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スマトラ北部のアチェ族が築いた王国。Acheh、Atjeh、Achinとも綴る。
アチェ族はスマトラ島の北端に居住する人びとで、マレー人、ジャワ人、インド人、ニアス島人などとの混血。稲作に従事する農耕民で、イスラム教徒が多い。
- 15世紀末
- マジャパヒト王国から独立。
- ?〜1530 初代 アリ・ムハヤット・シャ
- 旧2王朝を統合、マコタ・アラム朝を開きアチェのダルル・サラム王国を築く。
北西岸を根拠として海上貿易で国勢が盛んになる。
1520年代以降、クタラジャ(現バンダ・アチェ)を中心に急激に発展。
マラッカのポルトガル人とはこの後1世紀の間常に対立。
- 1524
- 胡椒の積出港パサイを占領。
- 1537
- ポルトガル領マラッカに最初の攻撃。
- 1564
- 商売敵のジョホール王国を攻撃、そのスルタンを捕虜に。
- 1607〜1636 第12代 イスカンダル・ムダ
- アチェ王国の最盛期。
スマトラ産の胡椒の貿易を独占し、富み栄える。
最大版図を実現し、スラトラ西岸(インドラプーラ、ティクー、パダンなど)から中央部、マレー半島北西部をも支配する強国に。
同時にイスラム教の一大中心としても栄えた。
- [支配体制] スルタンの下には家臣ウレーバランや中央貴族層がいた。村々は数村ずつ「ムキム」という宗教・政治単位に編成され、「イムム」(イマーム)の宗教的権威下に置かれていたが、これを封土としてウレーバランや貴族に与えた。
- 1636〜1641 第13代 イスカンダル・サニ (Iskandar Thani)
- 1641年以降、女王が4代続き、次第にオランダ東インド会社(VOC)の干渉を受けるようになる。
- 1641〜1675 第14代 タジュル・アラム女王
- 王国の弱体化と同時に、ムキム=ウレーバラン領制が緩み、貴族層の台頭・対立が始まる。イムム、ウレーバラン、貴族はそれぞれ世俗化、世襲化し、地方領主へと変質した。
- 1663
- スマトラ西岸諸国、VOCの保護下に。
- 1675〜1678 第15代 ヌール・アラム女王
- ムキムの連合体「サゴゥ」と称する全く新しい政治集団が王都を中心に3つ形成され、その長パンリマ・サゴゥも世襲化されてその権力は王位継承を左右するほど強大になった。
やがて王の選出は、各サゴゥを代表する有力ウレーバランによって行われるようになり、18世紀以降は外来系の王朝も生まれるが、内紛は絶えなかった。
- 1699〜1726 アラブ系王朝
- 1727〜1903 ブギス系王朝
- 19世紀前半〜
- 胡椒輸出で再び台頭。
- 1824 ロンドン条約
- イギリスとオランダはベンクールーとマラッカを交換し、マラッカ海峡を境にマレー半島側はイギリス、スマトラ島側はオランダ、と勢力圏を確定した。
- 1871 スマトラ条約
- イギリスはオランダに対し、スマトラ島での自由行動 =領土獲得)を認める。
- 1870〜1874 第32代 マフムッド・シャ
- オランダによるスマトラ東岸への干渉拡大に脅威を感じ、秘密裏にトルコ、アメリカ、イタリアに接触、オランダを牽制しようとした。
- 1873〜1912 アチェ戦争
- オランダ人植民者と衝突、激烈な戦いの後敗北、以後オランダの支配に入った。
- 1873年3月
- アチェ王国の秘密交渉が明るみに出たため、オランダはアチェ王国に宣戦布告。
- 同 年4月
- アチェのウレーバラン(領主)層はスルタン・マフムッドの下に結束、オランダ軍を撃退。
- 同 年12月
- オランダの再侵略。激戦の末王都を奪われた。
- 1874年1月
- スルタン・マフムッドは病死。
- 以後軍は統一を欠き、戦況はアチェに不利に展開、1878年までに王国中心部をなす大アチェを奪われてしまった。
ウレーバランの大部分はオランダの宗主権を認めることで旧権力を保証されたため、降伏した。
- 1874〜1903 第33代 ムハマッド・ダウド・シャ
- しかし、新スルタン、ダウド・シャを擁立するパンリマ・ポレム6世親子ら一部は降伏を拒否。
- 1880年以降
- チック・ディ・ティロらウラマ層がジハード(聖戦)を呼びかけ、農民を組織してゲリラ攻撃を展開。
また、降伏派ウレーバランから権力をもぎ取ろうとする新興ウレーバラン(テウク・ウマルら)もこれに加勢。
この後10年、アチェ軍ゲリラ隊は守勢に回ったオランダ軍を圧倒。オランダ側の戦死者は1万人、戦費も莫大なものにのぼり、士気も喪失。
- 1890年代後半
- オランダ側は、イスラム学者スヌーク・ヒュルフローニエの研究書『アチェ人』の理論を基に、軍人ファン・ヒューツの指揮の下、積極攻撃に転じた。
アチェ軍は個別撃破されていく。
- 1903
- スルタンやパンリマ・ポレム8世ら抵抗派ウレーバランが降伏。
- 1903〜1904
- オランダは続いて内陸山地ガヨ・アラス地方にも出兵、征服。
通常はこの年をもってアチェ戦争終結の年とする。
- 1912
- ウラマの組織的抵抗が終結。
- アチェ戦争後、オランダ植民地政府はウレーバラン(領主層)の封建的特権を認め、支配機構に組み入れ、一方ウラマ(イスラム学者兼指導者)を弾圧。
