インドネシア歴史探訪
インドネシア共和国の成立

 日本の力で独立を達成しようとしていた矢先、日本の敗戦で、インドネシアは国際政治の荒波のただ中に放り出されることになりました。
 その困難の中で、インドネシアがいかにして独立を達成し、いかにして統一を維持し、いかにしてスカルノ体制が崩壊したかを見てみましょう。

  • 独立の達成
  • 相次ぐ反乱
  • 迷走する「指導される民主主義」
  • 9月30日事件とスカルノの失脚


    独立の達成

    独立宣言書 (7.4KB):                                                                                                                   =宣言=

 我々インドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
 政権の委譲その他は迅速かつ正確に行われるべし。
 (皇紀)2605年8月17日、ジャカルタにて
 インドネシア民族の名に於いて スカルノ ハッタ
    独立宣言書
    左下はスカルノの草稿、右上は実際に読み上げられたもの。
     日本軍の無条件全面降伏の翌8月16日早朝、スカルノとハッタが、急進派青年グループによってジャカルタ郊外のレンガスデンクロック (Rengasdengklok) にあるペタ (義勇軍) 中団へ誘拐されるという事件が起きました。
     スカルノとハッタは、日本から国家権力の即刻奪取を主張する若者たちをなだめながら、密かに歴史的決断を下します。彼らは日本軍の海軍武官前田少将の邸宅を借り、独立宣言を練り上げます。
    独立の瞬間 (14.6KB)
    独立の瞬間
    スカルノ (左端、その右はハッタ) が独立宣言文を読み上げた後、妻ファトマワティお手製の紅白旗(国旗)が掲揚されました。
     そして翌日1945年8月17日午前10時、スカルノは、ジャカルタ・メンテン地区の自宅前で、全世界に向け、「インドネシア共和国 (Republik Indonesia, 略してRI〔エル・イー〕)」の独立を宣言したのです。

       翌8月18日、共和国暫定憲法(1945年憲法)が制定され、スカルノとハッタが正副大統領に選出されました。
     インドネシア国民党マシュミ党インドネシア共産党などの諸政党も結成され、社会党のシャフリルは10月に内閣を組織します。
     インドネシア国軍の母体となる人民治安軍も、日本軍から密かに受け取った武器をもとに、10月頃に編成されました。

     その頃、現状維持を目的とする連合軍が続々と上陸、人民治安軍その他の武装グループとの衝突が始まりました。10月27日に始まったスラバヤの戦いは1ヶ月にわたる激戦となります。
     インドネシアは、第2次大戦終了後に初めて戦争に突入したわけです。

     植民地支配を続けようとするオランダとの交渉は1946年2月に始まりましたが、オランダはシャフリル内閣に無理難題を吹っかけ、交渉は遅々として進みません。
     その間、連合軍との戦闘はスマランやバンドゥンにも広がり、3月24日にはバンドゥン全市の焦土作戦が実行される(「バンドゥン火の海事件」)など、勇敢な戦いが繰り広げられましたが、オランダ軍は占領地に「東インドネシア国」「東スマトラ国」「パスンダン(スンダ国)」など次々と傀儡国家を樹立してゆきました。

     このような状況を見て、戦前の共産党指導者タン・マラカら徹底抗戦派は、シャフリルの軟弱な外交路線に業を煮やし、6月27日にシャフリルを誘拐しました。
     しかしスカルノは即座にシャフリルを救出し、抗戦派を一網打尽にし、2年間投獄します(「7月3日事件」)。

     ねばり強い交渉の結果、11月15日、いったん「リンガジャティ協定」が結ばれます。しかしこれにはインドネシアもオランダも不満でした。
     1947年7月、オランダは、「インドネシアが協定を守らない」という名目で、15万の兵力で全面攻撃を仕掛けてきました。
     これをオランダは「第1次警察行動」と呼びますが、インドネシア側は「第1次植民地戦争」と呼んでいます。
     ジャワ、スマトラの大部分を失ったインドネシア共和国は、1948年1月17日にオランダと「レンヴィル協定」を結びました。これは前の協定よりさらに不利で、共和国は中部ジャワ内陸部に封じ込められました。

