アンボン
Ambon
〔別ウィンドウ表示〕
 インドネシア東部、マルク州中央マルク諸島に属し、セラム島南西に位置する島、またはその中心都市 (マルク州の州都) 。
 植民地時代はそれぞれ「アンボイナ島」「アンボイナ」と呼ばれた。

 アンボン島は元来ヒトゥ島とレイティモル島に分かれていたが、砂州のために一つの島となった。
 古代から香辛料、特にチョウジ (丁子) の産地として著名で、その独占権をめぐる英国とオランダの争いは1623年アンボイナ事件に発展。
 住民は、パプア系とマレー系の混血したアンボン人が主で、オランダによる支配の確立(17世紀)後キリスト教徒になって植民地軍に多く加わったことで知られる。
 特に「アンボン人」と呼ぶ場合、中央マルク諸島の原住民のうちでも、特にキリスト教に改宗した人々を指すことが多い。

=Contents=

  • アンボン小史
  • 1999年アンボン騒乱レポート


    = アンボン小史 =

     
     古くから北マルク諸島とジャワ島、マレー半島を結ぶ重要な中継港として栄えていた。

    1512
     マラッカを発したポルトガル船が初来航。
     その後ポルトガル人の根拠地に。

    17世紀初め
     オランダ、次いでイギリスがこの地域に進出、双方ともこの地の主都アンボイナ (現アンボン) に商館を構え、香料貿易の支配権を巡って熾烈な角逐を繰り広げた。

    1619  
     オランダとイギリスの間で、両国の東インド会社を合併させるという妥協案が結ばれるが、現地はこれを無視。

    1623年2月11日  アンボイナ事件  
     オランダ東インド会社(VOC)守備隊は、イギリス商館の日本人社員がオランダの要塞を調べていたため、不審を抱き、商館長ほかイギリス人全員、日本人傭兵9人など約50名を捕え、拷問にかけた。
     その結果、要塞奇襲の陰謀に関する自白が得られたとして、イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名の計20人を処刑した。
     こうして現地のVOCオランダ幹部は、香料貿易からイギリスを力で排除しようとした。

     当然この事件は英蘭両国の不和のもととなり、オランダは1654年に賠償金を支払ったが、1665年の英蘭戦争の遠因ともなり、1667年のブレダ条約でようやく解決する。
     この事件は、インドネシアでのオランダ優位を確立させ、英国の東南アジアから撤退・インド東岸への転進を促したことで重要。

     植民地時代にキリスト教徒に改宗したアンボン族は、兵士として植民地軍に参加することが多く、そのためオランダ東インド政庁によっても植民地軍の中で特権的な地位を認められていた。
     したがって、第2次世界大戦後は、インドネシアの独立して彼らの地位が低下するのを恐れ、独立戦争ではオランダに加勢した住民が多かった。
     また、インドネシア独立後も共和国への編入を拒否する動きが生まれた。

    1949年12月27日
     インドネシア連邦共和国成立
     連邦各国が「インドネシア共和国」一国に統合されていく過程で、アンボンに「南マルク共和国」を樹立する運動が高まった。

    1950年4月24日  南マルク共和国 (RMS) 樹立宣言
     スモキルとマヌサマの指導の下、インドネシア共和国からの公然たる分離独立を目指し、アンボンで樹立が宣言される。

    1950年7〜11月
     住民とインドネシア国軍は衝突を繰り返したが、反乱は半年ほどで平定され、国内での組織的な抵抗運動は年内に終結。
     しかし、残党は西イリアン経由でオランダへ逃れ、1970年代に「オランダが独立の約束を守らなかった」としてテロ事件を引き起こした。
    • 1975年12月  アムステルダムのインドネシア領事館占拠事件
    • 1977年5月  オランダ北部での列車乗っ取り事件

    1999年1〜3月
     宗教抗争が勃発、騒乱状態となり1300人近くが死亡。


    = 1999年アンボン騒乱レポート =

       1999年1月にアンボンで発火した宗教騒乱は、前年末にインドネシア国内で芽生えた宗教抗争の延長だが、元来大きな火種を抱えていた土地だけに、瞬く間に燃え広がった。
     この騒乱は、東ジャワ州バニュワンギの連続殺人事件、11月のスマンギ事件、ジャカルタ・クタパンや東ヌサトゥンガラ州クパン、アチェ (1999年1月) 、西ジャワ州カラワン (同) などの一連の騒動と同じ文脈で語られることが多く、背後に暴動を煽動した者がいるとの見方が強い。

