インドネシア歴史探訪
オランダ人の到来

 インドネシアにヨーロッパ人が初めて到達したのは16世紀のことでした。
 最初はポルトガル人が、次にオランダ人、イギリス人がやってきました。彼らの目的は貿易ですが、アジア人が言うことを聞かない時は、乗ってきた軍艦から容赦なく大砲をぶっばなしました。

 しかし、この時代のヨーロッパ勢力を過大評価してはなりません。彼らは、スマトラ西北端のアチェ王国や、中部・東部ジャワのマタラーム王国、西ジャワのバンテン王国などとは較べものにならない、ちっぽけな存在でした。
 ヨーロッパ勢の身内争いの結果、1540年頃オランダが勝ち残りますが、この時でもインドネシアの住民にとって、オランダは、マレー半島のジョホール王国や、南スラウェシのゴワ王国と同様の、海上交易国家の新参者の一つに過ぎませんでした。

 そのようなオランダが、いつ、どのように強大化し始めるのか、見ていきましょう。

  • ヨーロッパ勢力の進出
  • オランダ優位の確立
  • オランダ東インド会社の領土拡張


    ヨーロッパ勢力の進出

     東南アジアの植民地化は、1511年のポルトガルによるマラッカ占領に始まる−−とちょっと前の歴史の本には書いてありました。
     しかし、それは少し大げさです。

     確かにポルトガル人が武力でマラッカを奪い取ったことは、それまでのアジア人には見られない乱暴なやり方で、周辺諸国の眉をひそめさせたかも知れません。
     しかし、ただ、それだけの話であり、アジア商人たちは香料貿易を独占しようとするポルトガル式の取引を嫌い、マラッカを敬遠するようになりました。その結果マレー人のジョホール王国(マレー半島南端・リアウ諸島)や新興のアチェ王国(スマトラ西北端)、西ジャワのバンテン王国などが繁栄し、それに反比例してマラッカは経営不振に陥ってゆきます。
     しかも、スペイン、オランダ、イギリスといった強力な後続ランナーに追い上げられ、ポルトガルは東方貿易レースから早くも脱落していきます。
    ☆欧米の東南アジア進出☆
    =時代= =優勢な国=
    16世紀前半    ポルトガル
    16世紀後半    ス ペ イ ン
    17世紀〜    オランダ&イギリス

     次に東南アジアに進出したヨーロッパ勢力はスペインでした。
     スペインはマジェランに新航路発見のための航海を命じ、マジェランは1521年フィリピンを発見します。ここがフィリピンと呼ばれるのも、当時のスペイン王子フェリペ(フィリップ)にちなんで名付けられたからなのです。
     マジェラン自身はフィリピン人との戦いに戦死しますが、彼の部下は無事スペインに帰還し、史上初の世界周航を成し遂げます。
     それ以降スペインの興味はもっぱらフィリピンに集中し(1565年以降植民地の建設を開始)、インドネシアとはあまり関係なくなります。

     インドネシアにとって、どこよりも縁の深い国はオランダです。

     オランダは、スペイン王フェリペ2世(位1556〜1598)(「フィリピン」命名のもととなった例の王子と同一人物)の圧政に耐えかねて16世紀後半に独立したばかりの若い国でした。
     そのオランダが、自活の道を求めて「東インド(当時東南アジア方面はこう呼ばれていました)に派遣した艦隊が最初に東南アジアに到達したのは1596年のことです。ハウトマン指揮する船隊はジャワ島に辿り着き、バンテン、ジャカトラ(現ジャカルタ)などいくつかの港を訪れました。

     航海成功のニュースに沸き立ったオランダ本国では、東方航海のための会社がいくつも作られ、何十隻もの船が一斉に東南アジアに殺到しました。そのためかえって過当競争に陥り、仕入値は高騰し、ヨーロッパでの売値は下落して、全く利益のでない状態になりました。
     こりゃいかん、というので1602年、東方貿易の会社はすべて「連合東インド会社 (Vereenighde Oost Indische Compagnie)」一社に統合されることになりました。これがいわゆる「オランダ東インド会社 (略称VOC)」で、世界最初の株式会社と言われます。
     しかし、会社を作っただけでは商売になりません。オランダは貿易拠点を求めて、ジャワに進出をもくろみます。