     この協定を調印した社会党のアミール・シャリフディン内閣は調印後倒れ、副大統領ハッタ自らが組閣しますが、ここに、インドネシア共産党の幹部の一人ムソが20年ぶりにソ連から帰国したことから情勢が急変します。
     ムソの共産党は、シャリフディン率いる左派連合や、ハッタ内閣の国軍合理化計画に反対する国軍の一部勢力など、反ハッタ勢力を取り込み、遂に9月、ジャワ東部マディウン市で武装蜂起を起こしたのです。
     「マディウン事件」と呼ばれるこの大反乱は1ヶ月続きましたが、最後は政府軍に鎮圧され、ムソは戦死、シャリフディンは他の共産党幹部と共に逮捕・処刑されました。

     混乱が続く中、オランダは1948年12月18日、新たな侵略を開始しました(第2次警察行動)。オランダ軍はレンヴィル協定を無視して共和国の首都ジョクジャカルタを占領、スカルノ、ハッタ他共和国首脳を逮捕しました。
     共和国滅亡の危機に、共和国政府はスマトラにシャフルッディン・プラウィラヌガラを首班とする臨時政府を樹立、国軍も、肺結核で余命いくばくもないスディルマン参謀総長を担架で担ぎながら山岳部を転戦しつつ、果敢な抵抗を続けました。

     オランダの「第2次警察行動」は全世界の激しい非難を浴び、アメリカは、停戦しない場合はマーシャル・プラン(西側経済復興のための資金援助計画)の4億ドル供与を中止すると通告してきました(1)
     泣く子と援助国には勝てません。オランダはしぶしぶ侵略を断念し、翌1949年6月末までにジョクジャカルタから完全に撤退しました。
     翌7月、スカルノ、ハッタ、スディルマンらは熱狂的な歓迎の嵐の中をジョクジャカルタに帰還しました。

     8月23日から10日間続いたハーグ円卓会議では、旧植民地は、スカルノの支配する「インドネシア共和国」(ジョクジャカルタ周辺に限定)と、その他の15の自治国・自治地域からなる「インドネシア連邦共和国」として独立することとなりました。
     但し西イリアン(ニューギニア島の西半分)の帰属はのちに定めることとされました。
    ムルデカ宮殿 (11KB)
    現在のムルデカ宮殿 [June, 1999]

     オランダは1949年12月27日、「インドネシア連邦共和国」に主権を譲渡しました。
     この日、オランダ総督公邸は「ムルデカ(独立)宮殿」と名前を変え、空路ジョクジャカルタから到着したスカルノ大統領を新たな主人として迎え入れたのです。


    相次ぐ反乱

     形の上ではインドネシアは独立を達成しました。
     しかし国内は16の連邦に分断され、西イリアンは戻るかどうか分からない状態……これではとても「独立が達成された」と言える状態ではありません。

     そこでスカルノは連邦の各国に働きかけ、次々と「インドネシア共和国」へ合併しました。連邦は1950年8月17日発布の「1950年暫定憲法」をもって単一の「インドネシア共和国」に統一されたのです。

     残るは西イリアン統合という大目標です。
     ここで、スカルノ大統領と、ハッタ副大統領の間で考え方の相違が表面化してきました。
     スカルノは、西イリアンの合併が実現しない限り「革命」は完了していない、と考えました。
     しかしハッタは、インドネシア共和国の独立が達成された以上、今は経済の再建が先と考えたのです。
     事実、この頃インドネシア経済は破滅に瀕していました。生産は停滞、輸出はオランダ資本のボイコットにあい、財政は破綻、インフレは止めどもない……

     そうした経済危機を背景に、各地で反乱が相次ぎました。

     西ジャワの山間部には「ダルル・イスラム(DI)」という武装勢力がイスラム国家の建設をもくろんで毎晩ふもとの町を襲い(1948〜1956)アンボンの「南マルク共和国」(1950)、北スマトラのアチェ(1952)、メナドなどでもジャワ人支配を嫌って分離独立を目指す反乱が始まります。

