メガワティ・スカルノプトゥリ スカルノ元大統領の娘でインドネシア第8代副大統領。闘争民主党の総裁(1999年現在)。
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インドネシア共和国の第8代副大統領。
本名ディアー・プルマタ・メガワティ・ストヤワティ・スカルノプトリ (Diah Permata Megawati Setyawati Soekarnoputri)
スカルノ初代大統領の長女。
スハルト政権の妨害にも屈せず、独立戦争世代や一般庶民層などの民族主義者から幅広い支持を集め、自ら率いる闘争インドネシア民主党 (PDI-P) は1999年総選挙で得票率30%以上を獲得して第1党となった。
民族覚醒党 (PKB=国内最大の伝統的イスラム団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)系政党で総選挙では第3党) とも近い関係にあるが、議会の過半数を占めるには至らず、1999年10月の大統領選挙では旧与党ゴルカルとイスラム系政党の連合に阻まれ、苦杯をなめたが、副大統領の座を射止める。
=家族構成=
- 父スカルノ……インドネシア共和国初代大統領。
- 母ファトマワティ……スカルノの第1夫人。
- 夫タウフィク・キエマス (Taufiq Kiemas, 1943〜 ) ……ジャカルタに生まれパレンバンに移り、60年代にパレンバンの大学でスカルノを支持する学生運動に参加。スハルト政権誕生後逮捕され、18ヶ月後に釈放、ジャカルタに戻る。ジャカルタではスカルノ・ファミリーと交友関係を持ち、1970年に他のスカルノ支持者とともに再度投獄されたが、出獄後にメガワティと結婚。
70年代にはタクシーの運転手をしたりタナ・アバンでタイヤを売ったりして生計を立てていたが、1979年にプルタミナや政府内にスカルノの子供たちの困窮に同情する人がいたことから、6カ所のガソリンスタンドの免許を手に入れることでき、経済的に自立、現在では月収2億5千万ルピア (1999年6月) 。
1992年には夫婦で民主党国会議員を務め、1999年の総選挙で南スマトラ代表の国民協議会 (MPR) 議員に当選。
1996年に失脚させられた妻の復権にも多大な努力を払い、1999年総選挙でもメガワティを陰に陽に支えた。但し自身の兄弟を候補者リストに入れる等、縁故主義も見え始め、一部党員から批判されたらしい。
- 長女 M. Rizki Pratama……
- 長男 M. Prananda Prabowo……
- 次女 Puan Maharani……
=趣味=
読書、ガーデニング、ジョギング、フィットネス
=信仰=
夫と2回もメッカ巡礼に行なったれっきとしたムスリム (イスラム教徒)。
だが、祖母(スカルノの母)がバリ貴族であり、バリ島のヒンドゥー教儀式にヒンドゥー教徒の衣装を纏って出席したこともあるので、ヒンドゥー教徒と誤解されることがある。
=履歴=
= 雷と共に生まれたメガワティ =
メガワティが生まれたのは、インドネシアの独立戦争最中の苦難の時期であり、当時スカルノ大統領一家は臨時首都ジョクジャカルタを中心に、転々と逃げ隠れしなければならなかった。
スカルノは自伝の中で娘メガワティの誕生の様子を次のように記している。
雷が鳴っていた。我が妻は特に病院用としてしつらえられた寝室に寝ていた。突然灯りが消え、屋根がへこみ、黒雲が盛り上がって裂け、雨が川のように流れ込んだ。
医者とシスターたちはファトマワティを彼女の寝室に運んだ。彼女は医療器具やベッドシーツと同じくずぶぬれだった。暗闇の中、ろうそくの灯りを頼りに、私たちの娘は生まれた。私たちは彼女をメガワティと名付けた。メガとは雷雲を意味する。
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- 1947年1月23日
- 「独立の父」スカルノ初代大統領の長女として、ジャワ島中部ジョクジャカルタ市に生まれる。この頃は独立戦争の最中で、ジョクジャカルタはインドネシアの首都だった。
- 幼少期をジャカルタのムルデカ宮殿で過ごす。
- パジャジャラン大学農学部 (バンドゥン) で学ぶ。
- 1967
