インドネシア歴史探訪
オランダ領東インドの完成

 オランダ東インド会社(VOC)の領土拡大は、長期的ヴィジョンに基づくものではなく、場当たり的対応を重ねた結果でした。住民を直接把握しようという気はさらさらなく、旧来の支配層をそのまま残し、古くからの社会や宗教にも手を付けませんでした。
 だから、一般民衆の生活にも変化はなく、彼らにとってVOCは、マジャパヒト王国マタラーム王国など同じ、雲の上で栄枯盛衰を繰り返した数多くの諸王国の一つに過ぎませんでした。
 実際、あるジャワの年代記は、バタヴィア(現ジャカルタ)を建設した第4代東インド総督ヤン・クーン(位1619〜1623)を、パジャジャラン王国(西ジャワ)の王女とスペイン商人との間に生まれた王子ジャンクンとして描き、彼がオランダ人の「バタヴィア王国」を開いたことにしています。

 しかし、VOCの経営が行き詰まり、オランダが直接統治に乗り出すと、事情は一変します。
 オランダの直接支配はどのようなものであり、インドネシアの社会にどんな影響を与えたのか、見てみましょう。

  • 2大反乱と強制栽培制度
  • 自由主義政策の時代
  • オランダ領東インドの完成


    2大反乱と強制栽培制度

     イギリスからジャワ統治を引き継いだオランダは、最初の頃こそラッフルズの改革路線を引き継ごうとし、総督の代わりに3人の全権委員会に2年間統治させました。
     しかし、財政難には勝てず、結局、従来通りの安上がりな間接統治に逆戻りしてしまいました。ラッフルズの改革は、奴隷制廃止など人道的な面を除けばほとんど元の木阿弥となってしまったのです。

     このような反動的なオランダ統治に対し、「パドリ戦争」(1821−37)と「ジャワ戦争」(1825−30)という2大反乱が勃発しました。

     スマトラ西南部のミナンカバウ族の間では、19世紀初頭からイスラム教改革運動が起こり、これがパドリ派(=改革派)とアダット(慣習)派(=世俗派)との間の内乱へ発展していました。追いつめられたアダット派は1821年、オランダに助けを求めます。
     これが泥沼の「パドリ戦争」の始まりでした。オランダはパドリ派のゲリラ戦法に悩まされ続けます。

     一方ジャワでは1825年、スルタンになり損ねたジョクジャカルタ王国の王子(パンゲラン)ディポヌゴロが武装蜂起しました。これが「ジャワ戦争」です。
     土着王侯らはラッフルズが認めたヨーロッパ人との土地貸借契約をオランダに無理やり解除されたことを恨んでいたため、ジャワ支配層のほとんどが人望厚いディポヌゴロ王子に付きました。
     そのため反乱はジャワ対オランダの全面戦争の様相を呈し、オランダ軍はしばらく手の施しようがありませんでした。
     しかし間もなくオランダ軍司令官ド・コックは、各地に次々と要塞を築き、ディポヌゴロのゲリラ戦法を圧迫することで、巻き返しに成功しました。
     ディポヌゴロは1830年、休戦交渉の最中にオランダ軍に捕らえられ、スラウェシ島北部のメナドへ島流しとなりました。

     こうした戦乱(特にド・コックの要塞多設作戦)は莫大な支出をバタヴィア総督府(東インド政庁)に強いました。
     しかし、本国オランダの財政危機はさらに深刻でした。1830年、パリの7月革命の余波を受け、オランダの国土の南半分が「ベルギー」としてごっそり独立したので、オランダの税収が半減することになったのです。

     このような植民地及び本国の窮乏財政を救うため、1830年に総督に就任したファン・デン・ボスが考案したのが、歳出を切り詰め、収入を出来るだけ増やす「純益政策」でした。
     その目玉は、悪名高い「強制栽培制度(1)」です。
     これは、水田の5分の1をつぶして商品作物を栽培させ、言い値で買い叩くものです。農民には安い栽培賃金が払われましたが、その8割は地租などの税として政庁に再び巻き上げられました。
     強制栽培制度はたちまち莫大な利益をオランダ東インド政庁にもたらしました。政庁はこの制度を導入した翌年の1831年から早くも黒字に転じます。