     これら地方の反乱を鎮めるべき国軍中央も、この頃混乱に陥っていました。
     陸軍参謀長ナスティオンは、当時、兵力削減という難題に取り組んでいましたが、国民党左派が陸軍の再編・合理化に反対したのに怒り、1952年10月、デモを組織し、大統領官邸に部隊を動かして、スカルノに議会解散を要求しました(10月17日事件)。  しかしスカルノは反対に、国軍将校たちに、自分とナスティオンのどちらを支持するか、と迫りました。ナスティオンは解任され、陸軍は分裂状態に陥りました。

     一方、議会勢力も、うまみのある大臣職を巡ってたちまち腐敗し、国民党は内務大臣、社会党は外務大臣、マシュミ党は宗教大臣……という具合に閣僚ポストは既得権化されました。
     1952年には、宗教大臣の座が、1950年以来この地位を握っていたマシュミ党の中の保守イスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ(NU)」派議員ではなく、同党の近代主義団体「ムハマディア」派の手に渡ったため、NUがマシュミ党から脱退するという騒動が起こりました。
     国民党とマシュミ党を2大勢力とした議会制民主主義は、こうして機能不全に陥り、総選挙の必要性が認められたのです。

     軍の弱体化のため、1953年7月に成立した国民党のアリ・サストロアミジョヨ内閣はその後2年間続きますが、同内閣が1955年初め、国民党系の将校を陸軍参謀長に就けようとした時、陸軍は猛反発、2月に将校300人が集まって、一切の抗争の中止・陸軍参謀長人事への反対を決めました。
     アリ・サストロアミジョヨ内閣は倒れ、同年11月、陸軍参謀長にナスティオンが復帰、陸軍参謀次長には反ナスティオン派のズルキフリ・ルビスが就任して、国軍は再び結束を固めるのです。

     その少し前の1955年4月、西ジャワの高原都市バンドゥンで「アジア・アフリカ会議」(通称「バンドゥン会議」)が開かれました。欧米を含まないアジア・アフリカ29ヶ国による国際会議は史上初で、平和共存・反植民地主義に基づく平和10原則を発表、その後も国連外交などで影響を行使しました。

     しかし、インドネシア現代史にとっては、続く9月と12月に行われた国会及び制憲議会議員選出のための第1回総選挙の方がずっと重要です。
     これはインドネシア史上最初の自由な選挙だと言われます。
     しかしその結果は、

    1. インドネシア国民党(得票率22.3%)……スカルノの創設した伝統ある政党で、独立直後はマシュミ党と並ぶ強大な与党として主要閣僚ポストを独占。
    2. マシュミ党(得票率20.9%)……日本軍政が作った翼賛団体が1945年11月ジョクジャカルタでイスラム政党へ生まれ変わり、独立後の国政を担う。
       1952年の「ナフダトゥール・ウラマ」離脱後は、スマトラ、カリマンタン、スラウェシなど「外島」の声を代表する革新系イスラム政党へと脱皮。
    3. ナフダトゥール・ウラマ (NU)(得票率18.4%)……中東部ジャワを基盤とする保守系イスラム政党。1952年にマシュミから分離。
    4. インドネシア共産党(得票率16.4%)……1920年結成されたアジアで最古の共産党。1945年再建され、1948年9月の「マディウン事件」で打撃を被るが、1953年以来アイディットが指導、党勢を伸ばす。
    の四つどもえとなり、政局はますます混迷を深めました。
     議会は空転し、各政党は利権集団の色合いをいっそう強めて人々の失望を招き、スカルノ大統領は次第に政党解消論に傾いてゆくのです。

     さらに、総選挙は人口の多いジャワ人に有利に働き、資源は豊かだが人口が少ない「外島」(ジャワ以外の島=スマトラ、カリマンタン、スラウェシなど)住民との対立を一挙に表面化させました。
     地方反乱が頻発し、ダルル・イスラムも西ジャワ、南スラウェシ、アチェなどで攻勢を強めました。
     1956年11月、参謀次長ズルキフリ・ルビスたちは、陸軍の合理化を進める陸軍参謀長ナスティオンに反発し、クーデターを計画しましたが失敗に終わります。
     しかし、その直後の12月、東スマトラ、南スマトラ、北スラウェシなどの地方師団長は参謀本部に反発し、各種「反共」評議会を結成、一斉に反乱を開始します。
     同じ月、ハッタもスカルノの内政軽視に反発、副大統領を辞任しました。

