インドネシア歴史探訪
独立運動と日本の占領統治

 インドネシアは、1602年のオランダ東インド会社の設立から、1945年のインドネシア共和国の独立まで、俗に「3世紀半のオランダ植民地支配」を受けたと言われます。
 しかし実際にはオランダが全インドネシアの植民地化を完了するのは1910年代前半で、厳密な意味での「オランダの植民地支配」はせいぜい30年に過ぎません。
 長い時間をかけてようやく完成された「東インド」国家……

 しかし、「東インド」の完成と同時に独立運動が始まりました。
 そして、オランダからの独立の悲願は、皮肉にも新たな侵略者、日本の侵攻によって実現されるのです。

 「東インド」、いや、「インドネシア」が、いかにオランダの手を離れ、日本の手を経て、どのように「インドネシア人」に戻されるかを追ってみましょう。

  • 「倫理政策」と独立運動の目覚め
  • 「インドネシア」民族の誕生
  • 日本の軍政


    「倫理政策」と独立運動の目覚め

     1901年以降、オランダは急に、「東インド」現地人の福祉や自治能力向上に熱心になります。
     それはこの頃オランダで、
    「東インド植民地から借りた『名誉の負債』(搾り取った巨額の富のこと)を、今こそ福祉政策の形で原住民に返済することが、キリスト教国たる我々の倫理的義務だ。」
    という世論が盛り上がったためでした。
     だからこの時期の政策は「倫理政策」と呼ばれますが、植民地支配を続けながら「倫理的」でいられるわけはなく、そこにこの政策の矛盾と限界がありました。
     事実、倫理政策の結果もたらされた急速な近代化と教育の普及は、オランダの意図に反して、インドネシアの人々の民族意識を目覚めさせることになったのです。

    カルティニ
    カルティニ (1879〜1904)
    死後の1911年に出版された書簡集『闇を越えて光へ』は、人々に大きな感銘を与えました。誕生日4月21日は現在、「カルティニ記念日」です。
     その先駆的存在で、ジャワ人の民族的自覚と女性解放を訴えた「インドネシア国民の母」カルティニが産褥熱により、わずか25歳の若さで亡くなったのは1904年、オランダ軍がアチェを血の海で圧殺した年でした。

    =COLUMN=  バリ風滅び方

     その4年後の1908年、バタヴィアの医学校の学生らを中心に設立された「ブディ・ウトモ」は、ジャワ最初の民族主義団体で、その第1回集会が開かれた5月20日は現在、「国民覚醒の日」と呼ばれる祝日になっています。
     しかし運営を年長の現地人官僚に任せたため、東インド政庁の御用団体に成り果て、人々の支持を失います。

     もっと重要なのは、1912年、中部ジャワのスラカルタ市で結成された「イスラム同盟 (サレカット・イスラム) 」です。
     これはもともとバティック (「ジャワ更紗」とも呼ばれるろうけつ染め) 業者が華僑の進出に対抗するために作った団体ですが、弁舌の巧みなチョクロアミノト(1)が2年間で会員を44万人に増やし、インドネシアで最初の大衆的政治団体に成長しました。

     1914年にヨーロッパで第1次世界大戦が起こり、中立国オランダは苦境に立たされ、東インドとの船の連絡も途絶えがちになりました。
     そこでオランダは東インド植民地により大きな自治の権限を与えることにし、1918年5月に「フォルクスラート(国民参事会)」と呼ばれる擬似的議会を開き、11月には植民地の大幅な改革を約束する「11月宣言」が発布されました。

     しかし、大戦が終了し、翌1919年に反政府暴動が相次ぐと、政庁はイスラム同盟に対する弾圧を開始し、1921年に総督が自由主義者ファン・リンブルフ・スティルムから保守主義者フォックに代わると、これまでの改革は次第に骨抜きにされて行きます。

     イスラム同盟は内部にも問題を抱えていました。
     共産主義に染まったスマラン支部がジョクジャカルタ本部と対立、1920年5月には東南アジアで最初の共産党を結成したため、イスラム同盟は1923年に共産主義者の追放を決定します。
     ところが大衆は、政府との協調路線を取るイスラム同盟を見放し、共産党を支持したのです。

