イリアンジャヤ
Irian Jaya
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 ニューギニア (イリアン)島の西半分を占めるインドネシアの州。1999年、「パプア」に改称。
 旧名オランダ領ニューギニア西イリアン
 141°以東はパプア・ニューギニア国に属する。

 東部からは島の脊梁 (せきりょう) をなすマオケ山脈が中部を貫通。ニューギニア島最高峰ジャヤ山 (5039m) もそこにある。
 西部にはチェンドラワシ半島とチェンドラワシ (イリアン) 湾 (旧名ヘールフィンク湾) が連なり、鳥の頭の形をしているので、「鳥頭」半島 (ドイツ語で「フォーゲルコップフ (Vogelkopf) 」、英語で「バーズ・ヘッド (Bird's Head) 」、インドネシア語で「クパラ・ブルン (Kepala Burung) 」)と呼ばれる。
 南半はディグル川流域などの湿原を形成する。

 高温多湿の熱帯雨林気候地域に属し、密林におおわれ、開発は遅れている。
 動物は大部分オーストラリア区に属し、珍種が多い。

 集落は北岸、北西岸に多い。
 住民の大部分はパプア人 (非アウストロネシア系) で、地域・言語によって多くの集団に分かれる。

6世紀末
 シュリーヴィジャヤ王国の政治・経済的影響がパプア地方に及んだ可能性がある。

14世紀
 ジャワのマジャパヒト王国の年代記『ナーガラクルターガマ』の中に、マジャパヒトの領土として、鳥頭部の下顎に当たるファクファク地方と同定されるいくつかの地名が掲げられている。
 この頃西北部やビアク島にアウストロネシア系民族が移住?

15〜16世紀
 鳥頭部チェンドラワシ半島の西海岸方面(特にラジャ・アンパット諸島)のアウストロネシア系住民は、この頃よりマルク (モルッカ) 諸島のテルナテ及びティドーレ両王国と朝貢関係を持つ。
 やはりアウストロネシア系のビアク島民は、マルク諸島を越え、小スンダ列島 (東ヌサ・トゥンガラ) まで移住と交易のネットワークを築いていた。小スンダで「パプア」と呼ばれ恐れられた海賊も彼らのことと思われる。

1526
 ポルトガル人が来航。

1826
 オランダは、パプア地方 (ニューギニア) を、オランダ東インド会社 (VOC) の保護下にあるティドーレ王国に属すると主張。

1828年8月24日
 オランダ王AJ Van Deldenは、ニューギニア領有を宣言。

1885
 ドイツ、イギリスとの間で東経141°以西がオランダ領と認められ、「オランダ領ニューギニア」が成立。

1898
 「オランダ領ニューギニア」の実質的な植民地支配開始。

1949年12月27日
 インドネシア連邦共和国 (翌年インドネシア共和国) 独立。
 その際、オランダ領ニューギニアが連邦に含まれなかったため、インドネシアはイリアンジャヤの領有権を主張してオランダと対立 (西イリアン問題)。

1956年8月17日
 インドネシアはイリアン地方自治省を結成。

1957年12月
 インドネシアは「西イリアン問題」を巡り、オランダに対し資産接収等の強硬手段に出る。

1960  
 インドネシアはオランダと国交を断絶、武力解決の決意を示す一方、国連に提訴。
 この頃からパプア系住民による独立運動が開始。

1961  
 12月1日、オランダは西パプアの国旗と並べてオランダ国旗を掲げることを命令、これを西パプアの独立宣言と見なす。
 これに対しスカルノ大統領は12月19日、インドネシア国旗の掲揚を命じてパプア国家建設を挫折させようとする。

1962  
 1月、西イリアン沖でインドネシア国軍とオランダ軍との間で海戦が発生。
 7月、スハルト少将指揮するインドネシア国軍が西イリアンに落下傘降下、同地域解放の「マンダラ作戦」を開始。

同年8月15日
 アメリカの調停で停戦が成立し、西イリアンは国連仲裁委員会 (UNTEA) の手に委ねられる。

1963年5月1日
 西イリアンは国連の信託統治からインドネシア統治下に移管される。

1965
 インドネシアへの併合に反対する OPM = Organisasi Papua Merdeka ( パプア独立組織 または 自由パプア運動 )が結成される。

1969年7〜8月
 国連監視団の立ち会いの下、各県代表の「自由選択」 (=住民投票) 実施。
 8月2日、西イリアンは正式にインドネシア帰属が決定、インドネシアの26番目の州となる。
 しかしパプア系住民の「パプア独立組織 (OPM = Organisasi Papua Merdeka) 」の独立闘争が続く。

1971年7月1日
 Brigjen Seth J Rumkoremがジャヤプラで「西パプア国」建設を宣言、「大統領」に就任。

1973年3月
 「西イリアン」州は「イリアン・ジャヤ」州に改称。

 イリアンジャヤにはジャワ人の移住計画 (「ジャワ化」政策) が進められ、反発したOPMの「治安混乱運動 (GPK) 」などのゲリラ活動を招く。

1979
 OPMの幹部でゲリラ活動を指導して逮捕されたジョン・オンダワメ、保護を求めてスウェーデンに亡命。

1982年7月3日
 チェンドラワシ大学の学生9人がOPMの旗を掲げて「西パプア国」建国を宣言。

1983〜84
 東部国境でOPMとインドネシア国軍が衝突。
 国軍の領空侵犯や難民の流出が続き、東隣国パプア・ニューギニアとの関係が一時緊張。

1988年12月14日
 Thomas Wainggaiがマンダラヤヤプラで「西メラネシア国」独立を宣言。

 その後のイリアンジャヤの開発は、ニューギニア島東半のパプア・ニューギニア側と比べると遅れてたが、豊かな地下資源が注目の的に。

 1990年代後半には鳥頭のチェンドラワシ半島南部で巨大な天然ガスの埋蔵量が確認され、北スマトラのアルン・ガス田のあとを継ぐ巨大ガス田として注目を浴びている。

1998
 スハルト政権崩壊と共に自治要求が再び活発化。
 7月には住民がインドネシア国軍と衝突。
 10月、ハビビ新政権はイリアンジャヤの「軍事作戦地区(DOM)」指定を解除。

2000年6月3日
 パプア住民集会がパプア独立を決定。
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更新日:1999/03/28, 2000/06/10

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