東ティモール
Timor Timur  1976〜1999 / 2002〜
〔別ウィンドウ表示〕
東ティモール地図 (12KB)
(C)読売新聞
 マレー諸島南東部、ティモール島の東半分を占める地域。
 現地のテトゥン語では「ティモール・ロロサエ (Timor Lorosae) 」と呼ばれる。「Loro Sae」とは「日出づる所=東」の意味。

 西ティモール州内に飛び地オエクシを持つ。

[主都]:ディリ
[面積]:1万4874km2 (長野県程度)
[住民]:テトゥン族、ケマック族、ブナ族、マカサイ族、マンバイ族など。固有のイカット (絣(かすり)織り) を産する。
[人口]:82万6000人 (1994)、79万人 (2000)
[宗教]:人口の9割程度がカトリック

 丘陵性山地や草原が多く、コーヒー、ゴム、コプラなどが栽培された。
 2002年現在、産物としては米、とうもろこし、イモ類、コーヒー (輸出用)、原油など。

1512
 ポルトガル人の初来航。

16世紀
 ポルトガルはマルク諸島のアンボンを占領した後、ティモール全島を植民地に。
 当時の特産品は白檀 (びゃくだん)

17世紀
 東南アジア一帯でオランダ人の攻勢。
 オランダはティモール島西部の良港クーパンを占領、ポルトガルと対立。

1661
 西ティモール、オランダ領に。

1701
 ポルトガルは正式に東ティモールの統治を開始。

1769
 ポルトガルは条約により西ティモールをオランダに渡す。

1859
 ポルトガルとオランダ、ティモール島の分割を確認。

1893
 ポルトガルとオランダによるティモール島分割再確認。

1904
 ポルトガルとオランダは東西ティモールの国境線を最終的に確認。

1942
 太平洋戦争により日本軍が進駐。
 連合国が上陸、戦闘等で4万人が犠牲に。

1945
 太平洋戦争終戦。
 西ティモールはインドネシア共和国の独立と共にインドネシア領となる。
 一方東ティモールは、オーストラリアの一時的な統治を受ける。 後、ポルトガルに返還される。

1951
 ポルトガルの海外県として認められ、県都ディリが定められる。

= インドネシア軍事介入を黙認した国際社会 =

 共産主義勢力が東南アジアへ浸透することを恐れた西側は、インドネシアが東ティモールを併合することを暗に認めていた。
 1974年、オーストラリアの労働党ウィットラム政権は、インドネシアのスハルト大統領に、「東ティモールを併合しても承認する」と伝え、1975年の軍事侵攻直前にもアメリカ高官はスハルトと会談していた。
 1976年の併合以来、国連は併合を認めないとする決議を1982年まで毎年採択したが、米豪英日など主要国はこれを無視した。

1974年4月
 ポルトガル本国で左翼軍事クーデタ発生。
 新たに誕生した社会主義政権は、海外植民地を解放することを決定、住民投票の実施を発表。
 ポルトガルの左翼新政権は、確固たる植民地政策を持たず、モザンビーク、アンゴラ、そして東ティモールなどを放り出すようにして独立させた。そのためこれらの地域はいずれもソ連やキューバの軍事援助を受け、戦乱に巻き込まれた。

 東ティモールには以下の勢力が登場。

  • 民主連合(UDT)……穏健派。ポルトガルと連合して数年後の独立目指す。アリ・ムルトポの「特別工作班」が支援。植民地時代の旧支配層中心。

  • 東ティモール独立革命戦線(フレティリン)……即時独立派。社会主義的な「マウベレ」 (文盲の貧民) 主義を掲げてポルトガル左翼革命政権に武器を与えられ、ソ連の軍事援助を受け、共産政権を志向。
     なお、「東ティモール民族解放軍(ファリンティル)」はその軍事部門。

  • ティモール人民民主主義協会(アポデティ)……インドネシアとの合同を訴える。「特別工作班」が支援。

1975年8月
 フレティリンの急速な勢力拡大を恐れるUDTが武装決起して空港などを占拠、内戦状態に陥る。

同年11月28日
 優勢なフレティリンが全土を制圧し、「東ティモール民主共和国」の独立を宣言。

同年11月29日
 UDTとアポデティ、インドネシアへの統合を声明。

同年12月7日
 数千人のインドネシア国軍の「義勇軍」が主都ディリを再占領、本格的な軍事介入開始。
 アメリカ、オーストラリア、日本などは、南ヴェトナム陥落 (1975年4月) に続く共産主義の攻勢を恐れ、東ティモールの「キューバ化」を防ぐためスハルト政権の軍事行動を黙認。 