     1833年1月、南西スマトラの「パドリ戦争」が再燃します。オランダ軍が愚かにもイスラム教の聖なるムスジッド(モスク)を宿泊所に選び、ムスリム(イスラム教徒)が悪魔の使者として嫌う犬をわざわざ連れて入るなどしたため、オランダはパドリ派だけでなく地域の住民全体を敵に回すこととなりました。
     最後の2年間の激戦では特にボンジョール村(スマトラ南西部パダン市より100km山あい)の指導者イマム・ボンジョールが英雄的な抵抗を示してオランダ軍を終始苦しめました。
     しかし彼も1837年にオランダ軍に捕まってスラウェシ島のメナドに島流し(2)となり、抵抗は終息します。

     パドリ戦争の結果西スマトラを直轄領として以降、オランダの領土拡大のスペースは早まりました。抵抗がある場合は征服戦争も辞しませんでした。
     1846〜49年「バリ戦争」でバリ島を植民地化。
     1859〜63年「バンジャルマシン戦争」でカリマンタン島南東部を征服。
     1850〜54年、西カリマンタンにあった中国人のコンシ(公司)(3)連合を征服。……
     スマトラ島ではパドリ戦争終了後、マレー半島を経営するイギリスに遠慮して勢力拡大を中断してきたのですが、1858年にシアック王国(スマトラ西岸中部)を保護国化して以降、再び積極策に転じます。
     特にスマトラ中西部デリ地方はタバコなどのプランテーション地帯としてオランダのドル箱となります。

     この間オランダは、コーヒー、砂糖、藍(あい)を中心とする「強制栽培制度」のおかげで「東インド」植民地から巨額の富を搾り取りました。
     この制度の暗黒面を強調し過ぎるのは正しくありません。商品作物の大規模導入が開発を促進し、米作の効率化をもたらした面もあり、ジャワ島の人口は同制度が行われた期間(1830〜1870)に700万から1600万へと倍増しました。
     しかし、それが一方ではジャワ島を一大国営プランテーションへと作り替え、食糧の需給バランスを崩しましたのも確かです。1843〜48年に中部ジャワ一帯を襲った飢饉はそれが原因と言われます。
     また、長期間の出張労働を伴う藍の栽培は、スンダ人の間に「結婚も、出産も、死もみな藍畑の上」という文句を流行らせました。

     この強制栽培制度に対し、オランダ本国からもさすがに非人道的だという声が上がり始めました。
     特に、1855年からルバックの副理事官を勤めたエドゥアルト・ダウエス・デッケルが、「ムルタトゥーリ(ラテン語で「我苦しめり」)」の筆名で1860年に書いたドキュメンタリー小説『マックス・ハーフェラール』(4)は、世論に大きな影響を与えました。

     こうした運動や、成長してきたオランダ民間資本の要求で、強制栽培制度は1870年にほぼ廃止されるのです。


    自由主義政策の時代

    バタヴィア裁判所
    バタヴィア裁判所
    1870年に建てられたこの新古典派建築は、1999年現在ジャカルタ美術館(兼・陶器博物館)になっています。
     19世紀半ば以降、東インド政庁の政策は自由主義的になり、貨幣制度・金融制度を整備し、電信電話、鉄道、道路、港湾などのインフラ投資を増やして、投資を促しました。
     ヨーロッパの民間企業はこぞってジャワに進出し、特に製糖業はジャワの基幹産業に発達しました。

     同時に統治機構の近代化も進められ、現地人官吏の登用も世襲から能力重視に変わりました。1864年に設けられた2種の官吏資格試験制度のうち、下級試験は欧亜混血及び現地人のためのものです。