    オランダ優位の確立

     オランダ東インド会社(VOC)は1609年、東インド総督という役職を置き、翌年ジャカトラ(現在のジャカルタ)に土地を借りて商館を設けました。
     第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(任1619〜1623)はVOCの地歩を固めた人物で、就任早々イギリスとバンテン王国の連合軍を打ち破ってジャカトラ全域を獲得し、この町を「バタヴィア」と名付けました(1619年)。これはオランダ民族の古名「バタウィ」(古代ローマ時代にオランダ方面にいたゲルマン系部族名)にちなむ命名です。
     1623年にはアンボン島でオランダ人がイギリス商館員や日本人職員ら20名を拷問にかけて処刑した、いわゆる「アンボイナ事件」が起きています。イギリス側は猛烈に抗議したものの、結局これを機会に東南アジアからは撤退し、インド経営に総力を注ぐことになります。
     こうしてインドネシアにおけるオランダの優位が次第に確立してゆくのです。

     しかし、忘れてならないのは、優位とは言ってもあくまでヨーロッパ勢力同士での話であって、ジャワ島の政治勢力としてはまだ弱小だったということです。
     この時ジャワで最も強大だったのは、中部・東部ジャワ全域を支配下に置いていたマタラーム王国です。時のスルタン、アグンは西ジャワの大国バンテン征服を決意し、その前にVOCが領有する良港バタヴィアを奪っておこうと考えました。
     マタラーム軍は1628年と1629年の2回、2年続けてバタヴィアを包囲攻撃しました。
     しかし、オランダ軍の艦砲射撃とコレラの流行の前に敗走を余儀なくされたのでした。
     但しオランダ側の犠牲も大きく、再び総督として赴任していたクーンは防戦中の1629年、コレラにかかって死にました。

     この戦い後、マタラーム王国は西ジャワへの侵略をあきらめ、バンテン王国の方も何かとVOCを頼りにするようになります。
     一方、1639年には日本の江戸幕府が鎖国体制を完成させ、オランダVOCはその唯一の貿易相手としての地位を獲得することが出来ました。また1641年にはVOCはポルトガルからマラッカを奪い取るのに成功します。
     こうして東南アジア(及び対日)貿易ではオランダの一人勝ちの状況になっていったのです。

     同じ頃スマトラ島北部では、アチェ王国が繁栄していました。スラトラ西岸(インドラプーラ、ティクー、パダンなど)やマレー半島北西部までを支配に入れ、スルタン、イスカンダル・ムダの治世(位1607〜1636)には最盛期を築きました。


    オランダ東インド会社の領土拡張

     「オランダ東インド会社(VOC)」というと、ヨーロッパ植民地政策の手先として、強大な権力と圧倒的な武力を与えられ、インドネシアを次々と植民地化して威圧的な支配を行った……というイメージが強いのですが、実際にはバタヴィア(現ジャカルタ)に根拠を持つ貿易商社に過ぎず、本来、領土獲得の意思も能力もありませんでした。
     しかもVOCの最盛期は、ヨーロッパの競争相手を追い落として香料貿易を独占した1630〜40年代の間だけで、それを過ぎると経営は傾き始めます。ずさんな経理、会社職員の違法な密貿易、それに、ヨーロッパで香辛料が慢性的な供給過剰に陥ったことなどが原因です。
     焦った会社は、堅実な経営に戻る代わりに、無謀な拡大政策に踏み出しました。
     そして悪いことに、1650〜80年頃にはインドネシアの諸王国でたまたま内紛が相次ぎ、VOCに介入する隙を見せてしまったのです。