同年12月17日
 国軍は全土を制圧、傀儡政権「東ティモール臨時政府」を樹立。

 独立派のフレティリンは山中に隠れてゲリラ活動に移行。
 国連は1975年12月の本会議でインドネシア軍撤退要求の決議を採択。

= 国軍の弾圧 =

 1975年の軍事侵攻以来東ティモールで活動した第9軍管区東ティモール地方軍司令官指揮下の部隊には、陸軍特殊部隊の兵士や情報部員が多く、偽装、謀略、流言飛語などによる情報操作を含めた掃討作戦が展開された。
 テトゥン語をしゃべれば迫害され、抵抗する者は容赦なく射殺された。東ティモールの住民のほとんどは家族を殺された経験があり、女性の2割はレイプされたとも言われる。
 住民の大部分が本来のアニミズム信仰を捨ててカトリックに入信したのは、国軍の迫害を逃れる場所が教会しかなかったからだと言われる。カトリック教会は独立運動を側面から支えたため、住民のほとんどの信仰を集めた。
 本来、地理的・民族的に西ティモールと一続きで、独立する理由のなかった東ティモールの住民が、強く独立を願うようになったのは、ひとえに国軍の過酷な弾圧にあると言える。

 他方、国軍、警察官も、1000人を遙かに越える人々が独立派のゲリラ攻撃の犠牲になっており、双方の憎しみが増幅しあう結果となった。

1976年7月17日
 スハルトは東ティモールを27番目の州として併合すると宣言。

1977
 ポルトガルと国連は、インドネシアによる東ティモール併合を認めず住民自決権を要請。1982年まで毎年撤退要求を行う。

1978年末
 フレティリンの最高指導者ニコラウ・ロバトがインドネシア国軍に射殺される。国軍はようやく曲がりなりにも東ティモールを軍事的に制圧。

 インドネシア政府による同化政策(ジャワ人移民政策=トランスミグラシなど)や、軍による弾圧・人権侵害は住民の激しい抵抗を招く。
 併合後10年間のインフラ投資は4300億ルピア。
 だが、この間の弾圧の犠牲者は人口65万の東ティモールで20万人 (国際アムネスティによる) に達し、民心は離反。

1982
 ローマ教皇庁、併合を拒否。

 冷戦が終結 (1991年1月 湾岸戦争勃発、同年12月 ソ連解体) 。
 東ティモール問題は人権問題の象徴として浮かび上がる。「人権外交」に転じたアメリカは批判の矛先をインドネシアに向ける。

1991年11月12日  ディリ事件 (または11月12日事件。西欧では「サンタクルス事件」)
 主都ディリのサンタクルス墓地で国軍が住民に発砲。
 国軍に射殺されたセバスディオ・ゴメスの葬列が、独立スローガンの書かれたプラカードを掲げるデモ行進となり、サンタクルス共同墓地に入った時、国軍と衝突した。
 死者は少なくとも50人以上 (国際アムネスティによれば約180人、人権団体発表では273人)。
 国軍は暴徒化した民衆を鎮めるための発砲で死者は19人と発表したが、たまたま居合わせた西側報道陣が隠し撮りしたビデオが海外で放映されて事実が暴露された。
 スハルト政権は、援助中止を含む国際社会の厳しい反応に

1992年11月
 フレティリンの指導者シャナナ・グスマン司令官が逮捕される。終身刑を宣告され、ジャカルタのチピナン刑務所に服役(のち懲役20年に減刑)

1996年12月
 東ティモール問題の解決に奔走するカルロス・ベロ司教と、亡命中の独立運動家ラモス・ホルタ (東ティモール民族抵抗評議会 (CNRT) 共同代表) が、ノーベル平和賞を受賞。

1998年5月
 インドネシアのスハルト政権崩壊、ハビビ副大統領が昇格。

1998年6月
 インドネシアのハビビ大統領、東ティモールの大幅な自治権を認める「拡大自治案」を提案。

同年8月
 インドネシアとポルトガルの外相会談で、自治権付与による問題解決に合意。

1999年1月12日
 オーストラリア、インドネシアによる併合承認を公式に撤回。

= 武力併合の鬼っ子・民兵 =

 併合以降、国軍や公務員のOBは各村で自警団を組織して独立派ゲリラの襲撃に備えてきた。
 が、1999年1月にハビビ大統領が「独立容認」を打ち出すと、危機意識を持った彼らは団結し、地方ごとの民兵組織を結成。
 主なものは次の通り。

  • アイタラク (とげ)……中心都市ディリに所在。
     副司令官エウリコ・グテレスは、陸軍特殊部隊 (コパスス) 司令官を務めたプラボウォ中将が地方司令官だった頃の「秘蔵っ子」で、ウィラント国軍司令官とは路線を異にすると言われる。1999年の住民投票では独立派と和解の姿勢を見せる。
  • ブシ・メラ・プティ (紅白の鉄)……リキサ所在。
  • ハリリンタル (稲妻)……マリアナ所在。
  • グントゥル (雷)
  • アムルイ

