ジャワ島中央部にある石造構築物。シャイレーンドラ朝によって建造された世界最大の大乗仏教遺跡であり、カンボジアのアンコール・ワットと並ぶ壮大華麗な東南アジアの代表的遺跡。
〔場所〕 ジョクジャカルタ市の西42km、椰子の樹海広がるクドゥ盆地西南の、やや小高い丘の上
〔時代〕 780〜833年
〔建造者〕 シャイレーンドラ朝
〔属する宗教〕 大乗仏教
〔主な構造〕 一辺120mのほぼ正方形の基壇の上に9層(基壇含む)の壇が積み重ねられ(下部6層が方形、上部3層が円形)、頂上にストゥーパがある。全高35m。各層に仏像や本生譚などが刻され、各層に設けられた回廊をめぐり上るに従い仏教の教義が理解される仕組。
〔特徴〕 整然たる巨大な遺跡は国力の強大さをよく示し、壁面の豊富な仏伝浮彫は特に有名。
〔文化史上の位置〕 インド仏教芸術の影響を受けながら独特の形態と構成を示す。
=Contents=
構造
建設の経過
建設の目的
ボロブドゥール・コンプレックス
「ボロブドゥール」の語源
発掘・修復史
構造
方形基壇への登り口
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全体は、自然の丘を200万個の石(規格化された質の粗い黒灰色の安山岩ブロック)でおおって作った9段の階段状ピラミッド。
底面は一辺119メートルのほぼ正方形。頂上までの高さは35メートル(1)。
- 下6層……
- ほぼ方形で、相似形が順次上へ重なっている。
第1層(基壇(カマダトゥ))を除く5層(方形基壇(ルパダトゥ))には、回廊(幅約2m)の壁に見事な浮き彫りがある。仏伝、、インド古典説話集『ジャータカ(本生譚(ほんじょうたん))』(仏陀の前世の善行を描く)などを題材にした厚肉のレリーフは全部で1,460面。その他に本来の基壇壁面にも160面の浮き彫りがあったが、現在の基壇の下に隠れ、見られない。
一方、壁には仏龕(ぶつがん)があり、計432体の仏像が蓮の花の台座の上に据えられている。
仏像は向いた方角によって結ぶ印(両手の形と位置)が異なる。
- 東向きの仏像……手を地面に付ける「指地」の印(=悪魔を追い払う)を結んだ「阿じゃ(あじゃ)如来(にょらい)」
- 南向きの仏像……「満願」または「施与」の印(=何でも願いを叶えてくれる)を結んだ「宝生(ほうしょう)如来」
- 西向きの仏像……「弥陀定印」または「禅定」の印(=瞑想中であることを示す)を結んだ「弥陀(みだ)如来」
- 北向きの仏像……「無畏」または「施無畏(せむい)」の印(=人々から恐れを取り除いてくれる)を結んだ「不空成就(ふくうじょうじゅ)如来」
但し第5層では東西南北とも「法身説法印」(=仏陀が説法中に結ぶ印)を結んだ「毘盧遮那(びるしゃな)仏」に変わる。
上層円壇のストゥーパ群
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- 上3層……
- 円形の各層(円壇(アルパダトゥ))が同心円上に3段積み重なる。
各層には釣り鐘形の小塔(ストゥーパ)(龕(ずし))がそれぞれ32、24、16基、計72基あり、その中に転法輪の印(=一切の障壁を乗り越えて進む仏法を示す)を結ぶ仏像(おそらく釈迦牟尼(しゃかむに)仏)が入っている。
最上円壇には大ストゥーパ(仏塔)がある。
上層円壇からの眺望
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最下段から全回廊を巡りながら上って行くと、方形基壇(ルパダトゥ)部では、全長3km以上にわたり仏伝レリーフを見て歩くことになる。
そうして仏の生涯や教義を頭に入れた後、円壇(アルパダトゥ)部に到達すると、そこは無数の仏入りストゥーパが入り乱れる曼陀羅の世界。
そこからさらに最上壇へ進むことで、煩悩を捨てた涅槃の境地への解脱を疑似体験できる仕組みになっている。
建設の経過
ボロブドゥールの建設は780年から833年までかかり、その間工事は5期にわたって断続して行われ、その都度デザインが変更された。
- 780〜792 本体の建設
- その間3回にわたって設計が変更された。
主な理由は、建築物がそれ自体の重みで崩壊しそうになったり、地盤沈下を起こしたためだった。
例えば、現在の基壇は、建物の圧壊を防ぐため、後から緊急に付け加えられたもので、そのためやむなくオリジナル基壇の浮き彫りの数々をも隠してしまう結果となった。
- その後約30年にわたって工事中断
- 824 工事再開(この年にボロブドゥールが献納された記録があるという)
- 833 第五次工事終了
- これ以降しばらくは大乗仏教の教団によって維持、管理されていたようだが、やがて忘却の闇へ追いやられる。
建設の目的
頂上の大ストゥーパ
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いくつかの説があるが、決定的なものはまだない。
- ストゥーパ説……ストゥーパとは仏舎利(仏陀の遺骨)などの聖物を収めた塔で、仏寺の塔はストゥーパの一種だし、日本で供養のために墓に立てる白木の板「卒塔婆(そとうば)」もこの種の仏塔を模したもの。
しかしボロブドゥールは仏舎利の保有とは無関係のようだし、このようなタイプのストゥーパも類例がないので、疑問も出されている。
- 曼陀羅説……ボロブドゥールは立体マンダラであると考える。
- 霊廟説……王が死後に住む須弥山(しゅみせん)を象徴したもの?
