エルランガ王の眠る山
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 11世紀前半に東ジャワに大王国を築き、クディリ朝の初代となったエルランガ (アイルランガとも。Airlangga) 王は、霊峰プナングンガン山の東麓にあるベラハン寺院 (Candi Belahan) に祀られました。
 それでは、この伝説的英雄が眠る聖山と寺院跡を、想像のタイムマシンで訪れてみましょう。

 さあ、ここは1030年代の東部ジャワ北東、ブランタス川流域です。
 ブランタス川は、アルジュナ山、カウィ山、クルッド山など東ジャワ西部に広がる山系に発する長大な川で、ソロ川(ブンガワン・ソロ)に続くインドネシア第2の長さを誇っています。
 10世紀初めまで中部ジャワでボロブドゥールプランバナンといった壮大な石造建築を築いてきたジャワ族の王国は、932年頃、(恐らく中部ジャワのメラピ火山の大噴火のため、)東ジャワのブランタス流域に移ってきました。
 そしてその中心は、ブランタス川の支流ポロン川に近いプナングンガン山だったと考えられています。

 ところが、不思議なことがあります。
 プナングンガン山の標高は1653m。大して高い山ではありません。
 一方、その南に連なるアルジュナ山は3339m、さらに南方のカウィ山も2551mと、プナングンガン山よりずっと高いのです。
 それなのに、東ジャワに移ったジャワ族の先祖たちは、なぜプナングンガンのような低くて目立たない山を根拠地にしたのでしょう?

 しかし、そのような疑問は実際にプナングンガン山の姿を見ればいっぺんで氷解するでしょう。

プナングンガン山 (17KB)
西北から見たプナングンガン山 

 この山は、特にブランタス川下流のデルタ平野から見た場合、だだっ広い地平線に一つだけ、ぽっかりと山影を浮かび上がらせるのです。その姿は王国内どこからでも拝むことが出来たはずです。
 なるほど、この姿を見れば当時のジャワ人たちが、プナングンガン山こそ神の鎮座まします聖なる山と信じても不思議はないし、王国の支配者がアルジュナ山ではなくプナングンガン山に本拠地を構えたのも納得できます。
 実際、プナングンガンは、仏教で言う世界の中心を成す聖山「須弥山 (しゅみせん) 」(サンスクリット語スメールの漢訳)と同一視されていました。

 ところで1030年代以降は、エルランガ王の権力が増大し、王国が繁栄した時代です。
 その繁栄の基盤は、

  1. 通商
  2. 農業
でした。

 このうち通商は、ブランタス川を利用した海上交通と、スラバヤ、トゥバンといった北東部の外港に於ける外国貿易でした。従ってこうした商業活動は主に北東部のデルタ地帯で行われたと思われます。
 交易を通じてスマトラ南部のシュリーヴィジャヤ王国との関係も深まり、1030年頃エルランガ王はシュリーヴィジャヤの王女と結婚します。実はエルランガ王は1016年頃、シンドク王家(サンジャヤ朝)出身の東ジャワ王ダルマヴァンシャの娘と結婚しており、だから彼女は二人目の妻です。

 しかし、もう一つの経済の柱である農業は、主に山間部で行われていたようです。
 現在でこそ、ブランタス川下流デルタには広大な田畑が広がり、ジャワの一大穀倉地帯となっていますが、デルタ地帯の開墾が進むのは、18世紀以降にオランダがサトウキビのプランテーションを広げるため大々的な潅漑工事を行って以降のことです。それ以前の地図には、デルタ地方は空白です。
 従ってエルランガの頃の農業は、雨水と山からの湧水に頼る天水農業です。農村は、火山山麓の肥えた土壌に広がり、陸稲または天水田を営んでいました。
 そうした山間の農村の様子は、今でも見ることが出来ます。

プナングンガン山麓の農村 (27KB)
プナングンガン山麓の農村 

 さて、広大な領土を統一し、繁栄に導いた希代の英雄エルランガも退く時がやってきました。
 1045年頃、彼は二人の息子に領地を分け与えて引退し、1049年に世を去りました。
 彼の霊廟、つまりお墓はプナングンガン東麓に建てられました。それがベラハン寺院 (Candi Belahan)です。

エルランガ像
ベラハン寺院 (39KB)
エルランガ像とベラハン寺院

 
 建てられた時、左のエルランガ像は、下のベラハン寺院沐浴場跡の中央に据えられていました。
 ところが、オランダ人はエルランガ像だけはずして、オランダのライデン大学博物館へ持って行ってしまいました。その後インドネシア共和国に返還されましたが、モジョクルトの国立博物館に置かれ、本来の場所には戻されていません。
 さて、もう一度エルランガ像を見て頂きましょう。

エルランガ像 (19KB)
エルランガ像
神鷹ガルーダに乗ったヴィシュヌ神として示されている。

 このエルランガはヒンドゥー教ヴィシュヌ神として表されています。その証拠に、霊鳥ガルーダに乗り、4本腕です。
 一方、その両脇の女神たちを見て下さい。

シュリー女神とラクシュミー女神 (40KB)
シュリー女神とラクシュミー女神 

 右手前はシュリー、左奥がラクシュミーです。二人は同一の女神の異なった姿と考えられ、幸運と実りをもたらす女神であり、仏教に入って「吉祥天」としても知られます。
 豊穣神であることは、右のシュリーの豊かな乳房を見ても分かります。乳から水を出す噴水像は、その後のシンガサリ朝マジャパヒト朝時代にも受け継がれます。
 この二人の女神は二人の妃を象徴していて、どちらかが例のシュリーヴィジャヤの王女だと考えられています。

 さて、そろそろ現代へ戻るとしましょう。
 戻るのは1999年7月3日、作者がベラハン寺院を訪れた夕刻です。
 エルランガの霊廟という国宝級の文化財を初めて目にする緊張にみなぎりながらチャンディ(寺院跡)に近付いて行くと、何やらにぎやかな声が聞こえます。
 不思議に思ってのぞいてみると、ああっ!

ベラハン寺院で水風呂につかる村人たち (38KB)
ベラハン寺院で水風呂につかる村人たち 

 何と、近所の村人たちは、この国宝級文化財を、日常のマンディ(水浴)の場所に使っているではないですか。洗剤で着物を洗っているお父さんもいます。ちょうどお風呂の時間なので、あとからあとからタオルを持った人が集まってきます。
 日本では考えられない光景に、ちょっとうろたえましたが、でも考えてみれば、950年も前にエルランガ王が建てた沐浴場が、今も地域の人々の生活の役に立っているのです。これはすごいことではないでしょうか。ここの人々にとっては、エルランガ王は遠い昔の伝説ではなく、具体的な恩恵を与えてくれる偉人です。スカルノやスハルトやメガワティより、ずっと身近でずっと偉大な指導者なのです。
 村人の一人に「この水は ポンプで汲み上げているの?」と聞くと、「いや。山から」と教えてくれました。

 千年もの間、この山間の農村に恵みを与え続けたエルランガ王のお墓。
 歴史は今に生きています。

 チャンディ・ベラハンを背に山を下りていく時、西日に照らされた山の風景はひときわ美しく見えました。

夕暮れのプナングンガン山麓 (48KB) うう、重い……
夕暮れのプナングンガン山麓 


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©1999 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1999/07/10

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