東ジャワに隠されたフビライ・ハーンの財宝?
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 モンゴルの大ハーンにして中国・元王朝の皇帝、フビライの秘宝が、ジャワ島東部に隠されている?
 いきなりこんな話を聞いても、信じるのは難しいだろう。
 だから、まずはフビライ・ハーンによるジャワ遠征の話から聞いて頂きたい。

 13世紀後半、元の皇帝フビライ・ハーンは東南アジア諸国へ侵略の魔の手を伸ばしつつあった。
 それは、次のような具合である。

  • 1258年 北ベトナム征服
  • 1274年 第一次日本遠征(文永の役)
  • 1281年 第二次日本遠征(弘安の役)
  • 1284年 南ベトナム征服
  • 1287年 パガン朝(ミャンマー)征服

 そして1289年、フビライはいよいよジャワの王国に使者を送り、降伏を勧めた。
  ところが、当時ジャワを支配していたシンガサリ朝のクルタナガラ王は血気盛んな人物で、使節団長の長孟漢を捕らえ、顔に侮辱的な入れ墨をして追い返してしまった。

 激怒したフビライが、3万の兵力 (一説2万) と1000隻の軍船から成る懲罰軍をジャワに向かって送り出したのは1292年のことで、翌1293年初めにはジャワ北岸のトゥバン港に到着した。

 だが、目指すクルタナガラ王はすでにこの世のものではなかった。前年5月にジャヤカトワンという男が起こした謀反であえなく殺され、シンガサリ王国も滅び去っていたからだ。
 目標を失った総司令官の高興は困り果てた。懲罰の相手は見つからない。かといってすごすご帰ればフビライの怒りに触れて処刑されるのは目に見えている。
 この時、クルタナガラ王の娘婿というラデン・ヴィジャヤ (ラデンはジャワ貴族の称号) という男がやってきて、

 「今はジャヤカトワンがジャワを支配しているから、彼を倒せば、あなたの目的を果たすことが出来ます。私も彼に義父を殺されたあだを討ちたいと思っていますから、協力しませんか?」

と申し出た。
 元の軍勢は大喜びでラデン・ヴィジャヤと同盟を結び、彼の案内でジャヤカトワンを攻め滅ぼした。
 そして戦勝に酔いしれている時、ラデン・ヴィジャヤが突然、元の軍隊を襲った。

 ヴィジャヤは最初から、ジャヤカトワンもモンゴル軍も撃退する計略だった。
 元軍の幹部はほとんど殺され、ほうほうの体で中国に逃げ帰った総司令官の高興も処刑された。
 そして、ヴィジャヤはマジャパヒト王国の開祖となった。

 ……普通の歴史の本は、これで終わりである。
 だが、実は続きがある。

 ヴィジャヤの軍勢に襲われた時、元軍のクディリ方面駐屯軍の司令官、史弼は、ジャワ侵略中に集めた夥しい財宝、貴金属、それに巨大な金塊を、70名の部下に命じて密かに東ジャワの山の中に隠匿した、というのである。
 場所はアルジュナ山とカウィ山の中間、ブランタス川の水源近くの、とある元滝壺であると伝えられる。
 元軍兵士が見張りにつき、その使命は代々子孫に伝えられた……

 時は下り、1635年の半ば頃のことである。
 ポルトガルの海賊船がジャワ南岸スリスロール岬近くに漂着した。
 3人の水夫が降り立ち、奥地へ分け入り、ブランタス川の上流に遭遇した。川に沿って奥地へ進むと支流があり、その滝壺には朝日を反射してきらきら光る物が沈んでいた。
 黄金だった。
 川底には他にも金塊、サファイアなどが散在していた。
 だがこれは、上流から運ばれてきた物であり、上流にはもっと大量の金銀財宝が隠されているに違いない。
 彼らの勘は正しかった。上流の滝壺には、莫大な量の宝物が隠されていたのである。
 ところが、いざ財宝を抱えられるだけ抱えて立ち去ろうとしたその時、突然原住民の一団が現れ、3人を襲った。
 二人は殺され、一人だけが辛うじて半死半生の状態で逃げ帰った。

 この話を聞いたのが、オランダ東インド会社 (VOC) の商館長ヤクスペックだった。
 彼は3年後の1638年、ロドリゲス、ベン・フィーチャーという二人の宣教師に命じて、秘宝の話が真実かどうか調査に行かせた。
 二人は3年にわたり原住民に伝道を行いながら、密かに秘宝のありかを探し続けた。
 4年目に戻ってきた二人の宣教師は、驚くべき報告を行った。

 「原住民たちは、付近に住む一般のジャワ人とは全く似ていません。
 言語、風俗、習慣、あらゆる点から言って、モンゴル系部族としか考えられません。
 彼らはおそらく元軍のジャワ再征服を信じて財宝を守り続け、今日に至ったのでしょう。」

 この報告を受けたヤクスペックは、さっそく1000人の手兵を率い、二人の宣教師を道案内に立てて、秘宝が隠匿してある滝壺に向かった。
 財宝を守備するモンゴル部族の抵抗は激しいもので、74日間も戦闘が続けられた。
 しかし数に於いても武器に於いてもオランダ軍は優勢だった。はじめ300人もいたモンゴル人は、わずか数十人となり、全滅も近いと思われた。
 だが、75日目の戦闘が終わった夜、オランダ人たちは滝壺に響きわたる大爆発音を聞いた。
 と思う間もなく、周囲から崩れ落ちる大量の土砂に飲まれ、彼らは全滅した。
 そして、フビライ・ハーンの秘宝も、一緒に岩石に埋もれてしまったのであった……。

 この話が真実かどうか、確かめるすべもないが、元寇の子孫と称する孤立したモンゴル系部族がいることは確からしい。
 例えば、東部ジャワのカウィ山中にはモンゴル遠征軍の子孫が今でも住んでいると言われ、ブロモ山中にも外部との接触を嫌うテンゲル族が仏教徒を自称している。
  [但し、実際にはテンゲル族は、マジャパヒト王朝以前のシヴァ神信仰を守り続ける孤立したジャワ人の一部族らしい。]
 中部ジャワのディエン高原のバトゥル付近にも同様のモンゴル系部落がある。彼らは一般住民と交流せず、特殊な華僑として生活しているのだそうだ。


=参考文献=

  • 田村三郎 『インドネシアのあらまし (増補改訂版)』 1978年 (初版1971年)
  • 石井米雄監修『インドネシアの事典』同朋社出版 1991年
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©1999 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1999/04/24

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