インドネシア歴史探訪
スハルトの「新秩序」

 スハルト政権は、一種の軍事独裁政権です。
 しかし、その経済開発重視策が効果を上げ、独立後のインドネシアで初めて継続的な経済成長に成功し、極めて安定した長期政権となりました。
 スハルトの「開発独裁」が成功したのはなぜでしょう? 32年もの長期政権を維持できた秘密は何でしょう? そして、なぜ崩壊したのでしょう?

  • 「新秩序」とは何か?
  • 高度経済成長の達成
  • インドネシアのバブル
  • 経済危機とスハルト体制の終焉


    「新秩序」とは何か?

    スハルト (5KB)
    スハルト将軍
     1966年3月11日、スカルノ大統領から職権委任状「スーパースマール(3月11日命令書)」を手に入れたスハルト将軍は、その翌朝午前6時に共産党の解散命令を発表、さっそく共産党・スカルノ派官僚・軍人の粛正に取りかかりました。
     スバンドリオ、オマール・ダニ、アリ・サストロアミジョヨなどスカルノと共に戦った独立の志士たちは次々に逮捕され、30〜40万人(1)もの「政治犯」が裁判なしで1970年代末までブル島の収容所に拘留されました。
     ナスティオンも閑職に追いやられ、中央の大臣、次官、局長、地方の州知事、県知事にはスハルト派軍人が任命されました。
     こうして、真綿でじわじわと首を絞めるようなやり方で、スハルト軍事政権が確立されていったのです。

     スハルトは自分の政治体制を自ら「新体制(オルデ・バルー)」と呼びました。
     その特徴は反共親米・経済重視の政策にあります。
     1966年1月、スハルトはウィジョヨ・ニティサストロを中心とするインドネシア大学経済学部グループに経済再建を命じます。
     主要メンバーのうちスブロトを除くウィジョヨ、アリ・ワルダナ、エミール・サリムらが米国カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得したことから「バークレー・マフィア」と呼ばれたこのグループは、西側の援助で経済開発を進めるという基本プランを作成、外国債務の繰り延べという難題を「インドネシア債権国会議(IGGI)」の結成で解決してスハルトの信任を得、1970年代初めまでスハルト政権の経済政策スタッフとして活躍します。
     外交面でもスハルトは、1966年8月にマレーシアと和解、9月に国連復帰など次々と外交方針を転換し、親米欧路線を明確にしました。

     外交方針の変更はスカルノ大統領をひどく怒らせました。
     スカルノは最後の抵抗として1967年2月20日、スハルトに「大統領権限を緊密な相談なしに使わないように」と要求しました
     しかしこれは逆効果でした。
     翌1967年3月12日のインドネシア暫定国民協議会は、スハルトを大統領代行に指名し、スカルノ大統領を事実上解任したのです。
     スカルノは終身大統領の名誉も剥奪され、ボゴールのバトゥ・トゥリス宮殿に幽閉されました。

     同じ1967年、「バークレー・マフィア」ウィジョヨの提案で外資導入法が制定され、外国援助・外資活用で経済開発を進めるという方針が明瞭に示されました。
     同年8月にインドネシアを含む東南アジア反共5ヶ国が東南アジア諸国連合(ASEAN)を設立したのも、西側諸国に安心感を与えました。

     1968年3月、スハルトは正式に第2代大統領に就任し、1969年には国軍の機構改革を行って陸軍の海、空、警察3軍に対する優位を確立、着々と自らの権力基盤を固めてゆきました。
     同年8月にはイリアンジャヤ(旧西イリアン)が住民投票の結果インドネシアの26番目の州となりました。しかしパプア系住民の一部は「パプア独立組織 (OPM)」を結成し、独立運動を続けます。

    スカルノ廟 (13KB)
    スカルノ廟 (東ジャワ州ブリタール)
    金曜の晩にはスカルノの霊が降誕すると信じられ、大変なにぎわいを見せます。[July, 1999]
     「ブン(兄貴)・カルノ」の愛称で国民に親しまれたスカルノがジャカルタ陸軍病院で亡くなったのは1970年6月21日早朝のことでした。
     子供に会うこともままならぬ幽閉生活で腎臓を害し、第1夫人ファトマワティ、第3夫人デウィ(日本名:根本七保子)、第4夫人ハリアティにも離婚され、最後まで付き添ったのは第2夫人ハルティニだけという、「独立の父」としては余りに寂しい晩年でした。
     彼の遺骸は、その遺志に反し、スハルトの指示で生まれ故郷ブリタールのガラス張りの廟に祀られました----元大統領の栄誉もなく、ただの「インシニュール(工学技師)」として。

