マタラーム王国
Mataram1586〜1755
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 近世中部ジャワに興隆したイスラム王国。

 「マタラーム」(または「マタラン」)とは中部ジャワのジョクジャカルタ付近をさす地名で、古来この名を冠した二つの王国があった。

  • サンジャヤ朝のヒンドゥー王国(8世紀前半〜10世紀前半)
  • 16世紀末に成立したイスラム王国。「マタラーム・イスラム」とも呼ばれる。
 通常は後者を指す。

 マジャパヒト王国の衰退後、ジャワで勢力を張ったイスラム教国ドゥマクで内紛が起こる。

16世紀中頃
 パジャン(スラカルタ地方)王アディヴィジャヤ、ドゥマク国を乗っ取る。

 アディヴィジャヤに仕えていたキヤイ・パマナハンは、戦功によりマタラームの地(ジョクジャカルタ地方)を与えられる。
始祖セーナパティ霊廟入口 (12KB)
セーナパティ廟入口
始祖セーナパティの墓地への入口。中へ入るにはジャワの伝統衣装の着用が必要で、写真撮影不可 [1999年12月]

c.1584〜1601  初代スルタン、セーナパティ (本名パネムバハン・セーナパティ・インガラガ)
 パマナハンの息子。アディヴィジャヤの死後パジャンを併合、ドゥマクも支配下に入れてマタラーム王国を開く。
 強力な国家に発展、1590年代にはスラバヤを除く中〜東部ジャワ沿岸の都市国家群を支配下に置き、西ジャワのパンテン王国をも攻撃。

1601〜1613  第2代スルタン、マス・ジョラン (別名パネムバハン・クラピアクまたはセダ・イン・クラピヤック)
 勢力はさらに急拡大。パンテン王国と並ぶジャワの2大王国に。

1613〜1645  第3代スルタン、アグン
 東西ジャワに勢力をのばし、ジャワ島の大半を領有。終始膨張政策を取る。
 まず、1614年に王都をカルタに置いたのち、1620〜25年頃、東部ジャワの良港スラバヤを征服。
 次いで西のパンテン王国の征服をもくろみ、その途上にあるオランダ東インド会社(VOC)の拠点バタヴィア(ジャカルタ)を攻撃。

1628 第一回バタヴィア攻撃
1629 第二回バタヴィア攻撃

 二度とも失敗。
 そこで今度は東に目を向け、中・東部ジャワを統一した。

1636 ムスリム聖者スーナン・ギリの国家(グレシック付近)征服
1639−40 ジャワ島最東端バランバンガン制圧

 但しバリ島遠征は失敗。

1645〜1677  第4代アマンクラット1世
 引き続きマタラーム王国の最盛期。オランダ東インド会社とは1646年に和約を結ぶ。
1647年には旧都カルタの北東に煉瓦作りの新都プレレッドを造営。
 しかし6000人を処刑する暴政のため不満がつのり……。

1674〜1681  トゥルーノジョヨの反乱
 マドゥラ島の王族トゥルーノジョヨが反乱を起こす。アマンクラット1世はオランダ東インド会社(VOC)に援助を要請。VOCはマカッサル人海賊の攻撃に手を焼いて介入を決意。
 しかしトゥルーノジョヨ軍はたちまち東部ジャワと中部ジャワ一部を征服、クディリに都を定める。

1677 トゥルーノジョヨ、王都プレレッドを奪う。アマンクラット1世はバタヴィアに逃れる途中病死。

同年 オランダの傀儡アマンクラット2世(位1677−1703)は即位と同時にジャワ西部プリアンガン地方をVOCに割譲(オランダの最初の領土獲得)

1678 オランダ軍、トゥルーノジョヨの首都クディリを陥れる。

1681 アマンクラット2世、都を荒れたプレレッドからその北方のカルタスーラに移す。トゥルーノジョヨ軍の敗色濃くなる。

1682 トゥルーノジョヨ捕らえられ、王都で処刑。

 その後オランダ勢力の発展と島内の騒乱で王権は衰え始める。

1704〜1708  第1次ジャワ継承戦争
 アマンクラット2世死後、その王子がアマンクラット3世として即位。
 しかし王弟はオランダの支援を取り付け、1705年カルタスーラに入城、パクブウォノ1世(位1705−1719)として即位(その直後、オランダ東インド会社(VOC)にマドゥラ島の東半分を割譲)。
 アマンクラット3世は東ジャワへ逃亡したが1707年捕らえられ、スリランカに島流しにされた。

1719〜1723  第2次ジャワ継承戦争
 パクブウォノ1世の死後、長男がアマンクラット4世として即位。
 しかし叔父や弟が反対し、中・東部ジャワで兵を挙げたが、オランダ東インド会社(VOC)に捕らえられ、島流しとなる。

 オランダは相次ぐ内紛に乗じて介入、そのたびに特権と領土を増やし、マタラームを保護下に置く。

1727〜1749  パクブウォノ2世
 反乱軍に都カルタスーラを追われ、オランダ人の助けで辛うじて国都を回復したが、
1743
 王都カルタスラを捨て、ソロ村に王居を設け、「スラカルタ・アディニングラット」と命名して歴代の首都にした。
 これ以来ソロは「スラカルタ」とも呼ばれる。
 (なお、この反乱鎮圧に際し、オランダ東インド会社(VOC)はジャワ北岸を全て直轄地として獲得。)
1749〜1755  第3次ジャワ継承戦争
 パクブウォノ2世の死後、領土を委託されたオランダ東インド会社(VOC)は、その息子にこれを譲り、パクブウォノ3世(位1749−1788)として即位させた。
 しかし王族たちは前王の弟マンクー・ブーミにつき、みたび内紛が発生。
 パクブウォノ3世とオランダ側は苦戦を強いられ、決定的勝利を収めることは出来ず。

1755  マタラーム王国分裂  
 オランダ人の調停で平和条約が成立、王領を折半して別に王族を建て、首都を南西ジョクジャカルタに置いた。
 すなわち、
  • パクブウォノ3世……ススフーナン(王の尊称)を保持し、それまで通りスラカルタに都する。
  • マンクー・ブーミ……スルタンの称号を与えられ、「ハメンク・ブウォノ1世」としてジョクジャカルタを都に王国高地地方の半分を治める。

     この結果、王家は分裂してジョクジャカルタ王国スラカルタ王国が並び立ち、事実上オランダの保護下に入った。


  • イモギリ山 (9KB)
    イモギリ山
    始祖スノパティ、名君アグンはじめマタラーム王国の歴代スルタンが葬られたジョクジャカルタ南郊の霊山。

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    ©1998-99 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/03/07; 12/05

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