アブドゥルラフマン・ワヒド
Abdurrahman Wahid 1940〜
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 インドネシア共和国の第4代大統領。
 大統領就任以前は、インドネシア最大のイスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ (Nahdlatul Ulama) 」の議長を務めた宗教家・イスラム学者。

 アブドゥルラフマン・ワヒドは、外国では「ワヒド」がファミリー・ネームのようにとられて、「ワヒド大統領」と呼ばれることが多いが、ジャワ人は名字を持たず、「ワヒド」は父の名。本人の名は「アブドゥルラフマン」のみ。
 また、インドネシア国内では「グス・ドゥル (Gus Dur) 」の愛称で知られる。「グス」は東ジャワの名家の息子に与えられる尊称、「ドゥル」はアブドゥルラフマンの省略形で、「ドゥル兄さん」といった意味。


 =家族構成=

  • 4代前の先祖 (曾祖父)……中国系移民。
  • 祖父ハシム・アシュアリ (Hasyim Ash'ari) ……1926年に全国的なイスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ (NU) 」を結成。
  • 父ワヒド・ハシム (Wahid Hasyim) (1914〜1953) ……1930年代よりインドネシアの宗教・民族指導者として活躍、日本軍政期には軍政当局と宗教界のパイプ役となった。1945年、スカルノ大統領の下で国務大臣として入閣、同時にマシュミ党設立に参画。1949−1952年の間3期に渡って宗教大臣を努め、宗教省の原型を作る。1952年にNUがマシュミ党を脱退し、独自政党になってからは、その最高幹部に就任。1953年、39歳の若さで自動車事故で死亡。
  • 母 Solechah……
  • 妻 Sinta Nuriyah……数年前事故で車椅子生活を余儀なくされるようになった。
  • 長女 Alisa Qotrunada……外国報道機関の記者。
  • 次女 Zannuba Arifah……大学院生で、農村で女性解放のためのNGO活動に従事。
  • 三女 Anisa Hayatunufus……大学生。NGO活動に積極的。
  • 四女 Inayah Wulandari……

 =趣味=

 趣味の一つがクラシック音楽鑑賞であることは有名。1999年12月に日本経済新聞の記者と会見した時「日本人の音楽家ではピアニストの内田光子さんが好きだ」と答えている。
 但し、1999年クリスマス祝賀行事でヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」が演奏された時、メガワティ副大統領と一緒に、曲が完全に終わる前から拍手を始めたのを見ると、どこまでクラシック音楽に造詣が深いかは疑問(笑)。

 =履歴=

1940年8月4日
 東ジャワのJombang地方、Denanyarで、インドネシアでも最も影響力の強いイスラム導師の家系に生まれる。

1959〜1963
 Jombang の Tambak Beras プサントレン (伝統的なイスラム寄宿学校) で学ぶ。

1964〜1966
 エジプトの首都カイロのAl Azhar 大学、イスラム及びアラブ高等研究部 (Department of Higher Islamic and Arabic Studies) で勉学。

1966〜1970
 バグダッド大学文学部で文学、社会学を学ぶ。
 バグダッド大学に在学中、たまたまサダム・フセインのバース党による革命に遭遇。
 後にスハルト政権はアブドゥルラフマンを「バース党のメンバー」と非難するが、全く事実無根で、むしろアブドゥルラフマンはいわゆる「社会主義」が社会に何をもたらすか、この時身をもって経験した。

1974〜1980
 インドネシアに戻り、教職の傍ら、雑誌『テンポ』のコラムニストとしてスハルト政権批判を繰り広げる。

1970年代末
 この頃までにアブドゥルラフマンはインドネシアでも最も尊敬を集め、カリスマ性を持ったイスラム学者として名を轟かす。その洗練された話術とジョークが大衆を惹き付けた。

1980年代初め
 アブドゥルラフマンは「ブダヤワン (budayawan) 」=「文化人」との綽名で知られるようになる。
 この頃まではアブドゥルラフマンは第一級の学者として認められており、政治活動は行っていなかった。

1983〜1985
 ジャカルタ芸術委員会議長。

1984
 3500万人の信徒を率いるインドネシア最大のイスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ (NU)」の議長に就任。
 当時 NUはイスラム野党「開発統一党」(PPP)に加わっており、NU議長就任は即、政治活動入りを意味した。しかしグス・ドゥル(アブドゥルラフマン)は、NUの政治活動停止を宣言、PPPからも脱退する。
 NUは伝統的に支配者には唯々諾々と従う空気を持っており、政府に批判的なグス・ドゥルは対立を引き起こしたが、会員の圧倒的な支持を受け、結局は5年の任期を3回も全うし、1999年まで15年も議長を務めることになる。

1986〜
 政府批判を強めるが、その一方で政権と妥協する姿勢も見せ、寝業師的イメージを助長。

1990
 スハルト大統領により、ハビビを会長とする「インドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI)」が組織された時、グス・ドゥルは政治と宗教の癒着を厳しく批判し、これに対抗して各宗教から知識人を集めて「民主主義フォーラム (the Forum for Democracy) 」を結成。

1991
 エジプト政府からイスラム伝道賞 (Islamic Missionary Award) を授与される。

1990年代初め〜
 視力の低下が始まる。

1993
 インドネシアにおける宗教間の融和を進めた功績で、フィリピン政府から「マグサイサイ賞」を受賞。

1994
 イタリアで開かれた世界宗教平和会議の議長を努める。

1998年2月
 発作で倒れ、昏睡状態に陥る。脳外科手術で一命を取り留めたが、数ヶ月に渡って入院生活を余儀なくされた。
 視力も悪化し、一時はほとんど全盲状態に陥った。
 彼の健康問題は遺伝的なもので、彼の両親が近縁関係だったことに起因するとも言われる。

1998年5月21日
 スハルト大統領辞任。

1998年7月23日
 NUの政治部門として「民族覚醒党(PKB)」を結成。再び政治の世界に飛び込む。

1999年
 ヨーロッパ及びアメリカで目の治療を行い、視力に著しい改善が見られる。

1999年10月20日
 国民協議会 (MPR) に於ける大統領選出の投票で、メガワティ候補を破り、第3代インドネシア共和国大統領に就任。



= 関連サイト =

インドネシア歴史探訪
ジャワ原人からメガワティまで!
 激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
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更新日:1999/12/05, 12/25

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