    =COLUMN= スカルノ晩年の謎

     その頃、スハルトは公務員を体制翼賛の道具として使うことを思い付き、1970年代初めに「ゴロンガン・カルヤ(職能グループ)」、略して「ゴルカル」という集票組織を作り出しました。
     これは公務員組合を基盤とする全国規模の政治勢力で、すべての公務員はゴルカルへの投票を義務づけられました。

     1971年7月、第2回総選挙(スハルト新体制下では最初の総選挙)が行われました。
     結果は、ゴルカルが得票率62.8%を占める圧勝でした。
     スハルトはこうして、議会での政治基盤も固めたのです。


    高度経済成長の達成

     外資導入策は、1960年代末から外国投資の第1次ブームをもたらしました。
     特に日本からの投資が多く、とりわけ1973年には多くの日本企業が進出しました。しかし日系ビジネスマンは往々にしてインドネシアの文化・習慣に対する理解が浅く、しばしば摩擦を生じたといいます。

     同じ1973年大統領に再選されたスハルトは、野党勢力の力を削ぐため、当時存在したゴルカル以外の9つの政党を以下の二つに統合しました。

    • 開発統一党(PPP=「ペー3(ティガ)」と称される)……@ナフダトゥール・ウラマ(NU)、Aインドネシア・ムスリミン党(旧マシュミ系)、Bイスラム連盟、Cイスラム教育連盟の4つのイスラム系政党が合同。
    • インドネシア民主党(PDI)……@インドネシア国民党右派、Aカトリック党、Bインドネシア・クリスチャン党(プロテスタント系)、Cムルバ党(民族共産主義系)ほかの非イスラム系5党が合同。

       1973年10月、第4次中東戦争がきっかけで「石油ショック」が発生すると、インドネシアの石油収入も急増、国家財政は豊かになり、かなりの経済成長を示しました。
     中でもイブヌ・ストウォ総裁率いる国営石油会社プルタミナは、インドネシアの稼ぎ頭として急速に発展し、「国家の中の国家」と呼ばれるまでに強大化し、政府のコントロールも及ばないほどになります。
     スドノ・サリム、ボブ・ハッサン、プラヨゴ・パンゲストゥといった華僑系の政商(チュコン)も、好景気の中で頭角を現してきました。彼らはスハルト大統領と癒着し、莫大な利益を得ました。
     スハルト自身も、財団設立というサイド・ビジネスに精を出しました。
     与党ゴルカル支援のカルヤ・バクティ奉仕財団(ダカブ財団)、人道援助のゴトン・ロヨン財団、孤児、浮浪者、身体障害者を援助するダルマイス社会奉仕財団、奨学金支給のスーパースマール財団、宗教活動を支援するパンチャシラ・ムスリム奉仕財団……これらは人々から半ば強制的に寄付を徴収しました。
     財団の運営はスドノ・サリム、ボブ・ハッサンらスハルトの「御友人」に任されます。莫大な寄付金の一部はスハルトの財布に、一部は華僑財閥の投資に流れたのです。

     そんな最中の1974年1月15日、日本の田中角栄首相がインドネシアを訪問した時、ジャカルタ中心部で「マラリ事件」と呼ばれる反日暴動が起きました。
     インドネシア政府高官やプルタミナのストウォ総裁、華人実業家らが日本企業と癒着していることに対し、学生、知識人、プリブミ(非華人系現地人)実業家が怒りを爆発させたことが原因ですが、その裏には国軍内の権力闘争が絡んでいました。
     当時、大統領個人補佐官アリ・ムルトポ少将は、スハルトの私的な特務機関として「特別工作班」を率い、デモや暴動の準備、野党の集会破りなど、様々な情報操作・破壊工作に携わっていました(活動資金はサリム、アストラなど華人財閥が供給)
     闇の勢力である彼らと敵対するスミトロ国軍副司令官ら国軍司令部グループは、反日デモを組織し、親日派と言われるアリ・ムルトポを失脚させようと謀りました。しかしそれが暴動に火を付ける結果となったのです。
     事件後、失脚したのはスミトロの方でした。