なお、ジャワではボロブドゥール遺跡を Candi Borobudur (ボロブドゥール寺院)と呼ぶ。
この「チャンディ(candi)」は普通「寺院」と訳されるが、本来は「お墓」という意味である。ジャワ人はこれらの仏教遺跡を昔のお墓と考えていたが、考古学調査が進むに連れ、必ずしも墓地や霊廟でなく、礼拝所や学問所、宮殿などであった可能性も出てきたので、「チャンディ」という言葉の意味自体が変質した、というわけである。
ボロブドゥール・コンプレックス
ムンドゥット寺院
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ボロブドゥールは孤立した建築ではなく、周囲のいくつかの建物と共に一つの巨大なコンプレックス(複合建造物)をなしていたと思われる。
例えば、ボロブドゥールから1750メートル離れたパウォン寺院 (シャイレーンドラ朝第10代インドラ王 (位782-812) の廟と言われる:8世紀末建立) 、パウォンから1150メートル離れたムンドゥット寺院 (東南アジア仏像彫刻の最高作の一つとされる石仏三尊がある:8世紀末〜9世紀初) は、ボロブドゥールから一直線に並ぶ位置に建てられている。
ボロブドゥール一帯は、パウォンやムンドゥットを含む多数の寺院群で構成される巨大な仏教コンプレックスだったのだろう。
ただ、消滅した遺跡も多く、完全な復元は困難で、ボロブドゥール・コンプレックスが何を意味する構築物だったのかは未だに謎である。
「ボロブドゥール」の語源
一般には、
- 「ボロ」=サンスクリット語の「ビャラ(byara)」(「寺、お堂」)の転訛
- 「ブドゥール」=バリ語の「ブドゥフル(beduhur)」(「丘の上」)から派生
との解釈から、「丘の上の僧房」を意味すると言われる。
しかし、近年の研究によれば、ボロブドゥールは当時は古ジャワ語で「カムラン・イ・ブーミサンバラ」、サンスクリットで「ブーミサンバラ・ブダラ」(「悟りの因を助ける様々な善法」)と呼ばれていたらしく、下線部の「バラ・ブダラ」がなまって「ボロブドゥール」となった……というのが本当らしい。
発掘・修復史
- 1814
- イギリスのジャワ総督ラッフルズによって密林の中から発見され、第一次発掘。
- 1842
- オランダ人のクドゥー州理事官ハルトマンによる調査
- 1851〜1854
- オランダによる第二次発掘で壁面の浮き彫りの大部分が掘り起こされる。
- 1900
- オランダはボロブドゥール復元の委員会を任命
- 1907〜1911
- オランダ植民地軍技術将校テオドルス・ヴァン・エルプによる最初の修復作業
- 1973〜1983 ユネスコによる修復作業
- アジアの遺跡としては初のユネスコ主導による修復プロジェクト。10年の歳月と2000万ドルが投じられた。
水による浸食を防ぐため、排水路が付け加えられることになり、遺跡はいったん全部解体された。石には一つ一つ番号が付けられ、コンピューターで管理された。
修復と並行して史跡公園を作るため、遺跡から半径300メートルに住む350戸の農家が強制立ち退きの憂き目に遭い、政府は世論の批判を浴びた。
- 1985 イスラム過激派による爆破テロ
- ストゥーパ(仏龕)9基が破壊されたが修復され、現在その痕跡は残っていない。
註
1. かつては42メートルと言われたが、最近の人工衛星を利用した測量の結果、35.29メートルに修正された。
= 関連サイト =
- インドネシア歴史探訪
- ジャワ原人からワヒドまで!
激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
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