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16世紀前半に中部ジャワ北岸で勢力を誇ったイスラム教国。ジャワのイスラム化の原動力となった。
1474
スマトラ島のパレンバンでワリ・ソンゴの一人スナン・アンペルから学んだ中国系イスラム教徒ラデン・パターは、ジャワへ渡ってビンタラを根拠地に勢力を広めてゆく。
ラデン・パターはすでに1468年、ドゥマクにモスク(ムスジッド)を建てている。これはワリ・ソンゴの活動拠点となった。
マタラーム王国のスルタン・アグンの時代に書かれた『ジャワ年代記』では、ラデン・パターは、マジャパヒト王国最後の王ブラウィジャヤとその第3夫人プトリ・チナ (「中国の王女」の意) の息子ということになっており、マジャパヒト→ドゥマク→パジャン→マタラームという権力継承の正当性を主張する一つの論拠に用いている。
15世紀末
ラデン・パター、ドゥマクに移り住み、マジャパヒト王国から領主に任じられ、貿易で富み栄える。
間もなく「ドゥマク王国」を建国。
16世紀初め
ラデン・パターの息子 (ポルトガル人の記録では「ロディン」) が後を継ぐ(1504年頃死亡)。
1504〜1518
ロディン死後、その息子 (または弟) トルンガナが支配者となる。
1512〜1513
トルンガナの義兄弟でジュパラ(ジャパラ)の統治者パティ・ウヌスは、ジュパラとパレンバンの船90隻と1万2000の兵力を用い、前年1511年にポルトガルが占領したマラッカを攻撃した。
最終的には撃退されたものの、ウヌスの名声は高まる。
ジュパラ王ウヌスはドゥマク方面に勢力を伸ばす。
1518〜1521
ウヌスは遂にドゥマクを併合。さらにジャワ北岸を次第に服属させ、マジャパヒトを包囲・攻略。
1521〜1546
ウヌス死後、トルンガナが再即位。
1540年代にかけ、中・東部ジャワ各地を征服、またバンテン王国への支援を通じて西ジャワ方面へも影響力を強めた。
16世紀前半
最盛期。
ジャワ西部のヒンドゥー教国パジャジャラン、バンテン、チレボン、マタラーム、パジャン (スラカルタ地方) などの諸地方を次々と影響下に入れて行く。
1546
パナルカン遠征中に、トルンガナ死亡。
その後数年のうちに、
- 北岸地方の覇権 → ジュパラ
- 内陸の覇権 → パジャン (スラカルタ地方)
へ移り、ドゥマクの権力は急速に失われる。
16世紀中頃
ポルトガルの出現、ジョホール王国やアチェ王国の台頭などにより、勢力失う。
内紛が起こり、パジャンのアディヴィジャヤが支配権を握る。
1556
ハサヌッディンがドゥマクから独立、バンテン王国を開く。
1586
アディヴィジャヤの死後、パジャン王家はマタラーム王国の始祖セーナパティに簒奪される。
セーナパティはやがて海岸諸国も征服し、ドゥマクも支配下に置いた。
17世紀初頭
ドゥマク国はマタラーム領に吸収される。
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