ジャワ島北西岸、チリウン川河口に位置する港町で、現在のインドネシア共和国の首都。
古くは「スンダ・クラパ」「ジャヤカルタ」「ジャカトラ」、オランダ領東インド時代にはバタヴィア(Batavia)と呼ばれた。
海岸に近い北方の旧市街と、それから離れた南の新市街に分かれる。
- 旧市街……「コタ(街、City)」と呼ばれる下町で、バタヴィア時代に形成された
商業街。中国系住民(華人)が多い。
- 新市街……インドネシア共和国独立後に開発された地域で、官庁、学校、住宅街などが集まる。
北部に外港タンジュン・プリオクを持つ。
- 元来はスンダ族の土地で、「スンダ・クラパ(椰子のスンダ)」と呼ばれた小集落だった。
バンテンと共にパジャジャラン王国の外港として機能。
- 1522
- パジャジャラン国王は、ポルトガルのエンリケ・レーメ (Henrique Leme) と協定を結び、スンダ・クラパを彼らの軍事拠点として使用することを認める。
- 1527年6月22日
- バンテン王ファレテハン(ファタヒラー)率いるイスラム連合軍は、ドゥマク国スルタン・トレンゴノ (Trenggono) の命を受け、ポルトガル艦隊を駆逐して良港スンダ・クラパを奪い、ジャヤカルタ=「大勝利」と命名。
これが「ジャカルタ」の語源になった。
- 16世紀
- ジャヤカルタは訛って「ジャカトラ」と変化。日本では江戸時代にジャガタラと呼んだ。
- 1610
- オランダ東インド会社(VOC)の初代東インド総督ピーテル・ボートは、ジャカトラの支配者から約90m四方の土地を借りた。
- 1619
- 第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(任1619〜1623)は、イギリスとパンテン王国の連合軍を打ち破り、ジャカトラ全体を領有し、オランダの古代ゲルマン部族名にちなんで「バタヴィア」と名付けた。
星形の商館兼要塞(バタヴィア城)がスンダ・クラパ港に建てられる。
- 間もなく、マタラーム王国の第3代スルタン、アグンが攻めてくる。
- 1628 第一回バタヴィア総攻撃
- 1629 第二回バタヴィア総攻撃
- いずれもオランダ東インド会社(VOC)は守り抜く。
跳ね橋 現在のは近年鉄筋とアスファルトで再建したもの。
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- 1632 人口調査
- バタヴィア城の南に広がるバタヴィアの町には約8千人が居住。人口の第一位は中国人、次がオランダ人。日本人は83人。
- 1640年代 バタヴィア市の拡大
- オランダ東インド会社(VOC)の発展に伴い、市街地も拡大。
人口急増により、町は東西1kmに広がり、当初の約2倍の面積へ。運河が掘られ、橋が架けられた。運河沿いには、当時の中国趣味で赤や金に塗られたヨーロッパ人の洋風住宅(トコ・メラ)が建てられる。
バタヴィア城の南1kmのところ(現ファタヒラー広場)には市庁舎が建てられる。
バタヴィア市役所 1710年建設。法廷や監獄にも使われ、1999年現在ジャカルタ歴史博物館。
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- 1710
- 市役所を建て替え。この建物は現存(現ジャカルタ歴史博物館)。
エルベルフェルトの首 処刑されたエルベルフェルトの頭蓋骨は槍で貫かれ、自宅跡に晒された。但し現在タナ・アバンの外人墓地にあるものはセメント製の模造 (下の碑銘は当時のもの)。
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- 1721〜22 エルベルフェルト事件
- 1721年末に、何者かがジャワのヨーロッパ人を皆殺しにしてバタヴィアを奪おうとしているという反乱の噂が流布。
当局が下手人として検挙したのはピーテル・エルベルフェルトというドイツ=タイ混血の資産家で、彼が本当に反乱を計画していたかは疑問だが、VOCを憎む日頃の言動が仇となり、拷問の末処刑される。
- 1735
- バタヴィアで最も古いパサール (市) に属するパサール・スネン(月曜市)とタナ・アバンが、大農園の中に開かれ、両者をつなぐ通り (現プラパタン、クボン・シリー通り) も作られた。
これらの地域はVOC総督モッセル (任1750-61) の時代に農園主となったモッセル自身によって、コタの「郊外」となり、「ウェルトゥフレーデン」 (現パサール・スネン〜バンテン広場周辺) の名の下に発展する。
- 18世紀前半
- 中国との茶貿易が盛んになるに連れ、その船で密航する華僑人口が急増
- 1740 華僑虐殺事件(「バタヴィアの狂乱」)
- 増えすぎた華僑(かきょう)の一部を本国送還や、他の植民地へ移送しようとしたところ、華僑の間で「船に乗るとそのまま海に投げ込まれる」とパニックが広がり、多くが市外に逃亡して略奪を開始。
たまたま起こった火事を中国人総決起の合図だと勘違いしたオランダ人と現地人(プリブミ)は、恐怖に駆られて中国人を一週間の間殺しまくった。
犠牲者は1000人とも1万とも言われ、343人しか生き残らなかった。
騒乱の再発を恐れた当局は、華僑をバタヴィア郊外に集団移住させた。それが現在のグロドック地区。
- 18世紀半ば以降
- 従来のコタ(旧市街)より南方のウェルトゥフレーデン (現在の市中央部) に王城広場と総督府が建てられ、新しい中心として発展を始める。
オランダの資本家がコーヒー農園として開いたのが現ジャカルタ中央区 (Jakarta Pusat) 。
その南には、虎、鰐、サイ、それにバンテン王国やマタラーム王国の兵士が出没する危険な森林・沼沢地が広がっていたが、中国人の手でサトウキビ農園として開墾され、のちにメンテン地区となる。
