インドネシア歴史探訪
進む植民地化

 オランダ東インド会社(VOC)は18世紀を通じてインドネシアの植民地化を着々と進めて行きますが、その道のりは平坦なものではありませんでした。
 確たる戦略もなく、やみくもに領土と権益を拡大していったVOCは財政危機に陥り、しまいにはつぶれてしまい、インドネシアは一時イギリスの支配下に置かれるのです。

  • マタラーム王国の分割
  • オランダ東インド会社の解散
  • ラッフルズの時代


    マタラーム王国の分割

    バタヴィア市役所
    バタヴィア市役所
    1710年に建てられ、法廷や監獄にも使われました。1998年現在はジャカルタ歴史博物館になっています。
     中部ジャワのマタラーム王国は、17世紀後半にVOCに牙を抜かれて以来、すっかり弱体化しましたが、それでもなお大国の面影を残していました。
     しかし、18世紀前半に3回も繰り返された王位争いは、オランダ東インド会社(VOC)の介入を誘い、王国に終焉をもたらすのです。

     「第1次ジャワ継承戦争」(1704〜1708)は、アマンクラット2世の死後、その子の即位に反対した前王の弟が起こしました。
     VOCは王弟を支持し、1705年に首都カルタスーラに入城させ、パクブウォノ1世(位1705−1719)として即位させました。

     そのパクブウォノ1世が1719年に死に、長男がアマンクラット4世として即位すると、またもや王位争いが起きます(第2次ジャワ継承戦争 1719〜1723)。VOCは、反対する叔父や弟を打ち破り、島流しにしました。

    エルベルフェルトの首
    エルベルフェルトの首
    処刑されたエルベルフェルトの頭蓋骨は見せしめのために槍で貫かれ、自宅跡にさらされました。但し現在のものはセメント製の模造 (下の碑銘は当時のもの)。
     ちょうどその頃、VOCの本拠地バタヴィア(現ジャカルタ)でも反乱未遂事件があり、大騒ぎとなりました。
     1721年末、何者かがジャワのヨーロッパ人を皆殺しにしてバタヴィアを奪おうとしているという噂が流布し、人々は恐れおののきました。当局が下手人として検挙したのはピーテル・エルベルフェルトというドイツ=タイの混血の老人で、彼が本当に反乱を計画していたかはすこぶる疑問ですが、VOCを憎む日頃の言動が仇となり、拷問の末処刑されました。

     バタヴィアの騒乱はこれにとどまりませんでした。1740年にはVOCの顔面を蒼白にした華僑虐殺事件が起きます。
     インドネシアには18世紀前半から多数の華僑(かきょう)(1)が流れ込み、特にバタヴィア市内では余りにも華僑が増えすぎたため、VOCは一部を本国送還、一部を他の植民地へ移送しようとしました。
     ところが、華僑の間で「船に乗るとそのまま海に投げ込まれる」という噂が広がり、華僑の多くは市外に逃亡し、略奪を行いました。
     そこにたまたま火事が起こり、これを中国人総決起の合図だと勘違いしたオランダ人と現地人(プリブミ)は、恐怖に駆られて中国人を殺しまくったのです。
     一週間続いた「バタヴィアの狂乱」で犠牲になった華僑は1000人とも1万とも言われ、はっきりしません。確かなのは、生き残ったのがたった343人だったということです。
     騒乱の再発を恐れた当局は、華僑をバタヴィア郊外に集団移住させました。それが現在のグロドック地区の始まりです。

     「バタヴィアの狂乱」は地方にも飛び火し、中部ジャワでも興奮した華僑が町を包囲したりヨーロッパ人を殺したりしました。
     これに乗じたのがマタラーム王国のパクブウォノ2世(位1727〜1749)で、華僑を支援して王都カルタスーラ守備のオランダ軍を襲わせます。が、バタヴィアから援軍が到着すると王は降伏し、許しを請います。
     収まりのつかないのは部下たちで、王を追い出し、王宮に火を付けました。
     VOCの応援で反乱は何とか鎮定され、パクブウォノ2世は都を10km東のソロ村に遷し、スラカルタ (スラカルタ=アディニングラット) と名付けました(1743)。
     こうした一連の騒動の結果、パクブウォノ2世は1743年にジャワ北岸をすべてVOCに譲り渡さざるを得なくなりました。北方の良港をことごとく失ったマタラーム王国は貿易や外界との接触が不可能になり、事実上のVOCの属国に成り下がったのです。