     アンボン市の人口は現在31万1000人。うちプロテスタント系キリスト教徒52%、カトリック系キリスト教徒6%で、残り42%を占めるイスラム教徒は、ほとんどがスラウェシなどからの移民である。
     従い、ただの宗教抗争ではなく、その背景には民族的・歴史的・社会的な対立が織り込まれている。

     

    1998年11月22日
     ジャカルタ市クタパン地区でアンボン系キリスト教徒と地元イスラム教徒の間で大規模な抗争が発生、キリスト教会22軒が焼き討ちに遭い、14人が死亡。

    同年 11月30日
     その10日後、東ヌサトゥンガラ州クパンでキリスト教徒がモスクを襲う。クタパン事件との関連が取りざたされる。

    同年 12月1日
     西ジャワ州チアミスでイスラム教徒がプロテスタント施設を襲撃。
     果てしない宗教抗争への発展が懸念され始める。

    1999年1月15日
     マルク州東南ドボで騒乱が発生、治安部隊を派遣したためアンボンの警備は手薄に。

    1999年1月17日
     ジャカルタから862人以上の暴力団が暴動扇動の目的で船で到着との情報あり。
     別の情報では、クタパン騒乱を引き起こした150人のアンボン人やくざ(プレマン)の処置に困ったジャカルタ首都警察が、故郷に送り返したとも。

    1999年1月19日
     アンボン大騒乱始まる。
     キリスト教徒の青年ヨピが、イスラム教ブギス族移民の村バトゥ・メラ・バワンの住民からミニバンを借りた際、金を払うよう強制された。
     怒ったヨピは鉈を片手にバトゥ・メラ・バワン村に乗り込んだが、逆に村人たちに追われて退却。ヨピを追った村人たちは、キリスト教徒の住むバトゥ・メラ・ダラム・アタス村まで追跡、家々に放火して回った。
     このニュースを聞き付けたジャカルタ帰りのやくざたちは、官公庁の要職が外来のイスラム教徒に占められているのを腹に据えかねていたので、「イスラム教徒が教会を焼き討ちした」「キリスト教徒がモスクに放火している」というデマを流した。
     デマは瞬く間に広がり、暴動となってアンボン全市に広がった。死者は22名、重傷者102名にのぼり、教会3、モスク3、住宅88件が放火され、19戸が破壊された。
     アンボン島北部海岸のヒラ地区でも、「アンボン島で最も神聖な大モスク『アル・ファタ』が焼かれた」との噂に激昂したイスラム教徒が、キリスト教徒を焼き討ち。
     同日、西カリマンタン州北部のサンバス郡でも、地元のマレー系ダヤック族と、東ジャワ州マドゥラ島からの移民系住民が衝突、2人死亡、1人重体。
     また、ランバイアン町出身のマラヤ人が、マドゥラ系のパリット・スティ村で、窃盗の現行犯でリンチを受けたため、激怒したランバイアン町民200人がパリット・スティ村を襲い、4人を殺害。
     北スラウェシでもボラアン・モンゴンドウ県のタバン村とボヤウォオ・ブサール村の住民が衝突、少なくとも6人が負傷、住宅9軒が燃やされ、18軒が破壊された。

    1月20日
     アンボンでは激しい暴動が続く。
     騒乱は宗教抗争の様相を帯び、市内のモスクや教会が狙われ、市内全体が戦場と化した。町はまるで爆撃を受けたように一面の焼け野原となり、壊滅状態に陥った。
     市内の大部分が停電したが、国営電力公社PLNの職員も恐れてディーゼル発電所の送配電線修理に出てこようとせず、送電はストップしたまま。
     電話回線もパンク状態。アンボン市郊外のパティムラ空港も閉鎖、港に入港した船も沖合に停泊したままとなり、アンボンは完全に孤立した。

     一方、中部ジャワ北岸テガルでは、新村長の選挙結果に怒った村民が暴徒化し、前村長の自宅を破壊。
     テガルの東方30kmに位置するプマラン県では、同郷人がウィドゥリの住民に殺されたというデマを耳にしたスギフワラスの住民200人が、ウィドゥリの村民会館、地方保健所、モスク及び小学校を破壊した。

