マジャパヒト王国に行ってみよう!
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 ようこそ、14世紀の東ジャワへ!
 ここは有名なマジャパヒト王国です。
 でも、道行く人々に、「ここはマジャパヒト王国かね?」と日本語的な発音でたずねても通じません。ジャワ語では a は[o]に近くなり、h は発音されず、語尾の -p、-t もほとんど聞こえるか聞こえないか程度の音になるので、Majapahit は「モジョパイッ」と聞こえます。

 では、そこを歩いている腰に布を巻いた商人らしき男に聞いてみましょう。
「もしもし、ここはモジョパイッ王国ですね?」
「ンゲー(はい)」
「王国の首都はどちらですか?」
「王様の宮殿のことでござりまするか?」
「はい」
「それならば、あちらの方向にお進みなされませ」
 と、その商人が指差したのは、今で言うトロウラン (Trowulan) の町 (東ジャワ州東北部モジョクルト市の南西約10km) です。
 トロウランは今でこそ寒村ですが、この当時は王国の中心として立派な宮殿や寺院が建ち並び、多数の人々が集まって大変な賑わいを見せていました。

 やあ、トロウラン王城が見えてきました。赤煉瓦で築かれた高さ10m以上の壁で囲われた、広大な城塞都市です。広さは100平方kmはあると言われます。
 東の方から近付いてみましょう。
 最初に見えてきたのは、チャンディ・ティクス (Candi Tikus) です。これは沐浴場になっており、マジャパヒトの王都の住民や旅人たちは、ここでマンディ (水浴び) を楽しんだのではないでしょうか。

チャンディ・ティクス (43KB) 読込に時間がかかります。ごめんなさい。
チャンディ・ティクス 

 さて、水浴びして体を清めたところで、少し奥の霊場に進んでみましょう。
 その入り口には、チャンディ・バジャンラトゥ (Candi Bajangratu) が建っています。

チャンディ・バジャンラトゥ (14KB)
チャンディ・バジャンラトゥ 

 もっと近付いて眺めてみましょう。

バジャンラトゥ寺院側面 (35KB)
バジャンラトゥ寺院側面 

 結構、精密なレリーフ (浮彫) がしてあるではないですか。カーラ(鬼面)もなかなか見事です。
 さて、このチャンディ・バジャンラトゥは、聖なる建物ないしは高貴な人の住居の入り口だったと考えられているのですが、実際このチャンディより東の方面には、いくつもの寺院建築が見られ、宗教的な聖地だった可能性があります。
 その一つが、チャンディ・ブラウ (Candi Berahu) です。

チャンディ・ブラウ正面 (19KB)
チャンディ・ブラウ正面 

 正面は建築当初の通り復元され、幾何学的な美しさを誇っていますが、少し脇に回り込むと、また異なった表情を見せてくれます。

斜め前から見たブラウ寺院 (21KB)
斜め前から見たブラウ寺院 

 後ろの、崩れかけた煉瓦が、諸行無常の歴史を感じさせませんか?
 もう少し近付いてみましょうか。

斜め前からブラウ寺院を見上げる (43KB)
斜め前からブラウ寺院を見上げる 

 うーん、私はこのお寺、好きですねえ。
 中部ジャワやシンガサリ朝のチャンディは安山岩を材料に使っているので黒っぽいですが、トロウラン周辺のチャンディは赤煉瓦を用いているため、その赤い色が印象的です。
 今度は斜め後ろまで行って振り返ってみましょう。

斜め後ろからのブラウ寺院 (27KB)
斜め後ろからのブラウ寺院 

 気に入ると、いつまでも見ていたくなります。ストーカーみたいですね。
 背面の古い崩れかけた壁は歴史のロマンを感じさせます。後ろ髪を引かれるようですが、そろそろチャンディ・ブラウとお別れしましょう。

斜め後ろからのブラウ寺院 (27KB)
斜め後ろからのブラウ寺院 

 ブラウ寺院から南方に向かうと王宮と市場があります。現在は跡形もありませんが、この当時は宮殿にかの有名な国王ハヤム・ウルックと鉄血宰相ガジャ・マダのコンビが住んでいました。
ガジャ・マダ
ガジャ・マダ
彼をかたどったと言われるテラコッタ
 総理大臣として権力を振るったガジャ・マダは、遠征に次ぐ遠征でインドネシア各地を征服し、マジャパヒトを強国にした第一の功労者です。
 彼の活躍で、莫大な貢ぎ物や交易品がマジャパヒトの首都に集まるようになり、王城には豊かな富が蓄えられました。
 例えば、マジャパイトでは金細工が盛んでした。王都の一角には金細工の職人街が生まれ、現在まで「クマサン (Kemasan) 」 (←「mas=金」より) という地名が残るほどです。しかし、金そのものは東ジャワでは採れません。すべてスマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島などから運ばれたものでした。
 ほかにも明の陶磁器や神像、仏像、テラコッタなどが大量に貯蔵されていたようです。

 あ、さっきの腰布の商人がやってきました。
 おや、屋台を開けて……
 ふむ、どうやら東ジャワ名物ナシ・ラウォンの食堂のおやじだったようです。
 ちょうどいい、昼飯に頂きましょう。
 おお、この黒い汁 (ラウォン) をご飯 (ナシ) にぶっかけて食べるんですな。

ナシ・ラウォン (14KB)
ナシ・ラウォン 

 うん、こりゃなかなかいける。柔らかく煮込まれた牛肉のエキスが汁に行き渡って、うまい!
(しかし、ラウォンて14世紀にもあったのか?)
 さて、食べたらちゃんとお金を払わなければいけませんね。えっと、マジャパヒトのお金は……?
「これでござる」

