの戦い
 アヴィシュ朝の国王セバスティアン1世 (位1557−1578) が企てた対モロッコ十字軍は大失敗に終わり、彼とポルトガル貴族の大部分が殺された。
 高齢の大叔父ドン・エンリケが後を継ぐ。

1580〜1640  スペインとの同君連合
 エンリケ1世が後継ぎを残さずに死去したため、アルバ公指揮するスペイン軍が攻め入り、翌年4月、スペイン王フェリペ2世 (ハプスブルク家) がポルトガル王フェリペ1世として即位し、事実上スペインに併合される。
 この間にポルトガルの海外植民地の大部分はオランダとイギリスに奪われる。

1640〜1910  ブラガンサ朝

1640年12月1日
 スペインがカタルーニャの暴動にてこずったタイミングに合わせ、スペインから派遣されていたポルトガル副王マルガリータ王女を逮捕、宮廷革命に成功。
 ブラガンサ公ドン・ジョアンがジョアン4世として即位、スペインからの独立を宣言。

1668
 スペインとの間で和平条約が成立、ポルトガルの独立が承認される。
 主権回復後も植民地国家として発展。

1693
 ブラジル内陸のミナス・ジェライスで金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起きた。

1720
 ブラジルのマット・グロッソでも金が見つかる。

1729
 ブラジルで今度はダイヤモンド鉱床が発見され、ポルトガル経済を潤す。

 首相ポンバル侯爵の教育、財政、軍制改革。

1755年11月1日  リスボン大地震
 現在のアルファマ地区を除く大部分が倒壊。

1758
 国王暗殺未遂事件を契機に、首相ポンバル侯爵が大貴族を弾圧。

1759  イエズス会士の追放。
 首相ポンバル侯爵は王権の伸張を阻害するイエズス会を追放。

1760年代  ブラジルにおける金の生産が激減。

1773
 首相ポンバル侯爵はローマ教皇に働きかけ、イエズス会を解散させる。

1777  イエズス会士の追放。
 国王ドン・ジョゼが死去。
 女王マリア1世が王位を継承し、ポンバル侯爵は失脚し、その独裁に終止符が打たれる。

1807
 ナポレオン軍の侵入。ポルトガル王室ブラガンサ家はいったんブラジルに逃れる。
 イギリスのウェルズリー (1814年以降ウェリントン公) がポルトガルに上陸、撃退。

1810
 フランス将マッセナ、リスボンを攻めるが、ウェリントン公はトレス・ヴェズラシュ要塞で撃退。

1821
 コルテス (身分制議会) が憲法布告。ブラジルから帰った国王ジョアン6世がこれを承認。

1822
 ブラジルに残ったブラガンサ朝の王子がペドロ1世として独立を宣言。
 ブラジルを失ったポルトガルは、衰退の一途を辿る。

1832〜1834  内戦
 1828年に幼女王マリア2世の摂政となった王子ドン・ミゲルが自らポルトガル王を宣言、反動的な統治を始めたため、ブラジル皇帝ペドロ1世が帝位を息子ペドロ2世に譲って娘マリア2世と共にフランスに渡り、1832年、英仏人の傭兵隊を率いてポルトガルに上陸。
 1833年、ペドロ軍の艦隊がドン・ミゲル艦隊を撃破。
 ドン・ミゲルはリスボンから脱出、英仏政府は女王マリア2世の統治による自由主義的なポルトガル政権を承認した。
 1834年、敗北を重ねたドン・ミゲルが降伏し、イタリアに亡命。

1834−1853  マリア2世ダ・グロリア
 保守派と自由派の不断の抗争に悩まされる。騒擾は1847年まで続く。

1842
 ベルナルド・コスタ・カブラルによるクーデター。

1846
 カブラル政権に対する反乱が発生、全国に波及。
 女王マリア2世はカブラルを罷免。また英仏軍の助けを得て反乱を鎮圧。

1849
 再びカブラル派が政権を掌握。

1851
 反カブラル派のサルダーニャが政権に復帰。
 以後、サルダーニャを党首とする「刷新党」と、ローレ公爵を指導者とする「歴史党」の二大政党による安定した政権交代が続く。

1853−1861  ペドロ5世
 サルダーニャが独裁政治を敷くが、1857年デ・ルーレに倒される。

1890
 アンゴラとモザンビークをつなげようとする植民地拡大策の放棄をイギリスから迫られる。代償にウィンザー条約で植民地の保障を得た (1899)

20世紀初頭
 共和主義者が台頭。

1906〜1908
 J・フランコの独裁政府。

1910  革命
 共和制が成立 (ポルトガル共和国)。
 国王マヌエルは国外亡命し、美貌の踊り子ガビー・ド・リスと浮き名を流す。

第1次世界大戦
 連合国側で参加、勝利。

第1次大戦後
 軍部が台頭。

1926年5月
 ゴメス・ダ・コスタ将軍による軍事クーデター。のち、カルモナ将軍に駆逐される。

1932〜1968  サラザールの独裁
 1932年7月、軍部の圧倒的支持の下、サラザールが首相に就任、ファシズム的独裁体制を確立。
 第2次大戦後はアメリカに接近。

 1960年代以降、時代遅れの植民地政策を採るポルトガルに国際非難が集中、各植民地で独立紛争が起こり、ポルトガルの財政を苦しめる。

1961
 インドがポルトガルの植民地ゴア、ダマン、ディウを武力接収 (インドの植民地の喪失)。
 アンゴラでも独立戦争開始。

1962
 学生・労働者の間に反サラザール政権の動きが広まる。

1963
 ギニア・ビサウで独立戦争が始まる。

1964
 植民地モサンビークで独立戦争始まる。

 この頃国際的地位の低下は著しく、西欧の最貧国に落ちぶれる。

1968年9月23日
 サラザールが病気引退。カエターノ政権が継ぐ。

1974年4月25日  軍事クーデター
 カエターノ政権が倒され、サラザール体制が終わる。
 代わって左翼的革命軍事政権が成立。国内民主化、植民地解放 (ギネ・ビサウ、カボ・ヴェルデ、アンゴラ、サン・トメ=プリンシペなど)、基幹産業の国有化、農地改革を実施。
 但し解放した植民地の秩序を保つ姿勢はなく、アンゴラ、モザンビーク、東ティモールいずれに於いても内戦が発生。

1976年4月
 社会主義の色濃い新憲法を制定。

同1976
 民政に復帰、社会党のソアレス政権が誕生。

1982年10月  憲法改正
 社会主義色が薄められる (軍事革命評議会廃止)。

1986  EC(現EU)に加盟。

1999
 最後の海外領土マカオを中国に返還。
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更新日:1999/09/10; 2002/08/31

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