ジャワ人
Jawanese
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 現在インドネシアのジャワ島で最も有力な民族。

〔系統〕 アウストロネシア語族インドネシア語派/西インドネシア語群に属す

〔使用言語〕 ジャワ語

〔分布地〕 現在ジャワ中部・ボルネオ南部

〔生業〕 水稲中心の農耕民

〔社会〕 村落共同体(デサと呼ぶ)のもとに、土地の共有、長老の村長を中心とした相互扶助制度をとる

〔属する宗教〕 古くはヒンドゥー教や仏教を受け入れ、やがて両者の融合したジャワ的密教を信仰したが、15世紀後半以降はイスラム教。


ジャワ語

 アウストロネシア語族インドネシア語派に属する。
 語族中最古の文献(9世紀)を伝え、南インド系(パッラヴァ文字が起源)のジャワ文字に加えて近年ではラテン文字も普及している。
 相手の階級に応じて2種の言語(ンゴコとクロモ)を区別する。
 近年ジャワ人の間にも公用語インドネシア語(バハサ・インドネシア)が普及。


ジャワ人の歴史

 元来は中部ジャワに住み、紀元後数世紀の間、稲作農耕の普及により民族発展の素地が生まれる。

紀元前後〜5世紀
 インド商人を介してヒンドゥー教仏教文化が流入。

5世紀
 ジャワ島に多くの国家が成立。
 『宋書』「南夷伝」に見える「婆達(闍婆婆達)」--435, 449, 451年と宋に朝貢--はジャワ島中部の国だという(生田滋による)。
 当時のジャワは米作が重要な産業だったと思われる。「ジャワ」という名称は「穀物の島」を意味するからだ(生田滋)。  バリ島は重要な地域であり続けた。

7世紀
 中部ジャワに「訶陵」国(中部ジャワ北岸のプカロンガンか?)が存在。

=COLUMN= シャイレーンドラ朝はどこからやってきたか?

  • 8世紀前半
     中央ジャワ南部に登場したシヴァ神を信仰するサンジャヤ朝は、最初のジャワ族の王国と考えられる。
     同王国のサンジャヤ王は732年にリンガを建立、これをこれを記念する碑を、ジャワ中部メラピ山南方、クドゥ盆地のボロブドゥル東南チャンガルにあるシヴァ神殿に建てた。

     同 後半
     そこに仏教を信奉するシャイレーンドラ朝が現れ、サンジャヤ朝を圧倒して周囲に軍事進出。
     その後約100年間、ジャワ族はシャイレーンドラ朝の下で大発展を遂げる。仏教寺院ボロブドゥールも建てられた。

    9世紀後半
     シャイレーンドラ朝は衰え、サンジャヤ朝が復興してヒンドゥー教寺院群プランバナンを建設。

    c.928
     メラピ山の大噴火で中部ジャワ壊滅。
     928年、ジャワ族は東ジャワへと移動し、密林的環境の中、ヒンドゥー・ジャワ文化を形成する。
     『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』等のサンスクリット文学がジャワ語散文に翻訳され、法典も編纂されるなど、ジャワ語による著作が始まった。東ジャワの知識階級は彫刻や建築よりも文学を好んだようだ。
     王室はヴィシュヌ信仰に変わる。

    991〜1016  ダルマヴァンシャ王
     実力を蓄えてシュリーヴィジャヤ王国を攻撃。

    1016
     シュリーヴィジャヤの報復攻撃。ダルマヴァンシャは死に、王国は崩壊。

    1019〜1042
     その女婿エルランガが国を復興し、バリ島を含む東ジャワ一帯を統一(1037)

    1050〜1222  クディリ朝
     ヒンドゥー・ジャワ文化の基礎が完成。
     代表的なジャワ文化が形を整える。影絵芝居ワヤン=クリットはこの頃完成、ジョヨ・ボヨ王の治世には『マハーバーラタ』が翻訳された。

    1222-1292  シンガサリ朝
     第5代クリタナガラ王はジャワ周辺諸国も征服するが、ジャヤカトワンに裏切られて滅んぶ。

    1292〜1293  
     元(モンゴル)軍襲来。
     クリタナガラ王の婿ラデン・ヴィジャヤはモンゴルと結んでジャヤカトワンを倒し、次いで元を駆逐してマジャパヒト王国を建設。

    1350〜1389  ハヤム・ウルック王の統治
     名宰相ガジャ・マダがマジャパヒト王国とヒンドゥー・ジャワ文化の最盛期を築く。
     ジャワ人はこの王国の下で西ジャワやスマトラ方面まで発展し、スンダ人マレー人を圧迫。

    15世紀後半
     北岸地方のイスラム勢力が激しくマジャパヒト王国を攻撃。

    16世紀前半  
     ジャワの大部分はイスラム教のドゥマク国の支配下に入り、ジャワ人のイスラムへの改宗が進む。
     イスラム化したジャワ人は西ジャワを侵略、パジャジャラン王国を滅ぼしてスンダ人を内陸に閉じこめた。

    16世紀半ば  
     ドゥマク国は分裂、バンテン王国マタラーム王国などが独立。

    1586〜1755  マタラーム王国  
     中部ジャワに発して東西ジャワに勢力を伸ばし、ジャワ人のイスラム化を推進。
     1590年代にはスラバヤを除く中・東ジャワ海岸地帯の全港市国家を支配下に置き、西ジャワのバンテン王国を攻撃。

    1628〜1629    
     マタラーム王国のスルタン・アグンは、オランダ東インド会社 (VOC) の拠点バタヴィアへ総攻撃をかけるが、落とせず。
     以後マタラームの勢力は衰え、代わってオランダが急速に進出してくる。

    1755  マタラーム王国分裂  
     オランダは18世紀初めから3次にわたるマタラーム王国の王位継承戦争に介入し、この年の協定で王国をジョクジャカルタ王国スラカルタ王国に分割、保護下に入れた。
     同時にジャワ人も政治的に無力化される。

    1825〜1830  ジャワ戦争  
     ジョクジャカルタ王国のスルタンの子ディポネゴロは反オランダ闘争に立ち上がるが、鎮圧される。

    1910年代以降  
     ジャワ民族主義が高まり、オランダからの独立運動が盛んになる。

    1920年代  
     独立運動はジャワ民族主義を超え、オランダ領東インド全体を対象とした「インドネシア」思想で進められるようになる。

    第2次大戦後  インドネシア共和国成立
     その最も有力な民族として発言力を持つ。
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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/19

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