     共産党は猛烈に増殖しましたが、そのため末端の過激な活動を制御できなくなり、ついに無謀な暴力革命計画を実行に移すはめとなりました。
     1926年11月12日夜バタヴィアやバンテンで、また明けて1927年1月1日にはスマトラ島西部のパダンで、共産党の武装蜂起が起こりました。
     これらの反乱は数日から数週間のうちに鎮圧されました。
     しかしオランダの受けた衝撃は大きく、東インド政庁は即座に共産党を非合法化し、共産主義者たちをオランダ領ニューギニア(イリアン)西部ディグール川上流のタナ・メラ部落の収容所に送り込み、秘密警察を組織して活動家の動きを監視し始めました。

     ここに「倫理政策」は完璧に終わりを告げ、弾圧の時代が始まるのです。

     なお、「倫理政策」時代には、イスラム同盟とは別に、二つの重要なイスラム団体が結成されています。
     一つは「ムハマディア」で、20世紀初めに中近東で起こったイスラム改革運動の影響を受け、ハジ・アフマッド・ダーランが1912年にジョクジャカルタで結成した改革派の団体です。
     一方、中部〜東部ジャワ農村の「プサントレン」(イスラム寄宿舎学校)に基盤を持つキアイ(先生)たちは、これに対抗して1926年に東ジャワのスラバヤで伝統的敬虔派イスラム組織「ナフダトゥール・ウラマ(NU)(「ウラマ(イスラム知識人)の再生」の意)」を結成しました(2)
     都市部に支持を持つムハマディアと、農村を基盤とするNUは、共にインドネシアを代表するイスラム団体として、今日まで強い勢力を保っています。


    「インドネシア」民族の誕生

     第1次大戦後の好況は、東インド植民地の経済にも安定した成長をもたらしました。
     オランダ資本の営む製糖業は1920年代にピークを迎え、砂糖生産量は年間300万トンに達しました。
     同時に、アメリカでの自動車産業の拡大の影響で、スマトラ島などでの天然ゴムや石油も需要を伸ばし始めていました。

     このような時期(1920年代前半)、「東インド」と呼ばれてきた地域の人々は、本来学術用語として生み出された「インドネシア」という言葉を、自分たちのアイデンティティを表現する用語として採用し始めます。ジャワ、スンダ、ミナンカバウ、バタック……といった個別の民族の枠を越えた、東インド国家に住む原住民族の統一体としての「インドネシア人」という概念が、歴史上初めて誕生したのです。
     1928年10月26〜28日、バタヴィアで開かれた第2回インドネシア青年会議では、会議の最終日である10月28日に、次のような「青年の誓い (Sumpah Pemuda)」が採択されました。

    • 唯一の祖国はインドネシアである。……「インドネシア」の領域にはオランダ領東インドを想定。
    • 唯一の民族はインドネシア人である。
    • 唯一の言語はインドネシア語である。……「インドネシア語」には各民族間の共通語であるムラユ語(マレー語)を想定。
     これにより、民族解放運動は、各民族別ではなく「インドネシア」民族全体で行うという基本方向が決まり、将来の「インドネシア」という国家を準備したのです。

     この頃、スカルノ(1901〜1970)という男がインドネシアにフィーバーを巻き起こしていました。
     彼こそは演説の天才で、彼の行く所どこでも人が群がりました。弾圧によって分裂した民族主義運動が必要としていたのは、このようなスターの存在だったのです。
     1927年7月4日に彼が結成した「インドネシア国民党」は急速に党勢を拡大し、その余りの勢いに恐れを成した東インド政庁は、1929年12月にスカルノたちを一斉逮捕しました。