     「マラリ事件」を境に政策の大きな転換が行われます。

     一つは、外資優遇から民族資本育成への変化です。
     石油増収で財政が豊かになった今、「バークレー・マフィア」の積極的な外資導入策はもう必要ありません。
     そこで、外資への規制が強化され、国内産業の育成に重点が置かれました。
     同時にプリブミが優先され、華人の経済活動に制約が加えられるようになりました。

     もう一つは、国営石油会社プルタミナの管理強化です。
     プルタミナはストウォ総裁による私物化がひどく、無茶な事業多角化を進めたため、1975年に世界経済不況のあおりで石油収入が伸び悩むと、プルタミナは途端に経営危機に陥りました。
     スハルトは1975年12月の大統領令でプルタミナの人事権を掌握、ストウォ総裁を放漫経営の責任で1976年3月に解任します。
     こうしてスハルトは「国家の中の国家」を攻め落とし、豊かな石油収入を国家の手に収めたのです。

     インドネシア国軍が東ティモールに軍事侵攻したのはこの頃です。
     東ティモールは1904年以来ポルトガルの支配を受けていましたが、1974年4月、ポルトガル本国で民主化クーデターが起こり、海外植民地の解放が打ち出されたのを受け、次の三つの勢力が東ティモールに登場しました。

    • ティモール民主連合(UDT)……穏健派。数年後の独立目指す。
    • 東ティモール独立革命戦線(フレティリン)……即時独立派。
    • ティモール民主人民協会(アポデティ)……インドネシアとの合同を訴える。
     UDTとフレティリンの対立から、東ティモールは1975年に内乱状態に陥りました。
     この内戦に勝利を得たフレティリンは1975年11月28日、「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。
     ところが、アリ・ムルトポの「特別工作班」が支援するUDTとアポデティは、翌11月29日、東ティモールのインドネシアへの統合を声明し、これに呼応する形で12月7日、インドネシア国軍は東ティモールへの軍事侵攻を開始したのです。

     スハルトは国連の撤退要求決議を無視し、翌1976年7月17日、東ティモールを27番目の州として併合しました。
     しかし抵抗は激しく、国軍が曲がりなりにも東ティモールを軍事的に制圧するのは1978年末、フレティリンの最高指導者ニコラウ・ロバトを射殺して以降の話で、その間の弾圧の犠牲者は、人口65万の東ティモールで20万人(2)と言われます。

     1977年の第3回総選挙以降、総選挙は、(1)軍・官主体の疑似政党ゴルカル、(2)イスラム系の開発統一党(PPP)、(3)非イスラム系のインドネシア民主党(PDI)の3党だけで行われ、常にゴルカルの圧勝で終わります。

     1979年、イラン革命(2月)を契機に第2次石油ショックが到来し、国家財政がさらに豊かになった政府は、その一部を「プリブミ(非中国系先住民)」企業育成に振り向けます。
     政府プロジェクトを優先的にプリブミ企業に回し、低利融資を行う政策は、バクリーのようなプリブミ財閥を生みました。

     しかし、2度にわたる石油危機は、1980年代初頭の世界経済にひどい停滞をもたらし、石油需要は激減、インドネシアの経済成長率も低迷します。
     税収の伸びの鈍化に直面したインドネシア政府は、1983年以降規制緩和による経済改革を試みました。

     1983年3月、大統領に4選されたスハルトは、イラン革命により高まったイスラム原理主義運動を未然に押さえ込むため、全政党と社会団体に建国5原則「パンチャシラ」を唯一の存立原理として強制しました。
     「パンチャシラ」とはサンスクリット語で「五つの徳の実践(仏教の戒)」を意味し、

    1. 唯一神への信仰
    2. 公平・文化的な人道主義
    3. 民族主義(インドネシアの統一)
    4. 協議と代議制に基づく民主主義
    5. 全国民に対する社会主義(社会福祉)
    の五つから成ります。
     また同じ1983年、スハルトは印欧混血でキリスト教徒のベニー・ムルダニを国軍司令官に任命します。
     彼はカトリックの軍人として、民間調査機関CSISを中心に、キリスト教徒=華人=国軍の共同路線を築いて勢力を伸ばします。
     これに対し保守イスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ」のアブドゥルラフマン・ワヒッド(通称グス・ドゥル)議長は1984年、政治活動からの撤退を宣言し、イスラム野党「開発統一党」(PPP)からも脱退します。
     こうしてスハルトはイスラム勢力の政治的封じ込めに成功しました。

