マーライオンと高層ビル群 どちらもシンガポールの象徴である。
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マレー半島南端の島、またはそこに築かれた国。
名はサンスクリット語のシンガプラ=「獅子 (しし) の町」と呼ばれたのが訛ったもの。
低い丘陵性の地形で、全島がよく耕されている。
気候は熱帯海洋性で、年平均気温24〜27℃、季節変化は少ない。
南東岸の自由貿易港シンガポール市を中心に人口が集中し、市街地が発達する。
住民は華人 (中国系)、次いでマレー系、そしてインド系などが多い。
- ジャワでは古く、「トゥマセク」 (=海の町) として知られていた。
- c.1400
- パレンバン王家出身のパラメーシュヴァラ、「マラッカ王国」を開く。
マラッカ王国を中心に、マレー半島にいくつものマレー族の植民地国家が生まれた。
トゥマセクもその一つ。
- 15世紀後半
- マラッカ王国はイスラム化し、交易路に沿って東南アジア各地にイスラム教が伝播。
- 1511
- アフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル艦隊がマラッカを占領 → マラッカ王家は亡命先でジョホール王国を築く。
- 1819
- 英国のラッフルズ、ジョホールのスルタンと協定し植民地経営に着手。
- 1824
- イギリスはシンガポール全島に対する永久領有権、及び完全な主権を認めさせた。
- 1826
- イギリス領「海峡植民地 (Straits Settlements) 」に編入される。
- マレー半島でゴム栽培が始まると、国際貿易港としての重要性は高まった。
また、インド人や中国人移民 (華僑) の中継地点としても発展。
- 1867
- 「海峡植民地」は直轄の「イギリス領マレー」となる。
- 1895
- イギリスは、順次保護国とした内陸部のペラク、スランゴール、パハンなど9つの小国を「海峡植民地」と合併させ、「マレー連邦」を組織。
シンガポールは中でも貿易・軍事上の要地としてますます発展。
- 1941年12月8日
- 太平洋戦争勃発に伴い、日本は英領マレー連邦に侵攻開始。
この日シンガポール郊外に日本軍による最初の空襲。
- 1942年2月15日
- 日本軍がシンガポールを占領、「昭南」と命名。
この直後、日本軍は反日運動に加わったとされる華人男性を連行し大量処刑(シンガポール華人虐殺)。その数はシンガポール側によれば5〜10万人。
日本軍は、(1) マレー人を土着民として優遇、(2) インド人は将来の独立インドの担い手としてやや優遇、(3) 華人は迫害、という差別を行い、民族間の対立感情を高めて分割統治した。
これが戦後社会に悪影響を及ぼす。
- 1946
- マラヤ共産党の勢力が伸張。1月29日にはゼネストを強行。
- 1957
- マレー半島南部のペナンとマラッカが「マラヤ連邦」として独立。
シンガポールは再びイギリスの直轄植民地となったが、自治機運が高まる。
- 1959
- イギリス連邦内の自治州に。
自治州政府首相には、総選挙で圧勝した「人民行動党 (PAP) 」のリー・クアンユー (李光輝)(1923〜 ) (移民4世)が就任。
- 1961
- マラヤ連邦との合併を巡り、与党「人民行動党 (PAP) 」の内部対立激化。
7月、PAPから共産主義勢力が脱退、「社会主義戦線」を結成。
- 1962〜1965
- インドネシア共和国のスカルノ大統領は、「マレーシア連邦」構想に対し対決政策 (コンフロンタシ) を取り、国際世界に緊張をもたらす。
- 1963年9月
- マラヤ連邦、サバ (北ボルネオ) 、サラワク (同) と合同し、「マレーシア連邦」の一員としてイギリスから独立。
- 1965年8月9日
- 民族的・経済的対立から、半ば追い出される形で連邦を脱退し、「シンガポール共和国 (Republic of Singapore) として改めて独立。
引き続きリー・クアンユーが首相を継続。
- 以後、リー・クアンユーは強烈な個性と指導力で工業化を推進、先進工業国に発展させ、華人、マレー人、インド人などを平等に扱い、英語教育による国民統合をはかる。
- 1967年5月
- シンガポールを3年以内にゴミのない清潔な都市にする計画が示され、それ以来緑化とごみ一掃が進められる。
- 1970年代〜
- 目覚ましい経済の高度成長を示し、国際金融センターとしても発展。
- 政治的・経済的には中国人(華人)の勢力が強い。体制的にはリー・クアンユーの人民行動党が一党独裁の形。
- 1990年11月
- リー・クアンユーは首相の座を後継者のゴー・チョクトン (呉作棟) (1941〜 )に譲り、その後も上級国務相としてなおも発言権を保つ。
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