    1月21日
     市内の暴動はやや沈静化したが、街は戦場のような騒々しさに包まれ、住民2万人以上が国軍基地や宗教施設、病院に避難。
     夜間外出禁止令も発令された。市内は依然停電状態。
     21日夜半、日本人6人を含む外国人59人がチャーター機で豪州ダーウィンに脱出した。

    1月23日
     アンボンの騒ぎは沈静化。
     トリコラ軍管区(マルク・イリアンジャヤ担当)のアミール司令官(24日発表)によると、暴動発生以来の確認された死者は52人。

     西カリマンタン州ポンティアナック県パホマンでは、人気の高いコルネリウス氏が同県の知事候補に推薦されなかったことに怒った住民が、公用車3台に放火するという事件が発生。
     中部マルク州ピルでも、住宅40戸が焼かれ1人が死亡、4人が負傷する騒動があった模様。

    2月2日
     中心部の市場で起きた従業員同士のけんかがきっかけで、再び騒乱が発生。瞬く間に1人が死亡、自動車数台が損壊されるた。
     アンボンでは約2万人がまだ避難生活を続けている。

    2月3日
     アンボンの北にあるセラム島カイラトゥで騒乱が発生し、民家12件が焼失し、住民1千人が避難した。

    2月4日
     セラム島カイラトゥで大規模な暴動が再発。

    2月14日
     アンボンから約50キロ離れた隣島のハルク島で、住民同士の衝突による騒動が発生。死者20人、重傷者35人。民家150戸、教会1カ所が焼失した。死傷者のなかには銃弾を受けた者がいた、との証言もある。

    2月21日
     テバス県で民家放火事件が発生。

    2月22日
     マルク州サパルア島で1人が死亡する騒動が起きた。

    2月23日
     アンボン市内のバトゥメラダラム村(キリスト教徒の村)で爆弾事件が起こり、再び騒乱に火が付く。
     午前11時30分頃、手製爆弾十個が爆発して2名が死亡。爆弾はイスラム教徒の多く居住するバトゥメラアタス村の方角から投げられたという目撃者もいる。
     午後1時頃には村内の住宅が何者かにより次々と放火され、少なくとも20戸が焼失。
     パニックに陥ったバトゥ・メラ村とマルディカ村の数百人の住民は、鉈を持ち出して衝突、治安部隊の威嚇発砲で5人が死亡、20人がけがをした。
     住民の大量脱出はいよいよ本格化。

    2月24日
     アンボンの騒動が続く。
     バトゥ・メラ村周辺からは爆発音や銃声が深夜から25日早朝6時ごろまで響き、すでに死者は15人、重軽傷者は42人、家屋の焼失・破壊は二百数十軒にのぼり、避難民は200人以上。

    2月25日
     西カリマンタン州北部のサンバス郡でも暴動再発。
     今月21日にテバス県で起きた民家放火事件が周辺各地に飛び火、郡全域で再び緊張が高まった。
     25日までに、民家58軒の焼失と、7人の死亡が確認された。政府施設への避難者も増えている。

    2月26日
     アンボンの騒ぎ一時収まる。しかし住民約5万人が宗教施設など27カ所での避難生活中。

    2月28日
     アンボン駐屯の陸軍第174連隊の連隊長の発案で、アンボン周辺の村長全員を集め、長老、宗教関係者、州知事、市長、治安当局立ち会いの下、和平合意の誓約書にサインさせた。

    3月1日
     午前5時30分、市中心部から10キロ東のアウハラ (コラン・アフル?) 村の住民200人が刀や槍、鉈や火炎瓶を携えてリンジャニ村を襲撃。
     武装警官と陸軍兵士からなる1個分隊10人の治安部隊は制止のために発砲、リンジャニ村の住民2人が死亡、3人が重傷を負う。
     一方、コラン・アフル村の襲撃者たちは、リンジャニ村民が村の外れのモスクに逃げ込んだのを見て、無人になった村に火を付け回った。
     治安部隊に射殺された2人の死体はモスクに安置されたが、死体から滴る血が床一面に広がり、モスクの中で銃撃されて殺されたように見えたため、「警察が早朝の祈りを捧げている信徒の群れに発砲した」とのデマが広がった。
     アウハラ村ではこのほかにも爆弾事件が相次ぎ、2日までに15人の死亡が確認された。
     同村では前日、村長や長老、宗教界、政府関係者が和平交渉に合意したばかり。
     国警長官の閣議報告では、騒乱の被害はこの日までに、死者166人、重傷者221人に達し、教会18軒、モスク19軒、民家3575軒、露店667、店舗338、官公庁11、パサール5ヶ所、銀行2行、学校4校、自動車134台が焼失。過去15年に国内で起きた地域紛争では最悪の惨事。