     1983〜84年、ベニー・ムルダニ国軍司令官の指示で、かつてアリ・ムルトポが特別工作班で使ったごろつき数千人が消されました。国軍と対立した特別工作班を始末し、“裏の仕事”を国軍の一機関である「戦略情報庁」に一本化するためです。
     1984年9月12日のタンジュン・プリオク暴動事件は、北ジャカルタ沿岸地区でトゥリ・ストリスノ率いる陸軍ジャカルタ軍管区が反スハルト派のモスクを襲撃、暴動を誘発した事件で、多数の死者を出しました。
    中部ジャワの水田 (10KB)
    中部ジャワの水田
    青い早苗と黄色く実った稲穂が同居する光景は、スハルトの「緑の革命」で可能となったジャワの三毛作ならではです。
    [1999年12月、ジョクジャカルタにて]

     同じ1984年、インドネシアは米の自給を達成し、FAO(国連食糧農業機関)から優等生のお墨付きをもらいました。
     この快挙は、1970年代末から大規模に進められた稲の高収量品種(二〜三毛作が可能な生育期間の短いもの)導入を主とする「緑の革命」政策の成果でした。
     この年までにインドネシアは製造業部門でも東南アジア最大になり、スハルトの「開発(プンバングナン)」政策はかなりの成果を収めたのでした。


    インドネシアのバブル

     1986年、石油価格が暴落しました。
     政府は石油以外の収入を増やす必要を痛感し、再び外資の積極的導入へと政策を大きく転換します。
     1987年末に発表された大型の規制緩和策パッケージにより、「プリブミ」企業優遇策は放棄され、民間企業の自由な投資が重視されるようになりました。
     しかし、民間部門の比重を高めるということは、ノン・プリブミ=華人系企業の力に頼ることを意味します。
     事実、経済自由化の波に乗って形成された巨大企業グループは、以下のように、大統領次男を除けば、ほぼすべて華人系でした。
    • サリム・グループ[華人系]……中国福建省生まれのスドノ・サリム (中国名リム・シウ・リォン=林紹良) が築く。息子アンソニー・サリムに継承中。
       中核企業はセントラル・アジア銀行(BCA)、インドセメント、即席麺のインドフード、自動車のインドモービル、民放インドシアールなど。
       香港、中国、アメリカでも子会社による事業展開を行い、多国籍企業化している。

    • アストラ・グループ[華人系]……創設者ウィリアム・スルヤジャ(謝建隆)。他の華人財閥と違い、政権と癒着することなく、実力だけでアストラを築いたと言われる。
       中核企業は自動車のトヨタ・アストラ・モーターなど。

    • シナール・マス・グループ[華人系]……総帥エカ・チプト・ウィジャヤ (黄亦総)。農産物加工で台頭、製紙大手インダ・キアットやインドネシア国際銀行(BII)を中核とする。

    • リッポ・グループ(力宝集団)[華人系]……創設者はモフタル・リヤディ(李文正)。総帥はモフタルの長男ジェームズ・チャハヤ・リヤディ(李宗)。
       スハルト政権とはやや距離を置き、金融、不動産で多国籍企業化。

    • ビマンタラ・グループ[プリブミ系]……スハルト大統領の次男バンバン・トリハトモジョが創設。
       事業分野は貿易、不動産、自動車。

    • ヌサンバ・グループ[華人系]……総帥の「木材王」ムハンマド・“ボブ”・ハッサンはディポヌゴロ師団時代のスハルトの上司ガトット・スブロトの養子で、スハルトの親友。商工相も勤めた。
       スハルト・ファミリーと共にヌサンタラ・アンペラ・バクティ(ヌサンバ)社を設立、19の子会社を経営。

    • バクリー財閥[プリブミ系]……1951年にアフマッド・バクリーが創業。現総帥アブリザル・バクリーはインドネシア商工会議所会頭も勤める。
       中核企業はバクリー&ブラザーズ。持ち株会社バクリー・ファイナンスは金融12社を傘下に抱える。

    • バリト・グループ[華人系]……総帥のプラヨゴ・パンゲストゥ(膨雲鵬)はスハルト大統領の次男バンバンに近く、共同出資事業も多い。
       投資分野は木材や製紙。

