エルランガ王の眠る山 |
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11世紀前半に東ジャワに大王国を築き、クディリ朝の初代となったエルランガ (アイルランガとも。Airlangga) 王は、霊峰プナングンガン山の東麓にあるベラハン寺院 (Candi Belahan) に祀られました。 それでは、この伝説的英雄が眠る聖山と寺院跡を、想像のタイムマシンで訪れてみましょう。
さあ、ここは1030年代の東部ジャワ北東、ブランタス川流域です。
ところが、不思議なことがあります。
しかし、そのような疑問は実際にプナングンガン山の姿を見ればいっぺんで氷解するでしょう。
この山は、特にブランタス川下流のデルタ平野から見た場合、だだっ広い地平線に一つだけ、ぽっかりと山影を浮かび上がらせるのです。その姿は王国内どこからでも拝むことが出来たはずです。 なるほど、この姿を見れば当時のジャワ人たちが、プナングンガン山こそ神の鎮座まします聖なる山と信じても不思議はないし、王国の支配者がアルジュナ山ではなくプナングンガン山に本拠地を構えたのも納得できます。 実際、プナングンガンは、仏教で言う世界の中心を成す聖山「須弥山 (しゅみせん) 」(サンスクリット語スメールの漢訳)と同一視されていました。
ところで1030年代以降は、エルランガ王の権力が増大し、王国が繁栄した時代です。
このうち通商は、ブランタス川を利用した海上交通と、スラバヤ、トゥバンといった北東部の外港に於ける外国貿易でした。従ってこうした商業活動は主に北東部のデルタ地帯で行われたと思われます。
しかし、もう一つの経済の柱である農業は、主に山間部で行われていたようです。
さて、広大な領土を統一し、繁栄に導いた希代の英雄エルランガも退く時がやってきました。 1045年頃、彼は二人の息子に領地を分け与えて引退し、1049年に世を去りました。 彼の霊廟、つまりお墓はプナングンガン東麓に建てられました。それがベラハン寺院 (Candi Belahan)です。
ところが、オランダ人はエルランガ像だけはずして、オランダのライデン大学博物館へ持って行ってしまいました。その後インドネシア共和国に返還されましたが、モジョクルトの国立博物館に置かれ、本来の場所には戻されていません。 さて、もう一度エルランガ像を見て頂きましょう。
このエルランガはヒンドゥー教のヴィシュヌ神として表されています。その証拠に、霊鳥ガルーダに乗り、4本腕です。 一方、その両脇の女神たちを見て下さい。
右手前はシュリー、左奥がラクシュミーです。二人は同一の女神の異なった姿と考えられ、幸運と実りをもたらす女神であり、仏教に入って「吉祥天」としても知られます。 豊穣神であることは、右のシュリーの豊かな乳房を見ても分かります。乳から水を出す噴水像は、その後のシンガサリ朝やマジャパヒト朝時代にも受け継がれます。 この二人の女神は二人の妃を象徴していて、どちらかが例のシュリーヴィジャヤの王女だと考えられています。
さて、そろそろ現代へ戻るとしましょう。
何と、近所の村人たちは、この国宝級文化財を、日常のマンディ(水浴)の場所に使っているではないですか。洗剤で着物を洗っているお父さんもいます。ちょうどお風呂の時間なので、あとからあとからタオルを持った人が集まってきます。 日本では考えられない光景に、ちょっとうろたえましたが、でも考えてみれば、950年も前にエルランガ王が建てた沐浴場が、今も地域の人々の生活の役に立っているのです。これはすごいことではないでしょうか。ここの人々にとっては、エルランガ王は遠い昔の伝説ではなく、具体的な恩恵を与えてくれる偉人です。スカルノやスハルトやメガワティより、ずっと身近でずっと偉大な指導者なのです。 村人の一人に「この水は ポンプで汲み上げているの?」と聞くと、「いや。山から」と教えてくれました。
千年もの間、この山間の農村に恵みを与え続けたエルランガ王のお墓。 チャンディ・ベラハンを背に山を下りていく時、西日に照らされた山の風景はひときわ美しく見えました。
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