     東インド国家の形成と共に、ジャワ人の社会や生活や意識も変わっていきました。
     古くからの王国が衰弱し、代わって東インド国家の統治が前面に出てくると、ブパティ(地方領主)もプリヤイ(宮廷貴族)も、植民地の官吏として生計を立てていくほかなくなりました。
     そうすると、息子娘を現地人官吏登用試験に合格させるため、ジャワ貴族にとっても教育が重要になってくるわけです。
     そこで、ヨーロッパ人の家庭教師を雇って子供にオランダ語を学ばせたジャワ中部のジェパラの領主(ブパティ)チョンドロネゴロのような人も現れ、そういうオランダ式の高等教育を受けたごく一部のエリートの中から、同朋の置かれた境遇を改善したいという民族主義者の先駆けも現れてくるのです。
     チョンドロネゴロの孫娘ラデン・アジェン・カルティニ(1879〜1904)はその一人で、ジャワで最初の女学校を開き、ジャワ人の民族の自覚と連帯を訴えました。

     チョンドロネゴロやカルティニは例外中の例外で、大部分のジャワ農民はまともな初等教育も受けられない状態でした。
     しかしここにも新しい動きが起こりました。イスラム塾「プサントレン」の誕生です。
     これは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式に言えば、1869年のスエズ運河開通とつながりがあります。
     まず、運河開通がヨーロッパの汽船に紅海航路の開拓を促し、19世紀末には東南アジアからのメッカ巡礼ツァーが急増しました。
     中でもオランダ領東インドからの巡礼者は多く、この時期、メッカに出来た外国人居留者コミュニティーの最大のものはインドネシア人のそれであったと言われます。
     さて、土俗信仰と混合したクニの物とは違う、本場のイスラム信仰を学んだハジ(メッカ巡礼者)たちの一部は、帰国後、田舎で「キアイ(先生)」となり、寄宿舎(アスラマ)制のイスラム学校「プサントレン(5)を開きました。
     ジャワ島だけで数万あると言われる「プサントレン」は、読み書きを教える寺子屋でもあり、共通語であるムラユ(マレー)語(=のちのインドネシア語)の普及に果たした役割も大きなものでした。
     「プサントレン」の卒業生は「サントリ」と呼ばれ、キアイと強い師弟関係を保ちながら、ジャワの農村に敬虔派ムスリムの伝統を築いてゆきました。

     一方、オランダ東インド政庁も、現地人官吏養成の必要から、教育制度も整え始めます。
     すでに1851年、師範学校(各地)と医学校(6)が建てられていましたが、原住民小学校も少しずつ出来、1878年にはオランダ語など中等教育を教える「首長学校」(1900年以降「原住民官吏養成学校」に改称)も設けられました。

     しかし、この時期の最大の問題は、急増する人口がもたらすジャワ島住民の「福祉減退」(総体的な貧困化)であり、民衆の不満は宗教改革・社会改革運動としてしばしば噴出しました。
     その最大のものが、凄惨な「アチェ戦争」(1873〜1904)です。

     スマトラ島北端のアチェ王国は、19世紀前半以降コショウ輸出で再び勢力を伸ばし、奴隷売買や海賊行為で対岸のマレー半島にいるイギリス人を刺激するようになりました。マレー半島の安全を確保したいイギリスはオランダに「アチェを早く始末してよ」というサインを送りました。
     そこでオランダは1873年、軽い気持ちでアチェ王国に宣戦します。しかしアチェ人の抵抗の激しさは、オランダの予想を越えたものでした。
     戦費も戦死者も莫大な数に上り、1878年以降東インド政庁の財政は赤字に転落しました。1880年代には首都クタラジャ(現バンダアチェ)を守るのみとなり、オランダ側には厭戦気分が漂いました。