 これらは統一組織ではなく、各グループが別々の司令官に従い、私兵集団としてばらばらに行動。主に東ティモール西部に勢力を張る。

 従来から国軍の情報機関は自警団を利用。ハビビの独立容認表明後は公に支援できなくなるため、同機関が資金を提供して併合派民兵を組織し、「これからは自分で身を守れ」とM16自動小銃など武器を横流ししたと見られる。
 よって、「併合派民兵」とは、以前の「国軍・警察官」が衣装と名前を変えただけだとの見方も多い。

 8月末の住民投票実施後、攻勢を強めた理由は、

  1.  西部地域から独立派を追い出し、併合派の領域を確保する。
  2.  ウィラント国軍司令官ら主流派に対する、プラボウォに近い守旧派の巻き返し。 (国軍内部の勢力争い)。

などが言われている。

 住民投票後に投入された兵力はウィラント派の戦略予備軍で、武装民兵を統制し切れず、民兵による住民襲撃が激化した。

同年1月27日
 ハビビ大統領、東ティモールの独立容認を表明。

同年2月10日
 独立指導者グスマン、収監を解かれジャカルタ市内の自宅に軟禁。

同年4月5日
 リキサで併合派集団「紅白の鉄」が教会を襲撃、5人以上 (ベロ司教によれば25人)を殺害。
 これを受け、グスマンは独立派軍事組織「ファリンティル (東ティモール民族解放軍) 』に武装抵抗を指示。
 この頃から併合派民兵が独立派を襲う事件が頻発。

同年5月5日
 インドネシア、ポルトガル、国連は自治案の是非を問う住民投票を実施することで合意。
 治安維持はインドネシア政府に任され、国連は文民警察官、軍事連絡要員等から成る国連東チモール・ミッション(UNAMET)を展開。

同年8月30日
 自治提案に対する民意を問う直接住民投票(独立か否かを決める住民投票)、実施。
 東ティモールでの投票率は98.2%に達した。

同年9月4日
 国連による住民投票の開票結果の発表。
 78.5%が独立支持。

 投票の結果を不満とする併合派民兵は独立派拠点を中心に激しい襲撃を開始、数日間で600人あまりを殺害。

同年9月7日
 ハビビ大統領、東ティモール全州に「軍事緊急事態」(=事実上の戒厳令)を布告。
 同日、独立指導者グスマンを釈放。

同年9月8日
 「軍事緊急事態」に基づき、インドネシア国軍が軍事行動開始。

 騒乱なかなか収まらず。この間、国際平和維持部隊 (PKF) や多国籍軍の導入を求める国際圧力が高まる。

同年9月12日
 ハビビ大統領、PKFの受け入れを発表。

 国連では、準備に手間取る平和維持部隊ではなく多国籍軍を派遣する方向に話が傾く。

同年9月15日
  国連安保理は、東チモールの治安維持を任務とする多国籍軍の設立を認める決議を採択。

同年9月20日
 多国籍軍第一陣がディリ近郊の空港に到着。

同年10月20日
 インドネシア国民協議会が、東チモールの分離独立を承認。

同年10月25日
 国連安保理は「国連東チモール暫定行政機構 (UNTAET)」の設立を決定する決議 (国連安保理決議1272) を採択。 →  これにより、東チモールを2002年1月31日までの間、実質的に統治する UNTAET が設立。

同年10月30日 (10月30日未明)
 インドネシア国軍が撤退を完了、24年間の駐留に終止符を打つ。

2000年2月1日〜2月23日
 多国籍軍からUNTAET軍事部門へ移行

2000年10月19日
 UNTAET外務担当内閣メンバーにラモス・ホルタCNRT(ティモール抵抗民族評議会)副議長が就任。

2001年1月31日
  国連安保理は UNTAET の権限を2002年1月31日まで延長することを決定。

2001年8月30日
  憲法制定議会選挙実施 → 制憲議会でフレティリンが最大与党に。

2001年9月20日  第2次暫定内閣発足
 憲法制定議会で多数を抑えたフレテリンを中心に、全閣僚が東チモール人。閣僚級20名、準閣僚級5名の計25名。
 マリ・アルカティリ首席閣僚兼経済・開発大臣(フレテリン幹事長、前経済担当閣僚)、ホセ・ラモス・ホルタ外務・協力担当上級閣僚(前外務担当閣僚)など。

2002年3月  憲法制定
 大統領職は実権を持たされず「統一の象徴」に。

2002年4月  大統領選
  グスマンが8割の得票率を得て当選。

2002年5月20日
 「東ティモール民主共和国」が発足、国連から統治権を引き継ぐ。
 大統領=シャナナ・グスマン、首相=アルカティリ(フレティリンの創設メンバー)、国会議長=ルオロ

2004年 (予定)
 この年まで国連が東ティモールの治安維持を支援。
 この年には沖合のティモール=オーストラリア国境線上の海底油田 (ティモール・ギャップ) からの生産が本格化の予定。
前ページに戻るよ 歴史用語インデックスへ

©1998-99 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1999/09/18; 2002/8/31

ご意見・ご希望きかせてね eden@tcat.ne.jp
inserted by FC2 system