シュリーヴィジャヤ王国
Srivijaya   7世紀〜14世紀頃
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 古代末〜中世にスマトラ島のパレンバンを中心に栄えた通商国家。

〔時代〕 7〜11世紀が全盛
〔地域〕 スマトラのパレンバン、ジャンビ(マラユ)、さらにマラッカ海峡を越えてマレー半島西岸のケダーまでも含む
〔首都〕 パレンバン
〔特色〕 東南アジア最古で最大の繁栄を誇った国家
〔経済〕 海上貿易に依存
〔文化〕 インド文化の影響を受け、仏教を奉じたが、遺跡等はわずか。

 「シュリーヴィジャヤ(スリウィジャヤ Sriwijaya)」の「シュリー」は接頭語、「ヴィジャヤ」は「勝利」を意味する。
 中国文献には、

  • 唐代……「室利仏逝」
  • 宋代……「三仏斉」
 とある。
 「室利仏逝」は碑文の「シュリーヴィジャヤ」に対応するが、「三仏斉」については異論もあり、10世紀以降もシュリーヴィジャヤが継続したか否かは論争の的になっている。
  1. 第1期:7世紀後半〜8世紀半ば (c.670〜742)……最盛期(「室利仏逝」)
  2. 第2期:8世紀後半〜9世紀 (741〜832)……シャイレーンドラ朝の支配
  3. 第3期:10世紀後半〜14世紀半ば ……再興(あるいは別の交易国家群?「三仏斉」)。但し11世紀以降不振に陥る。
7世紀後半
 すでにパレンバンを中心に広大な領域を支配。
 672年にシュリーヴィジャヤを訪れた義浄によれば、
「西のジャンビ(マラユ)を併合し、マレー半島西岸のケダーをも領有するインド文化の大国」
であった。
 パレンバンを首都、ケダーを副都として12ヶ国を従える大帝国。
 貿易のため大乗仏教を保護する一方、国内では土着の呪術的信仰が盛ん。 

682
 周辺各地に遠征軍を派遣(古マレー語の碑文(683,686)

686
 ジャワ島に遠征(古マレー語の碑文(683,686)

695
 この年までにマレー半島西岸のケダーも支配下に。
 この年から742年までの間、シュリーヴィジャヤは唐に「室利仏誓国」として入貢。

8世紀後半
 マレー半島北部のリゴールまで勢力を伸ばす(リゴール碑文(775)

8世紀後半〜9世紀前半  
 ジャワ中部のシャイレーンドラ朝の支配下に入る。
 (741〜832年の間は、シュリーヴィジャヤに関する史料は全くない。)

9世紀前半  
 シャイレーンドラ朝衰退。

856
 後継者争いに破れたシャイレーンドラ家の王子バーラプトラがスマトラ島に逃れ、シュリーヴィジャヤの王女と結婚して同国の王統を継ぎ、「マハー・ラージャ(大王)」を称した。
 彼がインドのナーランダーに建てた仏寺には、「シャイレーンドラ家のジャワ王の孫」とある。
 その後、唐の滅亡と共に国際貿易は衰え、シュリーヴィジャヤの消息も途絶える。
10世紀後半
 中国に宋(960〜1127)が成立、再び南海貿易が盛んになると、再び隆盛に。
 当時の「シュリーヴィジャヤ」を、中国人は「三仏斉」と書き、イスラム教徒は「セルバザ」、アラブ人は「ザーバジュ」と訛り、インド史料には「ジャーヴァカ」「シャーヴァカ」とある。(1)
 この時代のシュリーヴィジャは南インドのチョーラ朝と友好を通じ、政治・経済・文化などあらゆる面で影響を被った。シュリーヴィジャヤで相変わらず大乗仏教が盛んに行われたのも、大乗仏教の拠点中部インドとの交通が密接に保たれていたからだろう。

c.992
 東ジャワで強大化したサンジャヤ朝メダン王国のダルマヴァンシャ王がシュリーヴィジャヤに侵入、略奪。 

1005
 シュリマーラヴィジョトンガヴァルマン王、南インドのチョーラ朝の地、ネガパタムに仏寺を建立(その寺領地はチョーラ朝のラージャラージャ1世(位985〜1016)が寄付)。シュリーヴィジャヤとチョーラ朝との友好を示す一例。

1016
 サンジャヤ朝メダン王国に対する報復攻撃。ダルマヴァンシャ王は敗死、メダン王国は崩壊。

1017
 チョーラ朝ラージェーンドラ1世(位1012〜1044)の最初の襲来。
 ケダーを奪い、約半世紀の間マラッカ海峡を支配。

1025
 ラージェーンドラ1世はシュリーヴィジャヤ本国(つまりパレンバン)を襲って国王を捕らえ、財宝を掠奪し、各地を攻撃(インド南部タンジョールの一寺院の南壁にはこの遠征の誇らかな記録が刻まれている)。
 この襲撃でパレンバンとケダーは恐らく壊滅。シュリーヴィジャヤの全盛期に幕。

11世紀前半
 東ジャワ王エルランガとも争う。シュリーヴィジャヤはさらに衰退の兆し。

1079〜
 チョーラ朝の弱体に乗じ、マラユ(ジャンビ)が「シュリーヴィジャヤ(三仏斉セン卑国)」として宋に入貢 → 繁栄の中心はパレンバンからジャンビへ移る。

12世紀後半〜13世紀後半
 マレー半島のナコンシータマラートが大発展し、南インドにまで支配を伸ばす。

13世紀末
 東部ジャワのシンガサリ朝のクルタヌガラ王、マラユを一時征服。

13世紀末〜14世紀
 スマトラ島北西端サムドゥラ(別名パサイ国)が交易の中心として栄え、東南アジア最初のイスラム国家となる。

14世紀半ば
 マラユ王国は独立を回復し、束の間の繁栄を手にする。
 一方パレンバンはマジャパヒト王国の侵略を受け、次第に荒廃。

c.1380
 パレンバンは独立を企てて失敗、マジャパヒト王国に滅ぼされた。伝統あるシュリーヴィジャヤ王権は自然消滅。

15世紀
 イスラム化が盛んになる。
 パレンバンは中国人海賊の巣窟となって鄭和(てい・わ)に平定される。


1. これらを「シュリーヴィジャヤ」と見なすのは史料の読み間違いであり、交易国家の連合体を形成していた地域の名称に過ぎず、かつてのシュリーヴィジャヤ(=パレンバン)は今やその国家群の一つに過ぎない−−という説もある。
 この考え方によれば、普通言われるような「シュリーヴィジャヤ帝国」という広範な政治統一体は、10世紀以降は存在しないことになる。

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©1998 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1998/08/31

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