- 1808〜1811 フランス支配下のVOC総督ダーンデルス
- この時代にバタヴィアの中心はコタからウェルトゥフレーデンに移る。
ダーンデルスは老朽化したバタヴィア城を解体、その資材で現バンテン広場向かいにフランス風の新総督府を建設(現・大蔵省の建物)。
また現ハルモニ通りにアジア最古の社交場と言われる「ハーモニー」を建設(1985年に取り壊された)。
- 1829 カテドラル教会建設
バタヴィア裁判所 1870年建設。1999年現在ジャカルタ美術館(兼・陶器博物館)。
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- 1848 最高裁判所建設
国立博物館 右手前にチュラロンコンから贈られた青銅製の象が見える。
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- 1868 国立博物館建設
- タイ王国ラタナコーシン朝 (チャクリ朝、バンコク朝とも呼ばれる現王朝) のラーマ5世チュラロンコン(位1868-1910)から贈られた象のブロンズ像が前庭に飾られているので、「グドゥン・ガジャ(象の館)」としても知られる。
- 1877〜1886
- 外港タンジュン・プリオクの建設。
スエズ運河 (1869) の開通に伴い、大型船舶の直接係留が可能な港として開発され、完成後はインドネシア最大の港湾として機能。
新総督府 1879年建設。1949年インドネシア独立承認に伴い「ムルデカ (独立) 宮殿」と改称。
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- 同じ頃、東南方のメーステル・コルネリス地区 (現ジャティヌガラ地区) に軍施設が建設され、市域が拡大した。
また、人口増加と市域拡大に伴って、パサールもさらに増加・発展した。パサール・スネンの側にはパサール・バルー (「新しい市」の意) 、バタヴィア南郊には果物や鳥かごなどを扱うパサール・ミングー (「日曜市」) が誕生。
- 1879 新総督府(現ムルデカ宮殿)建設
- 1886 タンジュン・プリオク港の開港
エマニュエル教会側面
ジャカルタで最も大きいプロテスタント教会。
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- 1893 エマニュエル教会建設
- 1910年代〜
- オランダ人官吏用の高級住宅街としてメンテン地区が開発される。
- 1942
- 太平洋戦争に際して日本が占領、ジャカルタと改称された。
モナス (独立記念塔)
中央ジャカルタ、ムルデカ広場中央に位置するモナスは、スカルノ初代大統領が独立宣言の翌1946年に建てた高さ137mの塔。ヒンドゥー教のリンガ (男根の象徴) をかたどっており、頂上14mの炎には35kgの純金が貼られている。
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- 1948
- 独立戦争の最中、オランダに占領される。
そこでジャカルタの「衛星都市」として計画されたのがクバヨラン・バルー地区。もともとブタウィ族の住む果樹園地帯で、翌1949年から建設開始。
- 1949
- インドネシア連邦共和国成立。その首都となる。
- 1950年代後半
- 市を南北に貫くタムリン通り、及びスーディルマン通りが完成。ムルデカ広場がクバヨラン・バルーとつながる。
- 1962年8月 第4回アジア競技会
- この時ソ連の援助でスナヤン競技場が建てられた。
- 1966〜77 アリ・サディキン知事
- 剛腕を発揮して市を近代都市へ脱皮させようと努力。
ジャカルタ「封鎖宣言」を無断居住者を強制退去させる一方、市場、保健所、学校、モスクなどを建設し、都市機能の充実を図る。財政を再建し、文化センター「タマン・イスマイル・マルズキ (TIM) 」も建設。
- 1970年代後半〜
- 華人系財閥チプトラ・グループと日系商社がジャカルタ南部を造成・開発、高級住宅街ポンドック・インダー地区が生まれる。
- 1974
- 市中心部のクマヨラン空港が国際・国内両路線でオーバーフローする状況となったため、ハリム空軍基地が国際空港として使われることになる。
- 1985年4月
- ジャカルタ西方20kmのチェンカレンにスカルノ=ハッタ空港がオープン。国際・国内両路線ともに発着。
国内線用に使われていたクマヨラン空港はこれに際して廃止された。
暴動で破壊された銀行 1998年5月14日のジャカルタ大暴動の際、多くの建物が投石・放火の被害に遭った。
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- 1998年5月14日
- 大暴動が発生、約1200人が死亡。スハルト大統領退任のきっかけに。
- 独立後、都市機能が肥大化し、地方・島嶼部の人口が大量に流入してアジア最大の都市となった。
しかし住宅など社会施設が整わず、今も深刻な都市問題を抱える。
英蘭人墓地 ジャカルタ市中心外れタナ・アバン地区には18〜19世紀ヨーロッパ人の外人墓地があり、現在は寂れた公園になっている。
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= 関連サイト =
- インドネシア歴史探訪
- ジャワ原人からメガワティまで!
激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
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