マレー人
Malayan [英]
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 現在、マレー半島、インドネシア、フィリピンに分布するマレー語を話す民族。
 インドネシア語派西インドネシア語群の重要な位置を占め、マレーシアでは最大の民族集団。

〔系統〕 アウストロネシア語族インドネシア語派/西インドネシア語群に属す

〔使用言語〕 マレー語

〔分布地〕 現在主としてマレー半島、インドネシア、フィリピン

〔生業〕 農耕及び(海上)通商

〔属する宗教〕 古くはヒンドゥー教や仏教を受け入れたが、15世紀後半以降はイスラム教。


マレー語

 アウストロネシア語族インドネシア語派の主要言語の一つ。
 7世紀後半のシュリーヴィジャヤ王国の出現以降、スマトラ島東部からマレー半島へと広まり、マラッカ王国が成立した15世紀以降は、ジャワ北岸地方をはじめとするインドネシア各地、さらにはインドシナ半島海岸地方の共通語に発達した。
 現在、母語とするものは、マレー半島とその付近の小島、スマトラ島東部等にとどまるが、マレーシア、シンガポールの公用語として、あるいはインドネシアの国語インドネシア語(バハサ・インドネシア)として、広範に使用される。

 文字は、初めインド系文字、次いでアラビア文字、現在は主としてローマ字で書写される。

 マレーシア内の話し手の数は約8600万人。


マレー人の歴史

紀元前500年以降
  東南アジア島嶼部東部に沿海通商文化の「甕棺葬文化」が成立。
 インドネシア語派の中の西インドネシア語群は、この文化の下で形成されたと考えられる。

前1世紀〜後1世紀
 マレー半島〜スマトラ島は北ベトナムに発祥したドンソン文化の影響下に置かれる。

後1世紀以降
 インドとの通商に伴い、マレー〜スマトラにバラモン教を核としたインドの高文明が流入。

6世紀
  マレー半島で初期国家の誕生。
 「ランカスカ(狼牙脩(ろうがしゅう))」、「頓遜(典孫)」、 「盤盤」、「屈都昆(くっとこん)」などの国名が知られるが、正確な場所や、それを担ったのがマレー人かどうかなどは不明。

7世紀以前
 スマトラ島の中・南部に原マレー人が成立。インド商人からヒンドゥー教、仏教文化を受ける。

644
  「摩羅游(まらゆう)国」が唐に入貢。中部スマトラのジャンビのマラユ王国ことと考えられ、すでにマレー人の王国が存在。

7世紀後半
 シュリーヴィジャヤ王国の興隆。この王国下でマレー人の民族形成が始まる。

8世紀後半
 ジャワからシャイレーンドラ朝が出現、シュリーヴィジャヤ王国を服属させる。

10世紀後半
 シュリーヴィジャヤ王国(あるいは別の国?)の王都パレンバンが再び栄える。

c.992
 東ジャワのサンジャヤ朝のダルマヴァンシャ王がシュリーヴィジャヤに侵入、略奪。 

1016
 シュリーヴィジャヤ王国は報復で東ジャワを襲い、ダルマヴァンシャを殺す。

1017
 チョーラ朝ラージェーンドラ1世(位1012〜1044)の最初の襲来。

1025
 ラージェーンドラ1世はシュリーヴィジャヤ本国(つまりパレンバン)を攻撃、国王を捕らえ、財宝を掠奪した。パレンバンとケダーはほぼ壊滅し、シュリーヴィジャヤ=古代マレー王国の全盛期に幕。

11世紀前半
 東ジャワ王エルランガと争い、譲歩を余儀なくされる。

11世紀末
 マラユ(ジャンビ)が強大化、繁栄の中心はパレンバンからジャンビへ移る。

12世紀後半〜13世紀後半
 マレー半島のナコンシータマラートが大発展し、南インドにまで支配を伸ばす。

14世紀後半
 東ジャワを本拠にしたジャワ族のマジャパヒト王国が大発展、その版図拡大と共にジャワ商人の活動も活発となり、歴史的にマレー人の活動の舞台だったスマトラ島にも勢力を伸ばしてきた。

1380年代
 パレンバンはマジャパヒト王国に征服され、伝統あるシュリーヴィジャヤ王権は滅ぶ。
 この時、多くのマレー族がマレー半島に逃れる。

c.1400
 パレンバン王家出身のパラメーシュヴァラ、「マラッカ王国」を開く。
 マラッカ王国を中心に、マレー半島にいくつものマレー族の植民地国家が生まれた。

15世紀半ば
 マラッカ王ムザッファル・シャー(位1445〜1459)、スルタンを称し、王国はイスラム化。

15世紀後半
 マラッカ王国は全盛期を迎え、交易路に沿って東南アジア各地にイスラム教が伝播。
 イスラム化したマレー世界の秩序はこの時代に形成された。

1511
 アフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル艦隊がマラッカを占領 → マレー人のマラッカ王家は亡命先でジョホール王国を築く。

 この後、マレー人は主にマレー半島で活躍する。

1786
 土侯、イギリスにペナンを譲り渡す。イギリスの海峡植民地の第一歩。

1819
 英国人ラッフルズはジョホールのスルタンからシンガポールを借り受け、植民地経営に着手。

1824
 イギリスはマラッカ取得。

1826
 イギリス東インド会社はペナン、シンガポール、マラッカを併せて「海峡植民地(Straits Settlements)」とした。

1867
 「海峡植民地」は直轄の「イギリス領マレー」となり、イギリスはマレー半島の大半を支配。

1895
 イギリスは、順次保護国とした内陸部のペラク、スランゴール、パハンなど9つの小国を「海峡植民地」と合併させ、「マレー連邦」を組織。

1942
 太平洋戦争開始に伴って、英領マレー連邦は日本に占領された。
 この間、日本の分割統治策の影響もあり、華僑とマレー系住民との感情的対立が激化。

1957
 マレー半島南部のペナンとマラッカが「マラヤ連邦」として独立。

1962〜1965
 インドネシア共和国のスカルノ大統領は、「マレーシア連邦」構想に対し対決政策 (コンフロンタシ) を取り、国際世界に緊張をもたらす。

1963年9月
 マラヤ連邦、シンガポール、サバ (北ボルネオ) 、サラワク (同) が「マレーシア連邦」を結成。

1965年8月
 中央政府と意見が合わないシンガポールは、マレーシア連邦から分離・独立。

1969
 マレーシアでマレー人と華人との衝突事件。これがきっかけでマレーシア初代首相アブドゥル・ラーマンは1970年に辞任。

1970年代
 以後のマレーシア歴代政権は、マレー人を優遇する「ブミプトラ政策」を掲げ、マレー人の経済的向上をはかった。

1980年代
 マレーシアのマハティール首相は、日本や韓国の発展に学ぼうという「ルック・イースト」政策を推進、東南アジア諸国連合(ASEAN)を強化する方向を目指した。
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©1999 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1999/01/20

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