近世中部ジャワに興隆したイスラム王国。
「マタラーム」(または「マタラン」)とは中部ジャワのジョクジャカルタ付近をさす地名で、古来この名を冠した二つの王国があった。
- サンジャヤ朝のヒンドゥー王国(8世紀前半〜10世紀前半)
- 16世紀末に成立したイスラム王国。「マタラーム・イスラム」とも呼ばれる。
通常は後者を指す。
マジャパヒト王国の衰退後、ジャワで勢力を張ったイスラム教国ドゥマクで内紛が起こる。
- 16世紀中頃
- パジャン(スラカルタ地方)王アディヴィジャヤ、ドゥマク国を乗っ取る。
- アディヴィジャヤに仕えていたキヤイ・パマナハンは、戦功によりマタラームの地(ジョクジャカルタ地方)を与えられる。
セーナパティ廟入口 始祖セーナパティの墓地への入口。中へ入るにはジャワの伝統衣装の着用が必要で、写真撮影不可 [1999年12月] 。
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- c.1584〜1601 初代スルタン、セーナパティ (本名パネムバハン・セーナパティ・インガラガ)
- パマナハンの息子。アディヴィジャヤの死後パジャンを併合、ドゥマクも支配下に入れてマタラーム王国を開く。
強力な国家に発展、1590年代にはスラバヤを除く中〜東部ジャワ沿岸の都市国家群を支配下に置き、西ジャワのパンテン王国をも攻撃。
- 1601〜1613 第2代スルタン、マス・ジョラン (別名パネムバハン・クラピアクまたはセダ・イン・クラピヤック)
- 勢力はさらに急拡大。パンテン王国と並ぶジャワの2大王国に。
- 1613〜1645 第3代スルタン、アグン
- 東西ジャワに勢力をのばし、ジャワ島の大半を領有。終始膨張政策を取る。
まず、1614年に王都をカルタに置いたのち、1620〜25年頃、東部ジャワの良港スラバヤを征服。
次いで西のパンテン王国の征服をもくろみ、その途上にあるオランダ東インド会社(VOC)の拠点バタヴィア(ジャカルタ)を攻撃。
- 1628 第一回バタヴィア攻撃
- 1629 第二回バタヴィア攻撃
二度とも失敗。
そこで今度は東に目を向け、中・東部ジャワを統一した。
- 1636 ムスリム聖者スーナン・ギリの国家(グレシック付近)征服
- 1639−40 ジャワ島最東端バランバンガン制圧
但しバリ島遠征は失敗。
- 1645〜1677 第4代アマンクラット1世
- 引き続きマタラーム王国の最盛期。オランダ東インド会社とは1646年に和約を結ぶ。
1647年には旧都カルタの北東に煉瓦作りの新都プレレッドを造営。
しかし6000人を処刑する暴政のため不満がつのり……。
- 1674〜1681 トゥルーノジョヨの反乱
- マドゥラ島の王族トゥルーノジョヨが反乱を起こす。アマンクラット1世はオランダ東インド会社(VOC)に援助を要請。VOCはマカッサル人海賊の攻撃に手を焼いて介入を決意。
しかしトゥルーノジョヨ軍はたちまち東部ジャワと中部ジャワ一部を征服、クディリに都を定める。
- 1677 トゥルーノジョヨ、王都プレレッドを奪う。アマンクラット1世はバタヴィアに逃れる途中病死。
- 同年 オランダの傀儡アマンクラット2世(位1677−1703)は即位と同時にジャワ西部プリアンガン地方をVOCに割譲(オランダの最初の領土獲得)
- 1678 オランダ軍、トゥルーノジョヨの首都クディリを陥れる。
- 1681 アマンクラット2世、都を荒れたプレレッドからその北方のカルタスーラに移す。トゥルーノジョヨ軍の敗色濃くなる。
- 1682 トゥルーノジョヨ捕らえられ、王都で処刑。
- その後オランダ勢力の発展と島内の騒乱で王権は衰え始める。
- 1704〜1708 第1次ジャワ継承戦争
- アマンクラット2世死後、その王子がアマンクラット3世として即位。
しかし王弟はオランダの支援を取り付け、1705年カルタスーラに入城、パクブウォノ1世(位1705−1719)として即位(その直後、オランダ東インド会社(VOC)にマドゥラ島の東半分を割譲)。
アマンクラット3世は東ジャワへ逃亡したが1707年捕らえられ、スリランカに島流しにされた。
- 1719〜1723 第2次ジャワ継承戦争
- パクブウォノ1世の死後、長男がアマンクラット4世として即位。
しかし叔父や弟が反対し、中・東部ジャワで兵を挙げたが、オランダ東インド会社(VOC)に捕らえられ、島流しとなる。
- オランダは相次ぐ内紛に乗じて介入、そのたびに特権と領土を増やし、マタラームを保護下に置く。
- 1727〜1749 パクブウォノ2世
- 反乱軍に都カルタスーラを追われ、オランダ人の助けで辛うじて国都を回復したが、
- 1743
- 王都カルタスラを捨て、ソロ村に王居を設け、「スラカルタ・アディニングラット」と命名して歴代の首都にした。
これ以来ソロは「スラカルタ」とも呼ばれる。
(なお、この反乱鎮圧に際し、オランダ東インド会社(VOC)はジャワ北岸を全て直轄地として獲得。)
- 1749〜1755 第3次ジャワ継承戦争
- パクブウォノ2世の死後、領土を委託されたオランダ東インド会社(VOC)は、その息子にこれを譲り、パクブウォノ3世(位1749−1788)として即位させた。
しかし王族たちは前王の弟マンクー・ブーミにつき、みたび内紛が発生。
パクブウォノ3世とオランダ側は苦戦を強いられ、決定的勝利を収めることは出来ず。
- 1755 マタラーム王国分裂
- オランダ人の調停で平和条約が成立、王領を折半して別に王族を建て、首都を南西ジョクジャカルタに置いた。
すなわち、
- パクブウォノ3世……ススフーナン(王の尊称)を保持し、それまで通りスラカルタに都する。
- マンクー・ブーミ……スルタンの称号を与えられ、「ハメンク・ブウォノ1世」としてジョクジャカルタを都に王国高地地方の半分を治める。
この結果、王家は分裂してジョクジャカルタ王国とスラカルタ王国が並び立ち、事実上オランダの保護下に入った。
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