    3月5日
     夜から翌土曜の早朝まで、アンボン市内各所で手製爆弾が破裂。
     約100人の避難民が寝泊まりするサンガジ通りのキリスト教会の中庭に、午後8時頃何者かが爆弾を投げ込んだ。けが人はなかったものの、避難民は恐怖に陥った。

    3月6日
     昨夜爆弾を投げ込まれた教会の表通りを、キリスト教徒たちが警備していると、午前2時30分、2台のキジャン (バン・タイプのトヨタ製自動車) が通りかかった。
     警備の青年たちが車内点検のため窓ガラスを開けるよう要求したが応じなかったため、青年たちは窓ガラスを叩き割った。
     しかし激怒して降りてきたのは私服警官で、銃を乱射、1名死亡、16名負傷という惨事に発展した。

     早朝、イスラム教徒の避難地区であるアンボンのトゥグトリコラのアル・ファタ・モスクに、大衆が押し寄せ、海軍兵隊と陸軍戦略予備軍(コストラッド)が築いたバリケードの突破を試みる。
     警告に応じない群衆に軍が発砲、少なくとも暴徒13人が射殺され、9人が重傷、4人が軽傷を負った。
     同日夕刻にはシリマウ県ガララにおいてブギス人が運転する自動車が群衆に放火され、運転手が死亡、同乗の2人が重傷を負った。

     アンボンの一連の暴動の犠牲者数は、6日付の当局発表で1月19日以来179人、重軽傷者は合わせて443人に達した。しかし、公平党関係の調査チームによると、犠牲者は約1300人に上っている。

    3月7日
     ウィラブアナ管区(スラウェシ)司令官スアエディ・マラサベシ少佐が率いる、マルク出身の将校19人から成る特別チームが、東ジャカルタのハリム空港からアンボンに向けて出発。「故郷の紛争を止めてきたまえ」とウィラント国防相は激励。1カ月の駐留で事態の収拾を目指す。 

    3月8日
     将校19人の特別チームが到着したアンボンでは暴動が再燃、郊外の村で爆弾騒ぎが相次いだほか、民家やモスクが放火された。また、住民20人を乗せたトラックが暴徒に襲われ2人が殺されている。

    3月10日
     アンボンで住民同士の衝突が発生、同日深夜までに8人の死亡が確認される。治安当局は市内要所を封鎖し、イスラム教徒の避難地トゥグトリコラ周辺の警備を強化。
     イスラム系避難者の多くは南スラウェシ州やジャワ島に帰省し、2万人まで減少。市内8カ所で避難生活。

    3月14日
     アンボン情勢はこの週末から徐々に平静を取り戻す。
     治安部隊は2日間にわたって武器の取り締まりを行い、150個の武器を押収。その結果、大きな紛争は影を潜めた模様。宗教施設や避難地での警備は続けられる。
     14日、宗教組織の代表による和平協議がアンボンで開かれ、解決に向けた協調姿勢を確認した。周辺のハルク、サパルア、ヌスラウトの各島の治安も回復に向かう。
     一連のアンボン暴動による死者は400人を越した。

    7月19日
     2カ月ばかり平静が続いたため、治安部隊が引き上げを開始したアンボンで、情勢が再び悪化。
     前週から断続的に騒ぎ発生。ディポネゴロ地区では地元紙が報じた村同士の投石合戦に刺激され、この日昼には銃器を用いた騒乱に発展、4人が弾に当たり死亡。騒乱は夕方まで続く。
     先週からの死者は10人に達する。