- 1939 「プサ」 (全アチェ・ウラマ同盟) 結成
- 改革派ウラマは西洋式宗教学校マドゥラサでの教育を普及させるため「プサ」を結成。民族主義的傾向が強い。
- 日本軍政期
- プサは当初日本軍到来をアチェの解放ととらえ、日本軍に積極的に協力。
しかし日本軍が逆にプサを警戒・監視したため、期待を裏切られた。
- 独立革命期
- プサを中心とするウラマ層は、既得権保持のためオランダの復帰を待ち望むウレーバランから権力を奪取、ダウド・ブレエ (Daud Beureu'eh) を中心に州政府の実権を把握、イスラムに基づく社会改革の遂行に務める。
- 1949 インドネシア連邦共和国独立
- アチェも連邦内の一自治国として独立。
- 1950 インドネシア共和国へ統合
- 中央政府はアチェ州を北スマトラ州へ編入することを決定。プサのイスラム的社会改革は阻まれることとなった。
- これに対してダウド・ブレエに指導されたプサ系ウラマ及び民衆は、アチェの自治を激しく要求。
- 1951
- アチェ州設置の要求が通る。
- しかし、インドネシアの他地域で、イスラム国家建設を求める武力闘争(ダルル・イスラム (Darul Islam) )が激化すると……
- 1953
- ダウド・ブレエ率いるプサ系勢力はダルル・イスラム運動に連携、イスラム共和国建設を唱えて反乱開始(9月)。
- 1959
- スカルノ大統領は将来の独立に含みを持たせ、アチェを特別州(大幅な自治を許可)に指定。
- 1962
- 反乱は終息し、首謀者は降伏。
この失敗でプサ系ウラマは州政府での権力を全て失い、かつて彼らが実施したマドゥラサの国立化、公的イスラム教育への影響力も失った。
- 1967
- スハルト政権成立。
同政権はアチェの豊かな石油・ガス及び森林資源を収奪、また移民政策 (transmigrasi) で多数のジャワ人を送り込んだ。
- 1976〜1977
- 実業家ハッサン・ディ・ティロ (Hasan di Tiro) が1976年12月4日、反政府独立派武装ゲリラ組織「自由アチェ運動 (GAM) 」を結成、アチェの独立を宣言。
アルン・ガス田の収益による人口340万人の独立国建国を企てたが、インドネシア国軍の徹底弾圧にあい、独立運動はつぶされる。ハッサン・ティロ含むメンバーの一部はスウェーデンに逃亡。
- 1989
- 「アチェ・スマトラ国民解放戦線 (National Liberation Front Aceh Sumatra) 」など、独立を求める武装闘争が激化。
インドネシア政府はアチェを国軍による「軍事作戦地域 (DOM) 」に指定、10年間に渡り苛烈な弾圧を行う。
- 1998
- スハルト体制の崩壊により、「軍事作戦地域 (DOM) 」指定が解除される。
ある調査では、この間に国軍の特別軍事作戦で殺害された住民は、1300人、行方不明が940人、夫をなくした未亡人や暴行被害者、障害などを被ったのは2300人以上。 (住民の死者は5000人以上との見方も。)
- 1998年末〜
- 国軍と住民の衝突が再び激化。
- 1999
- スウェーデン亡命中のハッサン・ティロを指導者とする「自由アチェ運動 (GAM) 」が、アチェ独立を宣言。
インドネシア国軍とゲリラの衝突が続き、治安は極度に悪化。
- 1999年7月1日
- 西アチェ県ブトンのブトゥンアトゥ地区で、国軍が、イスラム寄宿舎を反政府ゲリラGAMの拠点として急襲、イスラム指導者バンタキア氏を含む51人を集団殺害。
国軍は「バンタキア氏が武装して応戦、銃撃戦の末射殺された」と発表したが、真相究明チームは1999年10月末、「バンタキア氏が反政府運動と関わりがあったという証拠は見当たらず、ブトゥンアトゥ地区もGAMの拠点ではない」と結論。
- 1999年10月〜
- 北アチェ県、ピディ県、東アチェ県等でGAMの武装闘争が活発化。
- 同年11月4日
- 就任直後のワヒド大統領、「東ティモールで出来たことがなぜアチェで出来ないのか」と述べ、(アチェ独立を問う)住民投票の実施に前向きな発言。→アチェ人の独立機運を刺激。
- 同年11月8日
- アチェ特別州の州都バンダアチェで「独立要求大会」が開かれ、公称100万人が参加、住民投票の実施を訴える。
- 同年12月4日
- GAM結成23周年記念式典。ゼネストは回避。
- 2000年2月
- ワヒド大統領はGAMとの間で停戦合意がなったと発表。しかしGAM側がこれを否定。
- 同年5月
- GAMはインドネシア政府と停戦合意文書に調印。
- しかしその後も紛争が絶えず……
- 2001年3月
- 石油会社エクソンモービルは治安悪化のため、アルン・ガス田の生産を4ヶ月に渡り中止。
- 2002年12月9日
- メガワティ政権が GAM と和平合意。
犠牲者1万人以上を出したアチェ紛争はようやく終結するかに思われた。
- だが、やはり GAM の武装解除は進まず。
- 2003年5月19日
- メガワティ大統領は和平協議の決裂を受け、アチェ州に6カ月 (延長可) の「軍事非常事態宣言」 (=戒厳令に相当) を布告、GAM掃討の軍事作戦を発動。
これにより GAM との和平協定は完全に崩壊。
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