     この頃、ベニー・ムルダニ国軍司令官を中心とするキリスト教徒=華人勢力は、政権を脅かす存在へと巨大化していました。
     そこで、1988年3月に大統領に5選されたスハルトは、ベニー・ムルダニ国軍司令官を更迭し、さらに同勢力を払拭するためイスラム勢力への接近を開始しました。
     その結果、1990年には「インドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI)」が設立され、これまで政治参加を禁じられてきたイスラム勢力に新たな道が開かれることとなったのです。

     1988年10月に行われた金融自由化は、バブル現象を招きました。銀行は5割増え、民間企業は不動産投機ブームに湧き、外国からお金を借りて高層ビルを建てまくりました。
     しかし、バブルに踊ったのは、政権と癒着した華人系政商や、特権をかさに着た大統領一族だけでした。
     また、民間投資はインフラ整備が進んだ首都ジャカルタに集中したため、都市と農村の貧富の差はかえって拡大し、急発展したジャカルタでもスラム街の発生、犯罪率増加などの都市問題が深刻化しました。
     さらに、バブル投資のために借り入れた対外債務が莫大な金額に達し、債務返済が国民経済を圧迫することともなったのです。

     東ティモールでは、スハルトの開発・移住政策にも関わらず独立運動は止まず、インドネシア国軍は1991年11月、東ティモールの首都ディリで住民に発砲、約180人 (国際アムネスティによる) の死者を出しました(ディリ事件)。
     翌1992年11月、フレティリン(東ティモール独立革命戦線)の指導者シャナナ・グスマン司令官は投獄されましたが、英雄視され、東ティモール問題の解決に奔走するベロ司教はノーベル平和賞を受賞する (1996年12月) など、東ティモール問題は国際社会でインドネシアのイメージを悪化させるだけでした。

     世代交代、高学歴化が進んだ国民は、スハルト政権のこうした種々の失策を鋭く批判するようになり、1987年の第5回総選挙や、1992年の第6回総選挙では、野党のインドネシア民主党が予想外の善戦を示しました。
     民主党は1993年には前大統領スカルノの娘、メガワティ・スカルノプトゥリを総裁に選出し、さらに勢いを付けます。

    プラボウォ
    プラボウォ
    著名な経済学者スミトロ・ジョヨハディクスモの息子で、陸軍内で異例の昇進を重ねました。弟ハシムは実業家。
     民主党の躍進を警戒するスハルトは1994年、メガワティ選出を防げなかった戦略情報庁をファイサル・タンジュン国軍司令官に解体させ、それ以後の秘密工作をプラボウォ・スビアント准将(スハルト次女の婿)に任せます。

     1995年、陸軍特殊部隊(コパスス)司令官に就任したプラボウォは1996年、民主党に介入し、総裁メガワティの解任に成功します。
     民主党はメガワティ支持派とそれ以外に分裂し、反主流派は国軍や内務省の後押しを受けて、1996年6月、スルヤディ前総裁を新総裁に選出しました。
     激怒したメガワティ支持者は民主党本部を乗っ取り、6月下旬以降連日演説集会を開催しました。
     7月27日、国軍司令官ファイサル・タンジュンは警察軍と陸軍部隊を派遣して、民主党本部からメガワティ派活動家を強制排除に踏み切りました。混乱は暴動となって広がりました(7月27日暴動事件)。


    経済危機とスハルト体制の終焉

     この頃から、スハルトは権力の継承と一族の特権温存に躍起となり始めたように思われます。
     その表れの一つは、後継者の最有力候補プラボウォの国軍内での異例の昇進です。
     しかし、スハルトのお抱え破壊工作員として軍の指揮系統を無視して動く大統領の娘婿の存在は、国軍エリートの不満を高めました。
     そのプラボウォが陸軍特殊部隊(コパスス)を使って引き起こした反政府活動家誘拐事件は、スハルト大統領がどれほど1997年の総選挙を心配したかを物語ります。1997年4月から1998年3月までの間に少なくとも24人が誘拐されました(うち13人は1999年1月現在も行方不明)
     もっとあからさまな例は、いわゆる「国民車」計画です。
     スハルトは「新自動車国産化法」を制定、三男フトモ・マンダラ・プトラ(通称トミー)だけに、韓国の起亜自動車と結んで国民車「ティモール」を独占生産・販売する許可(および免税特権)を与えました。
     アメリカ、ヨーロッパ、日本はこの国民車計画を不当として1997年、世界貿易機関(WTO)に提訴しました。