     しかし、間もなくアチェ社会内部で対立が生じました。ウラマ(イスラム知識階級)が民衆の支持を得て、スルタン(国王)やウレーエバラン(世俗権力者)を批判するようになり、社会改革運動としての性格を持ち始めたのです。
     孤立したスルタンやウレーエバランは、オランダと結んでウラマ層を叩きつぶすことに決めました。
     こうして、1890年代後半から、オランダは攻勢に転じます。
     オランダが内陸高地地方の平定で採った戦略、それはいくつもの村の住民を見せしめに皆殺しにすることでした。例えば1904年6月7日にアラス地方コタ・レ村では男313名、女189名、子供59名が殺されました。それに対しオランダ側死者はわずか2名でした。
     主な戦闘は1904年にほぼ終結しますが、ウラマ層の抵抗は1912年頃まで続きます。


    オランダ領東インドの完成

    理事官と彼のお荷物
    スラカルタ国王パクブウォノ10世とオランダの理事官ド・フォーヘル
    1897年に撮影されたこの写真のもとの題は「理事官と彼のお荷物」

     酸鼻を極めたアチェ戦争が終わり、スマトラ島全土がオランダ領に編入された時、「オランダ領東インド」は「サバン(スマトラ北端の島)からメラウケイリアンジャヤ南部の町)まで」と呼ばれる現在のインドネシア共和国とほぼ同じ領域を占めていました。
     20世紀初頭の時点を持って、オランダの領土拡大はようやく終わり、オランダ領東インドは完成されたと言って良いでしょう。

     オランダ領東インドの完成は、世界史上極めて大きな意味を持っています。
     「東インド」国家は、インドネシア地域に成立した、前例のない広大な統一国家です。
     これまで、シュリーヴィジャヤ王国も、シャイレーンドラ朝も、マジャパヒト王国も出来なかった、この地域全域の統一を、オランダは成し遂げてしまったのです。
     しかもオランダは、300以上の民族、250以上の言語を抱えるこの地域を、実に効率のいい官僚制によって中央集権的「東インド国家」にまとめ上げたのです。
     この業績を過小評価してはならないでしょう。

     それでも、それは「オランダの」東インド国家であって、「インドネシア人の」国家ではありませんでした。
     確かに「東インド国家」は、自然の海岸線や民族・言語分布を無視して、人工的に作られた国家です。しかし、いったん誕生した「インドネシア」は、生まれたその瞬間から政治的・経済的統一体として自らを主張し始めるのです。



    1.   正式には「政庁栽培」または「政庁管掌栽培」と言います。

    2.   なお、メナドにはジョクジャカルタの王子(パンゲラン)ディポヌゴロが流刑になっていましたが、彼は1834年にマカッサル(現ウジュン・パンダン)に移され、二人の反乱の英雄は出会うことはありませんでした。
     現在のジャカルタ市の高級住宅街メンテンには「ディポヌゴロ通り」と名付けられた美しい通りが走っています。その延長は「イマム・ボンジョール通り」と呼ばれ、ジャカルタの中心部ホテル・インドネシア前の噴水に通じています。
     現実の世界で出会うことのなかった二人の名は、現在のジャカルタで一続きの道となっているのです。

    3.   コンシ(公司)とは中国人の小共和国のことで、西カリマンタンでは1770年代以降、中国人たちがムラユ人スルタンから金採掘の許可を得て、コンシの連合体を作っていました。従ってこの地では中国人の大部分は採掘労働者で貧しく、その後に移住してきたマドゥラ島民の方が商売上手で経済を握りました。
     こうして西カリマンタンには、原住ダヤック人、マレー人、華人、マドゥラ人が混在して住み、その後の歴史で住民同士 (特にダヤックとマドゥラ) の衝突が繰り返されることになります。

    4.   インドネシアを讃えた言葉として有名な「赤道を取り巻くエメラルドの首飾り」が初めて使われたのも、この本。

    5.   「プサントレン」はジャワ語で、インドネシア語では「ポンドック」と言われますが、一般にはそのまま「プサントレン」と呼ばれます。
     なお、寄宿舎「アスラマ」は、ヒンドゥー文化時代の「アシュラマ」にさかのぼり、非イスラム起源です。

    6.   現在のジャカルタのガンビール地区に建てられ、後にインドネシア大学医学部になりました。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/04/04

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