    7月24日
     夜、アンボン市中心部から15km離れたポカ村で集落が襲撃され、住宅が放火・損壊される。同村の周辺では人力車のトラブルで4日前から住民同士の投石や小競り合いが続いていた。

    7月27日
     アンボン市中心部で暴動が再び炸裂。
     キリスト教徒とイスラム教徒の住民グループ同士が朝から対立し、なたや竹槍などを手に対峙(たいじ)していたが、午前10時頃に市中心部で衝突、石や手榴弾の投げ合いが始まる。暴徒数千人が商店や住宅を襲い、市内は終日麻痺。少なくとも9人が死亡、32人の負傷者が確認されたが、公式な発表は出ていない。
     暴動の中心地となった商店街は以前から中立地区として知られていたが、最近は商店主が特定のグループに資金を提供したとの噂が広まっていた。

    7月28日
     アンボンでの騒乱と緊張が続く。
     市内の学校や会社は休み。午後、市内と郊外数カ所で再び暴動が起き、火災などが発生。所々で銃声も聞かれ、住民の非難も始まる。
     この週だけで民家350軒が焼き打ちにあい、難民の数は今年に入り延べ4万人に達する。
     警察は陸軍に支援部隊の出動を要請。
     また、州東南部のトゥアル島にも騒乱は飛び火。

    8月4日
     小競り合いや襲撃が散発するアンボンで、21歳の青年が何者かに殴られて死亡、2人が重体に。
     先週からの死者はこれで38人。

    8月9日
     キリスト教徒の警察官が2名のイスラム教徒を交通事故に遭わせ、その事後処理をめぐって双方が対立。不穏な空気となる。

    8月10日
     前日の騒動が大規模な対立へ発展。
     キリスト教徒とイスラム教徒が武力衝突、合わせて15人以上が死亡、100人を越す負傷者が出た。警察による発砲で死傷した者もあると見られ、一部報道では死亡者は60人とも。

    8月11日
     両教徒の衝突は収まらず。
     死者は23人に達し、民家20軒以上が放火により焼失。また、騒乱を避けてヤボク教会に身を寄せていた30人余りのキリスト教徒が、軍隊の銃乱射により虐殺される。
     一連の騒乱で、すでに数千人の難民が南スラウェシ州のウジュンパンダンやバウバウに避難。国軍マルク地区のブディマン大佐は、すでに駐在している1師団に加えて、新たにスラバヤから2師団をアンボンに派遣すると発表。

    8月14日
     地元英字紙『ジャカルタ・ポスト』は、今回の騒乱で死者は100人に達したと報道。ロイター電は軍により地元住民22人が虐殺されたと伝えた。
     この2週間で6千人の住民がアンボンを逃れ難民化。これまでに数百人の難民を受け入れた南スラウェシ州バウバウの難民キャンプは満杯で、これ以上の受け入れは難しい。
     また、在インドネシア中国大使館は今回の混乱について声明を発表し、華人系インドネシア人が多く被害に遭っていると指摘。

    8月18日
     アンボン郊外パティムラ空港近くで前週末、大規模な衝突が発生し、空港職員寮も攻撃の対象になったため、空港職員らは軍用機でジャカルタへ避難した。その結果、民間航空機の運行は無期中止された。
     アンボン市内でも散発的な衝突が続く。

    8月19日
     アンボンから70キロ北に位置する西セラム地区のピルで新たな衝突が発生。
     17日に発生したキリスト教徒とイスラム教徒による小規模の衝突が悪化、同地区全体を巻き込んだ騒乱に発展。死傷者数などは不明だが、少なくとも民家数十軒が焼き打ちに遭った。
     また、北マルクのハレマヘラ島でもキリスト教徒とイスラム教徒の衝突で少なくとも3人が死亡。
     11日にヤボク教会で起きた虐殺事件について、地元軍関係者は「兵士4人を拘束した」と発表、調査は軍事法廷に委ねられる予定。

     なお、この数週間でマルク州の宗教・民族紛争による死者は400人、負傷者はすでに400人以上に達する。

    8月21〜22日
     アンボンのマルディカ市場付近で新たな衝突、3人死亡。鎮圧のため軍隊が出動。
     北マルク州マリフト地区でm先週から住民同士の衝突が続く。新たな行政区分に対する住民の不満が発端とされ、自家製爆弾が爆発し混乱に拍車をかけた。これまでに6人が死亡、9人が負傷を負い、住宅200戸以上が焼失、2500人が難民化。