     この年の10月にニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界大恐慌は、1930年以降インドネシアの製糖業をほぼ壊滅させます。
     経済危機に対応するため、オランダの政策もますます強圧的になりました。
     スカルノは、対話を重視する総督デ・フラーフの恩赦で1931年12月に出獄しましたが、その彼が見たのは二つに分裂したインドネシア国民党でした。その一つはオランダ留学組のハッタシャフリルに牛耳られていました。
     しかもデ・フラーフの後任の総督は、歴代で最悪と言われたデ・ヨンゲでした。スーパー反動主義者のこのおっさんは、

    「我々はインドネシアを300年間、棍棒で治めてきた。今後300年もその方針に変わりはない」

    と宣言し、1933年にはスカルノ、1934年にはハッタとシャフリルを逮捕して牢屋にぶち込んだのです。

     指導者を一網打尽にされたインドネシア独立運動は、1930年代半ば以降沈滞期を迎えます。
     しかし、いったん誕生した「インドネシア」の理念は、『プジャンガ・バルー(新しい詩人)』誌(1933年創刊)を始めとするインドネシア語文学活動や、ジョクジャカルタのパクアラム王家出身のスワルディ・スルヤニングラット(別名キ・ハジャル・デワントロ)が運営する民族主義的なタマン・シスワ学校(1922年設立)の普及を通じて、ますます民衆の間に根付いていきました。

     1930年代後半、ヨーロッパでナチス・ドイツやファシスタ・イタリアのようなファシスト勢力が台頭し、軍事的緊張が高まるに連れ、スマトラ島のゴムと石油が戦略物資としてにわかに重要性を帯びてきました。
     1941年12月8日にハワイ島パールハーバーを奇襲攻撃して太平洋戦争を始めた日本軍が、インドネシアにやってきたのも、これらの軍需品を確保することが主な目的だったのです。


    日本の軍政

     日本軍のインドネシア攻略は1942年1月のカリマンタン島そばのタラカン島奇襲上陸と、スラウェシ島メナドへの落下傘部隊降下で始まり、3月1日にジャワ島に上陸した部隊は9日には早くもオランダ軍を全面降伏させました。

     これはインドネシアの人々にとっては驚異でした。インドネシアを300年にわたって支配したオランダが、たった1週間で降参することなど、信じがたいことでした。
     ここで人々が思い出したのは「ジョヨボヨの予言」です。クディリ王国(東ジャワ)のジョヨボヨ王(13世紀初め)が残したと言われる予言は、
    「北から黄色い人間がやってきて、白い人間を追い払い、しばらくの間支配し、その後幸福な時代が始まる」
    というものでした。
     人々は救世主の到来は間近と信じ、日本軍をマタラーム王国以来の紅白旗(ブンデラ・メラ・プティ=現インドネシア国旗)と国歌「インドネシア・ラヤ」の大合唱で迎えたのです。

     日本の占領統治は3年5ヶ月に過ぎませんが、この3年5ヶ月ほどインドネシアの歴史を大きく変えた期間はないでしょう。それほど日本の統治がインドネシアの社会に与えた影響は大きなものでした。

     ジャワを占領した日本陸軍第16軍はさっそくスカルノやハッタらを解放し、将来の独立の約束と引き替えに日本軍政への協力を取り付けました。
     同時にインドネシア民衆の歓心を買うため、さまざまな懐柔策が採られました。
    「オランダ領東インド」は待望の「インドネシア」に、「バタヴィア」は「ジャカルタ」に改称されました。
     また、オランダ人を全員収容所へ送り、代わりにインドネシア人を役所や企業でかなり高い地位につけたので、彼らの社会進出が飛躍的に進みました。
     さらに、公用語をオランダ語からインドネシア語に改めたことは、インドネシア語を共通語として全国に普及させる上で計り知れないプラスとなりました。