     地元の民族独立運動と結合して地方軍閥化した西スマトラ、北スラウェシなどの「評議会」は、1957年3月、クーデターで地方政府を掌握しました。同年、反乱は東インドネシアやカリマンタン島に拡大します。
     この危機に際し、スカルノ大統領は戒厳令を宣言。「評議会」と結んでハッタ内閣の結成を要求するマシュミ党などを退け、「指導される民主主義」「指導される経済」の理念を打ち出し、大統領の強い指導力で危機を乗り越えていく考えを示しました。

     1957年12月、オランダが西イリアン返還の交渉を拒否したのを理由に、オランダ系資本の接収が強行されました。
     国有化された企業は、国軍に管理を任されました。軍は格好の天下り先を手に入れたわけで、懸案の人員削減をようやく実行する条件を得たのです。
     しかし当然、軍は経営の素人で、生産は極度に停滞することとなりました。

     1958年、危機はクライマックスに達します。
     1月以来マシュミ党や社会党指導者の一部が地方反乱に合流して、1958年2月、西スマトラや北スラウェシで、「暫定革命政府」の政府の樹立を宣言するに至ったのです。
     スマトラ西部では「協議会」議長フセイン大佐が、かつて1949年危機に首相代理を務めたシャフルッディン・プラウィラヌガラを首相に迎え、「インドネシア暫定革命政府」を樹立しました(2月15日)。
     インドネシア共和国は、国家分裂という、独立後最大の危機に直面しました。

     この時、ナスティオン陸軍参謀長も、他の政治家たちも、スカルノ支持に回りました。インドネシアの統一維持のため、日頃の対立を棚上げして大同団結したのです。
     参謀本部は、アメリカの援助で組織した陸軍特別降下連隊をスマトラと北スラウェシに投入、政府軍は4月にはフセイン大佐の本拠パダンを占領、年末までには反乱を鎮圧しました。

     反乱鎮圧を通じ、政党の力は削がれ、軍部の発言力は強まりました。
     スカルノ大統領はこの好機を逃しませんでした。
     1959年7月5日、軍の支持を背景に、絶大な大統領権限を定めた1945年憲法への復帰を宣言し、「指導される民主主義」を開始したのです。

       なおこの年、華人の商業活動を大幅に制限する条例が成立し、この年から翌1960年にかけ、華僑(かきょう)社会250万のうち10万人が国外へ去る大混乱が発生しました。


    迷走する「指導される民主主義」

    スカルノ (4KB)
    スカルノ大統領
    1960年8月に独裁体制を確立。
     1960年8月、議会は解散され、地方反乱に荷担したマシュミ党、社会党は非合法化されました。
     米欧風の多数決原理は否定され、「話し合い(ムシャワラ)」と「全会一致(ムファカット)」に基づく「助け合い(ゴトン・ロヨン)」を原則とする「国民評議会」が作られました。そこには政党代表の他に社会各層の「機能」代表も含まれました。
     国軍が国会に議席を持つようになったのもこの時からで、これ以降、国軍は防衛と国政という「ドウィ・ファンシ(二重機能)」を担うようになります。
     こうして誕生した「指導される民主主義」とは、端的に言えばスカルノ独裁の体制です。
     スカルノは「革命」を合い言葉に、国民党+イスラム各派、共産党、国軍という三頭立て馬車を巧みに操りながら、権力基盤を維持しようとしたのです。

     1961年12月、スカルノはいよいよ西イリアン(ニューギニア島の西半分の旧オランダ植民地)奪還の号令を発しました。
     翌1962年7月、スハルト少将指揮する陸軍一般予備軍(翌年、陸軍戦略予備軍と改称)西イリアンに落下傘降下し、西イリアン解放の「マンダラ作戦」が始まりました。
     アメリカの調停で翌8月停戦が成立し、翌1963年5月1日、西イリアンは国連の信託統治からインドネシアの支配下に移りました(最終的な帰属は1969年に国民投票を行って決めることになった)。  西イリアン解放闘争を成功させたスカルノは1963年6月、戒厳令を解除、またこの年、終身大統領の栄誉も手に入れました。