     老齢からの焦りからか、露骨さを増したスハルトのこれらの行動から浮かび上がってくるのは、インドネシア共和国の「スハルト王朝」化の思惑です。

     しかし、「王朝化」の企ては、突然襲ったアジア通貨危機の荒波の中で潰えてしまいます。

     1997年7月2日のタイ・バーツ急落をきっかけに始まった東南アジアの通貨危機が、インドネシアにも波及してきたのは、8月でした。
     1米ドル=2,400ルピアからずるずると値を下げ続けたルピア相場は、10月に政府がIMFに支援を要請したのを受け、いったんは持ち直します。
     ところが、11月1日に突然発表された経営不振の民間銀行16行の清算処分が、経営情報が公開されていない他の金融機関に対する信用不安をかき立てる結果となり、ルピア相場は再び落ち始めました。
     さらに、12月5日のスハルト健康不安報道で12日に5,120ルピアに急落して以降、相場は政治相場化し、翌1998年1月6日に発表された楽観的な次年度予算に対する失望から1万ルピアの大台を突破、1月23日には瞬間的に17,000ルピアを記録します。

     東南アジア諸国の中で比較的ファンダメンタルズ(経済的な基礎的諸条件)が良好と言われたインドネシアの通貨ルピアが、結局はどの他の通貨よりもひどい暴落を演じた理由はなぜでしょう?
     一つは、1996年以来の高金利政策により、ルピアが過大評価されていたこと。
     もう一つは90年代前半のバブルで、民間企業が大量の外貨を、為替のリスクヘッジを行わずに、しかも逃げ足の早い短期債務の形で外国から借りまくっていたことです。結果的に貸出残高の70%が不良債権となりました。

     ルピアの価値が6分の1に激減したということは、ドル建て借金や輸入物価が6倍に暴騰したことを意味します。
     悪いことに1997年は大旱魃のため米の大量輸入が必要となり、食料品価格を急騰させました。
     物価高騰は、米不足の状況下、社会不安を生み、各地で食糧を求める暴動が発生しました。

     経済的成功によってのみ、その正当性を主張できたスハルト政権。
     そのスハルト政権が経済政策でつまづいたら、どうなるでしょうか?

     1998年3月、スハルトは大統領に7選されましたが、この時点で77歳という高齢のスハルトが、5年の任期を全うできるとは誰も思っていませんでした。
     しかしスハルト統治の終焉は思ったより早くやってきました。

    暴動で破壊された銀行
    暴動で破壊された銀行
    1998年5月14日のジャカルタ大暴動の際、多くの建物が投石・放火の被害に遭いました。
     各地でデモや暴動を一挙に激化させたのは、5月4日の唐突な燃料価格引き上げでした。
     5月12日、首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が発砲、学生6人が死亡すると、激怒した民衆は翌日、「スハルト辞任」を要求して数カ所で暴動を起こし、5月14日にはジャカルタ市内十数カ所での大暴動に発展。華人街を中心に商店、銀行などが襲われ、首都機能は麻痺し、約1200人が死亡する惨事となりました。
     ジャカルタ暴動がエスカレートしたのは、スハルトの後継を狙うプラボウォ中将(1998年3月に陸軍戦略予備軍(コストラッド)司令官に就任)が、国軍内のライバル、ウィラント国軍司令官の失脚を狙い、陸軍特殊部隊(コパスス)を使って暴動を扇動したからだ、とも言われます。

    スハルト辞任
    スハルト大統領の辞任
    スハルト大統領が辞任し、大統領職が副大統領ハビビ(右端)に渡される一部始終はテレビで生中継されました。
     5月19日、スハルト大統領は辞任を拒否、一時は緊張が高まりますが、20日に予定された「国民覚醒の日」の100万人デモ計画は国軍に阻止され、心配された第2の大暴動は避けられました。
     20日、閣僚14人に辞表を突き付けられたスハルト大統領は、翌21日、遂にテレビの前で辞任を表明しました。

     32年に及んだスハルト長期政権は、こうして終わりを告げたのです。

    =COLUMN= スハルトの功罪


    1.   綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいインドネシア(第2版)』弘文堂1995年〜白石隆「政治と経済」による。

    2.   国際アムネスティによる。
     白石隆『スカルノとスハルト』(岩波書店1997年)152頁には、「1970年代後半、戦争とそれに伴う社会経済の混乱、飢饉、疫病によって〔中略〕およそ10〜15万の人々が死亡した」とあります。その後移民などで1999年現在人口は88万人に回復。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/15; 12/05

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