     しかし国歌と国旗掲揚は間もなく禁止になり、「皇紀」「昭和」という元号が導入され、学校では日本語のほか「修身」なども教えられました。天皇崇拝は強化され、皇居に向かって最敬礼させる「宮城遙拝」も強要されましたが、これらは一神教のイスラム教徒には耐え難いものでした。
     その一方、「トナリグミ(隣組)」「フジンカイ(婦人会)」「セイネンダン(青年団)」「ケイボウダン(警防団)」など様々な団体が作られ、動員と統制の訓練が行われたことは、オランダの分割統治によって「ルーズな」構造になっていたインドネシア社会に組織原理を持ち込み、刺激を与えました。
     さらに重要なのは、オランダが決して行わなかった軍事教練も開始したことです。最初は日本軍内の補助兵力「ヘイホ(兵補)」が養成され、のちには郷土防衛義勇軍のような大規模な兵力も組織されます。

     しかしながら、オランダが築いた中央集権的国家機構は陸軍と海軍の分割占領によってずたずたにされ、経済もオランダの輸出入市場と切り離されたため崩壊、インフレ率は3年半の軍政で4000%に達しました。
     にも関わらず軍政当局は米の生産量の3〜5割を強制的に徴用したので、人々は生活苦にあえぎました。
     加えて、随時「ロームシャ(労務者)」が徴発され、日本軍のために強制労働させられました。その数は約30万に及びましたが、終戦時に生き残っていたのはわずか7万人だったと言われます。

     スカルノやハッタは日本がなかなか具体的な独立の青写真を示してくれないので不満を募らせてゆきました。
     1943年後半、戦局が厳しさを増すと、日本はようやく重い腰を上げます。
     まずインドネシア国民軍設立の要望に応え、「郷土防衛義勇軍(ペタ)」を結成します。ここには大団(500人)以上の機構はなく、参謀も養成されず、実際には日本軍の補助兵力に過ぎませんでしたが、翌44年11月に3万5000人に達したこの第一線の戦闘部隊は、のちにインドネシア国軍の中核を形成するのです。
     次いで日本は、9月にスカルノを議長とする中央参議院を設立します。
     11月に設立された「マシュミ(インドネシア・イスラム最高評議会)」は、イスラム教徒を戦争遂行に協力させるために作られた翼賛団体ですが、保守系の「ナフダトゥール・ウラマ (NU)」や改革派の「ムハマディヤ」も含む初めての全国規模の組織となり、のちの政党組織の基盤となります。
     翌1944年3月に結成された「ジャワ・ホコカイ(ジャワ奉公会)」も全インドネシアを包括する最初の住民組織でした。

     戦況が逼迫してくると、日本はさらにインドネシア国民に譲歩を重ねます。
     1944年9月には日本の小磯内閣が将来「東印度」独立を認めると声明、同じ頃、紅白国旗(ブンデラ・メラ・プティ)と国歌「インドネシア・ラヤ」の使用が許可され、独立への期待が高まりました。
     そして1945年3月、いよいよ、イ日共同の「インドネシア独立準備調査会」が発足しました。
     6月1日の調査会の席上、インドネシア側委員スカルノは、インドネシア独立の基本理念として次の5つを提唱しました。

    1. 民族主義
    2. 国際主義
    3. 民主主義
    4. 社会福祉(社会的正義)
    5. 神への信仰
     「パンチャ=シラ(五つの基本理念)」と名付けられたこれらの原則は、現在(1999年)に至るまでインドネシア共和国の国是となっています。

     準備調査を終えたスカルノやハッタたちは、日本南方軍総司令部から8月24日独立という約束を内々にもらいました。
     8月14日には「独立準備委員会」の委員21名が任命され、あとは18日の第1回会議を待つばかりでした。

     ところが、8月15日、日本は無条件降伏したのです。

     これでは、高いところへ登った途端、梯子をはずされたようなものです。
     8月24日独立という約束はどうなってしまうのでしょう?
     スカルノ、ハッタ、どうする?!


    1.   チョクロアミノトの弟子の一人がスカルノでした。

    2.   NUの初代議長ハシム・アシュアリ師は、日本軍政末期に初代の宗務部長(宗教大臣)に任命されるほどの実力者でした。インドネシア共和国第4代大統領アブドゥルラフマン・ワヒッド(通称グス・ドゥル)は彼の孫で、1984年から1999年10月の大統領就任まで、NUの議長を努めました。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/01

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