     スカルノは本来ここで経済再建へ向かうべきでした。インドネシアの経済危機は限界に達していたのです。
     ところがスカルノは、国民をまたも新たな対外対決へ駆り立てようとしました。
     1963年9月、マラヤ、シンガポール、サバ、サラワクが一つになり「マレーシア連邦」が生まれると、スカルノはこれを「新植民地主義によるインドネシア包囲の陰謀」と決めつけ、マレーシアを経済的・軍事的に締め上げる「コンフロンタシ(対決)」政策を開始しました。
     ところが、西イリアン解放ではあれほど味方した国際社会が、今度はそっぽを向いたのです。
     西側諸国との関係は悪化し、IMF、アメリカはインドネシアへの経済援助を停止しました。
     そのため経済は破局に瀕しました。財政は大赤字、対外債務は雪だるま式に膨らみ、1960〜65年にはハイパー・インフレーションに突入、1966年の消費者物価の上昇率は650%に達するのです。
     にも関わらずスカルノは強硬路線を貫きます。1965年1月7日には、マレーシアが国連安全保障理事国に選ばれたことに抗議して、インドネシアは国連を脱退してしまうのです。

     国内でも緊張が高まりつつありました。
     スカルノは民族主義、イスラム、共産主義を統合する「ナサコム(Nasakom=Nasionalisme, Agama, Komunisme)」という挙国一致体制を唱えましたが、実際には大統領は国軍と共産党の2大勢力の危ういバランスの上に立っていました。
     共産党はアイディット書記長の指導の下、スカルノの庇護を受け、共産圏以外では世界最大と言われる党員300万、支持者数千万の大勢力に膨れ上がり、国軍の唯一のライバルに成長していました。
     国軍は対抗手段としてイスラムなど反共諸勢力を回りに結集させ、両者の対立は先鋭化の一途を辿ったのです。

     そんな最中の1965年8月5日、スカルノが入院しました。
     スカルノ後の権力を握るのは軍か、それとも共産党か?
     両者の対立が極限に達した正にその時、「9月30日事件」と呼ばれるクーデター未遂事件が発生したのです。


    9月30日事件とスカルノの失脚

     1965年10月1日の早朝、「9月30日運動(2)」と称する決起部隊が突然、7人の陸軍司令部高級将校宅を襲い、ヤニ陸軍司令官以下6人の高級将校を拉致・殺害しました。
     ナスティオン国軍参謀長もあわや射殺される所でしたが、部下の士官が身代わりになり、無事でした。しかし彼の娘は自宅を襲った部隊に殺されました。

     「9月30日運動」の正体は国軍内の左派勢力で、チャクラビラワ大統領親衛隊の第1大隊長ウントゥン中佐、陸軍ジャカルタ地域軍管区第1旅団長ラティフ中佐、ハリム空軍基地司令官スヨノ空軍少佐の3人がその中心人物でした。
     彼らは大統領官邸、国営ラジオ放送局、電話局の3カ所を占拠し、ウントゥンは午前7時10分の国営ラジオの放送で、「9月30日運動」の目的を「米国CIAに操られた『将軍評議会』の反スカルノ・クーデターを未然に防ぐため」と説明しました。

     しかし、陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将の行動は極めて迅速でした。
     彼は一人ジープを走らせて戦略予備軍司令部に行き、陸軍の指揮権を把握、直ちにクーデターの鎮圧に乗り出します。
     同日午後8時にジャカルタの治安を回復した彼は、翌2日早朝にはクーデター派の本拠地ハリム空軍基地(ジャカルタ近郊)を制圧、反乱の息の根を止めるのです。
     ウントゥンは中部ジャワに逃亡して殺され、ラティフも逮捕されました。

     この「9月30日事件」は、従来は「共産党が主導したクーデター未遂事件」と言われていました。
     しかし最近の研究では、この事件には共産党はほとんど関与しておらず、国軍内部の路線対立が原因だったことが分かってきました。
     もう一つ、首謀者の一人ラティフの獄中証言(1998年)で明らかになったことがあります。それは、ラティフが陸軍高級将校の拉致計画を事前にスハルトに話していた、ということです。
     つまり、スハルトは「9月30日運動」を前もって知っていながら、上司であるヤニやナスティオンには知らせなかったのです。
     なぜか?
     もちろん、陸軍上層部がごっそりいなくなれば、自分がトップに立てるからです。
     こうして、「9月30日運動」のクーデターが失敗に終わった裏で、もう一つのクーデターが成就したのです----スハルトの陸軍把握というクーデターが。