- 幽囚の身となった父と共に過ごすため、パジャジャラン大学を中退。
- 1970〜1972
- インドネシア大学 (UI) 心理学部 (ジャカルタ) で学ぶが、学生運動に関わり、退学。
- 1969
- 空軍中尉 Surindro Supjarso氏と結婚。
- 1970
- 夫Surindro氏、イリアンジャヤで勤務中、墜落事故で死亡。
- 1972年6月
- ジャカルタ在勤のエジプト人外交官 Hassan Gamal Ahmad Hasan 氏と結婚したが、2週間後 (一説にはまだ正式に婚姻が成立する前に) 結婚は取り消された。
その理由は、前の夫が死亡したという正式な証明書が出されていないから、というものだった。
正式な証明書が来たのは1973年で、その時にはもう、エジプトの外交官は帰国していた。
- 1973年3月
- 現在の夫タウフィク氏と結婚。
- 1987
- インドネシア民主党 (PDI) のジャカルタ中央支部の幹部の一人に選出され、政治の世界に足を踏み入れる。
同年、PDIの国会議員として当選。
「ただの主婦に何が出来る」「単なる父親の七光り」などの陰口も叩かれた。
- 1992
- 突然出現したスカルノの亡霊に慌てたスハルト政権は弾圧を開始、この年の選挙戦でPDIがスカルノの肖像画を使うのを禁じた。
にも関わらずPDIは大躍進を示した。
- 次期選挙 (1997年総選挙と1998年の大統領選出) でメガワティが強力な対抗馬になることを予期した政府は、更なる妨害工作に出る。
- 1993
- 政府と軍はPDI党首選でメガワティが勝利しそうになると妨害。そのためPDI総裁選は2回も力ずくで流会となった。
- 1993年12月
- 3度目の大会で遂にPDIの党首に選出される。
- 1996年6月
- スハルト政権は妨害グループに金をばらまいてPDIに内紛を引き起こした。メガワティは北スマトラのメダンに於ける臨時党大会で総裁の座を追われる。
- 1996年7月27日 7月27日事件
- メガワティ支持者らが党大会の無効を訴え、大会後も中央ジャカルタ・ディポヌゴロ通りの党本部を占拠していたが、7月27日早朝に新総裁派が本部を急襲して奪回。その後ジャカルタ中に暴動の火が広がった。
国家人権委員会は、死者5人、けが人149人、行方不明者79人との調査結果発表したが、政府発表とは大きな開きがあり実態は依然不明。また、政府の裏工作についても真相は明らかにされていない。
- 1997
- 政府はPDIメガワティ派の選挙登録を拒否。メガワティも総選挙に出られず、国会議員の席を失う。
しかし政権と面と向かって対決するのは避け、静かな抗議を続けた。
彼女はスハルトの圧政の犠牲となっている人々のシンボルとなり、支持はPDIを遙かに越えて国民一般、特に低所得層に広がった。
- 1998年5月21日
- スハルト大統領辞任。
- メガワティはスハルト時代の弾圧による犠牲の象徴的存在としてクローズアップされ、またその不屈の闘争精神と冷静な対応が多くの国民の共感を呼び、低所得者層だけでなく、中流エリートや退役軍人の間にも支持が広がる。
- 1998年9月
- バリ島デンパサールでPDIメガワティ派(闘争派)の党大会を開いた際、バリのヒンドゥー寺院での儀式にヒンドゥー教徒の衣装を纏って出席したため、ヒンドゥー教徒と誤解されるようになった。
- 1999年2月
- PDIメガワティ派はバリでの大会で党名を「闘争インドネシア民主党 (PDI-P) 」に変更、総選挙のための政党登録を行う。
- 1999年6月
- PDI-Pは総選挙で34%の得票率を獲得。
- 1999年10月20日
- 国民協議会 (MPR) に於ける大統領選出の投票で、中道会派(中軸勢力)推薦のアブドゥルラフマン・ワヒッド(通称グス・ドゥル)候補に敗れる。
- 1999年10月21日
- MPRによる副大統領選出の投票で、開発統一党 (PPP) 党首ハムザ・ハズを破って副大統領に就任。
= 関連サイト =
- インドネシア歴史探訪
- ジャワ原人からメガワティまで!
激動のインドネシアに駐在する作者が実地の見聞を込めて語る、Web史上おそらく最初のインドネシア通史。
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