    ボゴール宮殿
    ボゴール宮殿
    ファン・イムホフが1745年に現ボゴール植物園の隣に建てた山荘は、今では大統領宮殿別邸になっています。晩年のスカルノが幽閉されたのはここでした。
     しかし、そのVOCも深刻な経営危機に陥っていました。
     第27代総督ファン・イムホフは税制・貨幣制度の改革、農業・開墾の奨励など種々の新政策を打ち出し、彼自身バタヴィア南方60kmにあるボゴール地域の開墾を進めました。

     そのファン・イムホフも、パクブウォノ2世の死後、パクブウォノ3世(位1749−1788)の即位をめぐってまたもやマタラーム王国で起こった争い(第3次ジャワ継承戦争 1749〜1755)を未然に防ぐことは出来ませんでした。
     今回は反乱側の前王の弟マンクー・ブーミの勢力が強く、VOCは決定的勝利を収めることは出来ませんでした。
     戦費の増大に音を上げた会社は、とうとう、マタラーム王国を二つに分けて争いに決着を付けることにしました。

    • パクブウォノ3世  →  ススフーナン(王の尊称)を保持し、それまで通りスラカルタに都する(スラカルタ王国)。
    • マンクー・ブーミ  →  スルタンの称号を与えられ、「ハメンク・ブウォノ1世」としてジョクジャカルタを都に王国高地地方の半分を治める(ジョクジャカルタ王国)。
     こうして、VOCが調停した1755年の和平条約によって、伝統あるマタラーム王国は、「スラカルタ王国」と「ジョクジャカルタ王国」に分割されてしまいました。
     マンクー・ブーミと共に戦った王族マス・サイドも1757年に降伏し、スラカルタ王国に従属するマンクーヌガラ王家を開きました。
     のちの1813年にはジョクジャカルタ王国にもパクアラムという分家が生まれますから、結局マタラーム王国は四つの土候領に切り刻まれ、全く無力化されてしまったわけです。


    オランダ東インド会社の解散

     同じ頃、VOCは西ジャワのバンテン王国の内紛に介入、1753年にこの国を保護国としました。
     残るジャワ東端のバランバンガン地方も1777年には会社の直轄領となり、VOCによるジャワ島全土の征服はこの頃ほぼ完了したのです。

     にも関わらず----と言うか、だからこそ、VOCの財政はますます逼迫しました。
     その上、ヨーロッパでは史上まれにみる大動乱が始まっていました。1789年パリのバスティーユ監獄襲撃に始まるフランス大革命です。革命軍はオランダに侵入、1795年に革命政府を樹立しました。
     新政府は封建的な旧秩序を次々と破壊しました。特権商人の集まりだったVOCなどは真っ先にやり玉に挙げられ、1798年に解散させられてしまったのです。
     会社のインドネシア経営・統治権は、その莫大な負債と共に新政府の手に委ねられました(オランダ直轄領東インドの始まり)。

     1804年、ナポレオンがフランス皇帝になると、オランダ新政府もナポレオンの命令に従い、その植民地政策もナポレオンの思うがままになりました。
     ナポレオンの指示で1808年にジャワの総督となったダーンデルスは熱烈なナポレオン信奉者で、ブパティ(地方領主)の権力を削減し、プリヤイ(武士階級=宮廷貴族)を植民地支配機構の末端の役人に取り立てるなどの改革を断行しましたが、小ナポレオンを気取った横柄で強引な態度が恨みを買い、1811年に首になりました。