マジャパヒト古銭 (14KB)
マジャパヒト古銭 

 あ、これがマジャパヒトのコインですか? 何か、中国の貨幣に似てる……
「ゴドックという銅銭でござる。ワヤン (影絵芝居) の登場人物を刻印したものもござるでござる」
 なるほど……
「時にご客人。もしや、銭をお持ちでないのでは……」
 まさか。ちゃんとインドネシアの5万ルピア札もありますよ。
「紙ではござらぬか」
 あ、じゃ、これ、もう流行遅れの特売たまごっちあげるから。
「ふむ。これは。むむむ。面妖な」
 今のうちにマジャパヒトの王都トロウランを去ることにしましょう。

 トロウランから南下し、マラン市の北方約15kmほどのアルジュナ山のふもとに差しかかると、ほら、チャンディ・シンゴサリ (Candi Singosari) が見えてきました。

チャンディ・シンゴサリ (31KB)
チャンディ・シンゴサリ

 これは前王朝シンガサリ朝の最後の王クルタナガラの霊廟ですが、建てたのはガジャ・マダです。大国家建設の大願を達成したガジャ・マダが、その記念に1360年頃この美しい神殿を建てたのです。

 さらにずーっと南に下ると、ブリタール市の北東12kmに位置するチャンディ・パナタラン (Candi Panataran) に至ります。トロウランがマジャパヒト王国の政治・経済のセンターであるのに対し、ここは宗教と信仰の中心地なのです。
 パナタランはシンガサリ朝以前からも聖地として信仰を集めていましたが、にわかに脚光を浴びるようになったのはマジャパヒト期になってからです。
 特に1347〜1375年頃、この地に荘厳な霊廟寺院群が建てられてからは、東部ジャワで最も重要な聖地となり、マジャパヒト朝最大の遺跡となります。
 にも関わらず、この寺院群は、統一された計画の下に建造されたと言うよりは、やたら雑然と建て増しされたような、一種アナーキーな印象を与えます。
 まずはパナタラン寺院群に足を踏み入れてみましょう。

チャンディ・パナタラン全景 (19KB)
チャンディ・パナタラン全景 

 左手前の台座 (失われた寺院の?) の向こうに見えるのはタンガル堂。その背後に隠れてナーガ堂があり、一番奥に見えているのが本殿のヴィシュヌ神殿です。
 まずタンガル堂に近付いてみましょう。

タンガル堂 (35KB)
タンガル堂 

 「タンガル(日付)堂」と呼ばれるゆえんは、入り口に1369年という年代を示す碑文が付いているためです。
 入り口のカーラ(鬼面)は、下あご付きの典型的東ジャワ・スタイル。

タンガル堂前面 (37KB)
タンガル堂前面 

 その裏には「ナーガ(蛇)堂」があります。
 その名の通り周囲を蛇がうねり、天女が持ち上げています。

ナーガ堂 (42KB)
ナーガ堂 

 はて、この天女、なぜ大蛇を支えてやっているのでしょう?  

 さて、最も奥にある本殿は、パナタランのチャンディ群の中でもハイライト的存在です。
 もともと巨大な塔堂が建っていたのでしょうが、現在はその基壇が3段残っているだけですが、そこに見事な浮彫が施されているのです。
 まず第1段には古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の物語が描かれています。

本殿第1基壇 (38KB)
本殿第1基壇 

 階段で登ってみましょう。
 第2基壇と第3基壇が見えます。
 第2基壇には古代ジャワの物語『クリシュナヤーナ』が彫られています。

本殿第2基壇 (36KB)
本殿第2基壇 

 それにしても観光客の多いこと。日曜日だったからなあ〜。
 もう一階上がると、第3基壇が目の前に現れます。

本殿第3基壇 (37KB)
本殿第3基壇 

 お、神鳥ガルーダ!
 第3基壇の上に上がると、とりあえずの頂上です。振り返って、チャンディ・パナタランを上から見渡しておきましょう。

本殿頂上から望むパナタラン寺院群 (33KB)
本殿頂上から望むパナタラン寺院群 

 右手前がナーガ堂、中央向こうの塔がタンガル堂に当たります。

 14世紀に極盛を誇ったマジャパヒト王国も、15世紀になるとマレー半島のマラッカ王国に通商の主導権を奪われ、さらに1480年代以降はジャワ島北岸に成立したイスラム教港市国家群に激しく領土を侵食されてゆきます。
 マジャパヒトの王都(トロウラン)は16世紀初頭、中部ジャワ北岸のドゥマクを中心とするイスラム連合軍に襲われます。偶像崇拝を認めないイスラム軍は、マジャパヒトの神殿、寺院、神仏像、置物などを完膚無きまで破壊しました。
 現在、トロウラン都跡にあるモジョクルト国立博物館の裏庭には大量の美術品の破片が無造作に積まれ、破壊の激しさを偲ばせます。
 こうしてマジャパヒト王国は滅び、ヒンドゥー・ジャワ文化はバリ島へと落ち延びて行くのです。

 マジャパヒトも滅んだことですし、我々もそろそろ現代へ戻るとしましょう。
 皆様、長いことお付き合い下さいましてどうもありがとうございま---え? マジャパヒトの末裔を追ってバリ島へ行きたい?
 そりゃあたしも行きたいですけど……また次回ということで。では、いずれお会いしましょう。


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©1999 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1999/07/19

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