     VOCは、まず、英主イスカンダル・ムダの死後急速な衰えを見せたアチェ王国に干渉、スマトラ西岸諸国をアチェから離反させ、1663年に会社の保護下に置きました。
     「保護」という言葉は、植民地時代にはよく使われる用語で、主権を会社の保護に委ねる、ということだから、まあ、事実上は会社の「支配」下に入ったのと同じです。

     次にVOCが目を向けたのは、スラウェシ島西南部のマカッサル族が築いたゴワ王国です。
     マカッサル族は帆船を巧みに操ってジャワ、スマトラ、カリマンタンなどと通商を行う海洋民族で、オランダ人の侮(あなど)りがたい競争相手でした。
     そこでオランダの遠征軍司令官スペールマンは1666年に近隣のブギス族指導者アル・パラッカと協力し、翌年首都マカッサル(今のウジュン・パンダン)を包囲、陥落させたのです。もはやVOCに対抗できる交易国家はいなくなりました。
     マカッサル族、ブギス族の島外流出が加速したのはこれ以降です。

     同じ頃、中・東部ジャワの大国マタラーム王国でも内乱が発生しました。
     アグンの死後スルタン位を継いだアマンクラット1世(位1645〜1677)は、VOCとは平和共存の道を選びましたが、国内では6000人を処刑する暴君で、とうとう1674年、マドゥラ島の王族トゥルーノジョヨが率いる大反乱が発生しました。
     国王の要請でVOCは援軍を送りますが、反乱軍は強力で、たちまち東部ジャワ一帯を征服、1677年には王都プレレッドを占領します。アマンクラット1世はバタヴィアに落ち延びる最中に病死しました。
     王位を継いだ息子アマンクラット2世(位1677−1703)は、オランダ軍司令官スペールマンに、ジャワ西部プリアンガン地方をVOCに譲ります(VOC最初の領土獲得)。
     間もなくオランダ軍は勢力を挽回してトゥルーノジョヨを追い詰め、アマンクラット2世は1681年、荒れ果てた旧都プレレッドを見限り、その北方のカルタスーラ (今のソロ) に新しい首都を建設します。
     翌1682年トゥルーノジョヨが捕まり、王都で処刑されて、さしもの大反乱もようやく終結しますが、マタラーム王国はすっかり衰弱し、オランダに頼り切るようになってしまいました。

    スピルウィク要塞
    スピルウィク要塞
    17世紀後半、オランダがバンテン市西北に建てた強固な要塞で、バンテン王国がすでに主権を失っていたことを物語りいます。
     同じ頃、バンテン王国でも王位争いがあり、1683年にVOCの助けで父王を捕らえて勝利を収めた王子は、会社に大幅な貿易特権を与えました。

    仮想歴史ツァー  バンテン王国---栄華の日々

     こうして、本来の貿易商社だったVOCは、領土・権益を拡張する一種の国家へと変貌を遂げてゆきます。
     しかし、その一方で、戦争や領土の獲得・支配はVOCの経営をますます圧迫し、VOCは莫大な借金を抱える不良企業へと転落しました。
     そこで会社は収支を改善するために、だぶつき気味の香辛料に代わる商品作物の栽培を始めます。その実験農場となったのが、VOC最初の領土プリアンガン地方(ジャカルタ南方に広がる主にスンダ族の地)です。
     オランダ人はここに1694年頃から綿糸、木蝋、胡椒、藍などを次々に持ち込み、農民に栽培させて、それを会社が言い値で買い叩きました。この「義務供出制度」は19世紀には悪名高い「強制栽培制度」へと生まれ変わり、ジャワ全土に広められるのです。

     この頃からVOCの圧政を不満とする暴動が起こり始めます。
     中でも大規模だったのはウントゥン・スロパティ(スラパティ)の反乱(1686−1706)で、西ジャワで蜂起し、中部ジャワに移動してマタラーム王国の支援を受け、さらにジャワ東部へ逃れてオランダやマタラームを攻撃し、第1次ジャワ継承戦争(1704−1708)にも介入するほどの勢いを示したのです。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/01

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