    ラッフルズの時代

     その頃、ナポレオンと戦っていたイギリスは、フランス支配下にある海外植民地の奪取を進めており、ジャワ侵攻作戦もインド総督ミントーによって準備されました。
     イギリス軍は1811年8月4日、100隻の軍艦でバタヴィア沖に出現し、同市を無血占領しました。オランダ軍はボゴール方面へ退却、中部ジャワへ向かいますが、イギリス軍はスマランからも上陸、オランダはついに9月17日に降伏します。

     ミントーがジャワの副総督として任命したのはトマス・スタンフォード・ラッフルズという31歳の優秀な書記官でした。彼は自由主義と啓蒙思想という当時の最新のヨーロッパの思想に基づき、ジャワ統治に様々な改革を持ち込みました。
     前近代的な土侯たちによる封建的圧政を退けるため、まずバンテン王国やバタヴィア東方のチレボン王国の統治権を奪い、1813年にはジョクジャカルタ王国をさらに分割してパクアラム王家を創設するなどして、地方領主たちの権力を弱めました。
     また、奴隷制度を廃止したり、裁判での拷問を禁止したりする人道主義的改革も進めました。
     税制も簡素化され、農民は今までのような労役や強制供出に応ずる必要はなくなりました。

    オリヴィア廟
    オリヴィア・ラッフルズの霊廟
    ラッフルズの愛妻オリヴィアはジャワで亡くなりました。彼女の白い小さな霊廟は、現在のボゴール植物園にひっそりと建っています。
     ラッフルズの業績はそれだけではありません。
     統治の最初の2年間をかけて行ったジャワ社会の綿密な調査は大著『ジャワ史』2巻に結実し、他にもボロブドゥール遺跡の発掘・復元に務めたり(1814)、ボゴールに植物園を築いたり(2)、バタヴィア学術協会を後援したり、新種の動植物を発見したりしました。世界最大の花を咲かせるラフレシアの学名はラッフルズの名前から付けられたものです。

     ところが、ナポレオンを打ち破ったイギリス本国は、1814年、ヨーロッパの秩序を元に戻すことを決めました。オランダについても、旧王国を復活させ、植民地も返還する、という方針が決定されました。ラッフルズは猛烈に抗議しましたが、後の祭りでした。
     彼は1816年3月にイギリスに帰国し、インドネシアは8月にオランダに引き渡されました。

     なおラッフルズは2年後の1818年、今度はスマトラ南西岸ベンクールーに赴任し、翌年マレー半島南端のシンガプーラ島を買い取りました。そして関税ゼロの自由港という人々を仰天させるアイデアで経営を始めました。その結果シンガプーラ、現在のシンガポールは目覚ましい発展を示すのです。
     ジャワで改革を実施し、シンガポール建国の父ともなったラッフルズは、1824年にイギリスに帰国し、その2年後の満45歳の誕生日に脳卒中で世を去りました。


    1.   「華僑(かきょう)」とは中国人(漢民族)移民のこと。但し最近は、現地で生まれ、現地国籍を持つ中国系移民の子孫は「華人(かじん)」と呼んで区別します。
     彼らが海外に移住し始めたのは早くても明(みん)の南海進出以降の話で、特に多くの華僑が海外に渡るのは、明末〜清初の動乱期(17〜18世紀前半)の頃です。彼らの出身地は限られていて、貧農の多い広東・福建両省などから流出しました。
     インドネシアにも18世紀前半から大量の華僑が流れ込みました。薄給でも黙々と働く彼らはバタヴィア政府からも歓迎されました。イギリスの有名な探検家ジェームズ・クックはバタヴィアを訪れた際、「怠けている中国人と、働いているオランダ人かインドネシア人を見つけるのは難しい」と書き残しています。
     しかし、同族意識が強く、中国独自の風習を頑として変えず、閉鎖的な身内だけの社会を作りながらめざましい経済進出を果たして行く華僑は、現地人から恐れられ、憎まれることとなりました。

    2.   但し、現在のボゴール植物園は、公式にはオランダの東インド総督D. B. D. ラインウァルトによって1827年に開園されました。主に強制栽培に適した作物を研究する目的で、その後も収集が続けられ、現在見る偉容が作り上げられたのです。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/10

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