     スカルノ大統領はこの事件をこれまでのクーデター未遂事件と同様に片付けようとし、10月2日にボゴール宮殿にやってきたスハルトを陸軍司令官に任命、「治安秩序回復」に必要な全権限を与えました。
     ところが10月3日、ハリム基地近くの井戸(現在「鰐の穴」と呼ばれる)から6将軍の死体が発見されると、国民の空気はがらりと変わり、共産党への憎悪が一気に燃え上がったのです。
     スハルトは「9月30日運動 (Gerakan September Tigapuluh)」の頭文字を並べて「ゲスタプ (Ge+S+T+apu)」と呼び、ナチの秘密警察ゲシュタポを連想させるようにし、人々の憎しみをさらに煽った上で、「治安秩序回復作戦司令部(KOPKAMTIB)」を率い、国軍、反共イスラム勢力、国民党右派勢力などを総動員して「共産党狩り」を開始しました。
     10月上旬、北スマトラのアチェで共産党員とそのシンパに対する大虐殺が始まり、10月中旬から11月下旬にかけては中部〜東部ジャワやバリに広がりました。
     共産党狩りは政府軍のみならず各地の自警団によっても進められ、インドネシア全土で殺戮の嵐が荒れ狂いました。
     特に大量の人々が殺害された1965年末〜1966年初めの東・中部ジャワ、バリ、アチェなどでは、河川を毎日首無し死体が流れ下り、人々が魚を食べるのをやめたほどです。
     虐殺された人々は翌1966年3月までに約60万人(3)に達したと言われます。
     そこには共産党員のみならず、多くの中国系住民(華僑、華人)が含まれていました。「共産党員=中国人」という図式からと言うより、潜在する反中国感情が爆発したからでしょう。

     インドネシア史上最悪の大量虐殺は、なぜ起きたのでしょう?
     ジャワ人やスンダ人は普段は大人しく礼儀正しいのですが、いったん興奮すると手が付けられなくなると言われます。この状態を「パナス (熱い)」と呼び、彼ら自身もそのような状態に陥るのを避ける工夫をしています。
     彼らが日頃欠かさぬマンディ (水浴び) も、心と体を「冷たい (ディンギン) 」状態に保つ象徴的行為ですし、西ジャワに多く見られる地名の接頭語チ(ci-)も冷たい水を表します。
     しかしスハルトは、対立勢力である共産党を完全に破壊するため、「9月30日事件」を利用して国民を煽り、パナス状態---さらには「アモック (狂乱)」状態---を故意に作り出したのです。

     ところが、スカルノが1966年2月21日に発表した新閣僚名簿には依然、スバンドリオ外相、オマール・ダニ空軍提督など容共派が含まれていました。
     スハルトは怒り、インドネシア学生行動戦線に1966年1月10日から3月11日まで連日デモを展開させ、教育文化省、外務省などを襲撃させました。
     国内の混乱と国家の崩壊を憂えたスカルノは、遂に同年3月11日、ボゴール宮殿において「3月11日命令書(いわゆる「スーパースマール(4))」に署名し、大統領権限をスハルトに委譲したのです。


    1.   アメリカは、「マディウン事件」で断固として共産党と戦ったスカルノを高く評価し、反共の防波堤に使おうと考えたのです。

    2.   「9月30日運動 (Gerakan 30 September)」は、インドネシアでは共産党(PKI = Partai Komunis Indonesia)とくっつけて、G 30 S/PKIと略されます。なおGerakanは「運動」「動き」以外に「行動」「攻撃」の意味もあります。

    3.   綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいインドネシア(第2版)』弘文堂1995年〜白石隆「政治と経済」による。
     治安秩序回復司令部参謀長スドモ海軍提督は、1965年10〜12月に45〜50万人が殺されたと推定(1976)。

    4.   Supersmar = Surat Perintah Sebelas Maret(3月11日命令書)の略で、ジャワの影絵芝居ワヤン・クリットの道化かつ最高神スマールのもじり。

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    ©1998 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1998/08/31, 1999/11/21

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