    8月26日
     早朝、アンボンのワイボン地区で、白装束のイスラム教徒約千人が口々に“聖戦”を叫びながらキリスト教徒居住区に乱入を試みたため、警備に当たっていた軍は、両教徒の居住区を隔てる境界線を越えたところで発砲、5人が死亡し、少なくとも25人が重傷を負った。目撃者談ではさらに約10人が発砲後にトラックで運び去られたという。
     地元軍責任者のイブサン大佐は、「度重なる威嚇発砲にもかかわらず、境界線を越えたのはイスラム教徒たち」と述べた。

    9月2日
     アンボン市内のカンプンジャワで住民同士の衝突が発生、治安部隊の発砲で4人が死亡。

    9月3日
     アンボン市内の民家20軒が放火されたが、道路が封鎖されたため消火活動も困難に。

    12月12日
     ワヒド大統領、メガワティ副大統領が訪問、和平を要請。
     マルク州知事サレは、1999年1月に始まった騒乱の犠牲者が死者776人(治安部隊16人含む)、けが人1100人、民家の損害8655棟に達したことを報告。

    12月22〜26日
     アンボン島西のブル島で騒乱、125名以上死亡。

    12月26日
     アンボンで抗争再燃。14歳のイスラム少年が車にはねられ、キリスト教徒が病院に連れて行って後行方不明となったことから銃撃戦に。29日までに63人死亡。

    12月26〜30日
     両教徒の抗争がマルク州北部に飛び火、テルナテ周辺で250人以上(295人との情報あり)が死亡。国軍当局者は「内戦の様相」と述べる。

    12月29日
     マルク州の治安指揮権が警察から軍に移り、各地で武器の押収や狙撃手が潜むビルの接収などを実施。

    12月30日
     朝、アンボン島の教会が焼かれたことに怒ったハルマヘラ島のキリスト教徒がイスラム教徒と衝突、手製の銃や手投げ弾で抗争、255人が死亡、200人近くが負傷。

     インドネシア国軍、アンボン周辺に夜間外出禁止令を出し、軍が緊急展開。

    2000年1月3日
     前年クリスマスからこの日までに、北部のハルマヘラ島周辺だけで400人、マルク州全体では500人以上が死亡。
     1999年1月に紛争が勃発して以来のマルク州全体の死者は1000人を越え、すでに内戦状態。

    1月7日
     ジャカルタのムルデカ(独立)広場でマルク紛争に抗議するイスラム教徒の大集会が開かれ、キリスト教徒に対する「ジハード(聖戦)」が叫ばれる。これ以降各地で同様のイスラム教徒の集会が相次ぎ、宗教対立の様相が濃くなる。

    1月11日
     インドネシア教会連盟(PGI)はマルク紛争による死者はここ6ヶ月で3027人に達したと発表。

    1月17〜20日
     マルク宗教紛争がロンボク島に飛び火、主都マタラームでは暴動により3日間に渡り緊張が続いた。

    1月30日
     1999年12月下旬に宗教抗争が飛び火した北マルク州(テルナテ島やハルマヘラ島を含む)では、それ以来少なくとも1692人が死亡(北マルク州当局者)。

    2月21日
     北マルク州で民家やキリスト教会が放火され、落ち着きを見せていた民族・宗教対立再燃の恐れ。

    2月22日
     早朝、マルク州マソシ地区で教会付近で爆発。これに刺激されたキリスト教徒がイスラム寺院へデモを開始、阻止しようとした治安当局と衝突、重傷1名。

    2002年2月
     イスラム教徒とキリスト教徒が政府の音頭で和平協定を結ぶ。
     この前後、域外武装勢力は撤退し、3年にわたったマルク諸島の抗争はようやく幕を下ろす。
     この間、避難民は40万人、犠牲者は6000人とも1万人とも言われる。
  • 参考資料:「ニュースネットアジア」「毎日新聞」他
  • 前ページに戻るよ 歴史用語インデックスへ

    ©1998-2003 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/09/12, 12/17, 2000/01/04, 2003/11/15

    ご意見・ご希望きかせてね eden@tcat.ne.jp
    inserted by FC2 system