インドネシア歴史探訪
交易帝国シュリーヴィジャヤ

 7世紀後半、スマトラ島を中心に忽然と大帝国が現れます。その名は「シュリーヴィジャヤ王国」。インドネシア史上、マジャパヒト王国と並んで有名な古代王国です。
 それは一体、どんな国だったのでしょう? 誰が、どのように築き、なぜ急速な繁栄を手にすることが出来たのでしょうか?……

  • 突然出現した大帝国
  • シュリーヴィジャヤ“帝国”の正体
  • マレー人とシュリーヴィジャヤ


    突然出現した大帝国

     6世紀終わりから7世紀初めにかけて、東アジアの情勢に大きな変化が起こります。
    長いこと分裂状態にあった中国が、589年に隋によって統一され、619年には唐が成立したのです。

     平和な大統一国家の出現は、再び東西貿易を活発にしました。特に、マラッカ海峡経由の貿易が大変盛んになりました。
     この変化はすぐに東南アジアの政情に影響を及ぼしました。南スマトラ〜西ジャワに「赤土(せきど)」国が勃興し、607〜610年に隋に使節を送るのはその一例です。
     また、644年には「摩羅游 (まらゆう) 」国が唐に入貢しますが、これがスマトラ島東部の「マラユ王国」(ジャンビ)であることは、まず疑いのないところでしょう。
     ところが、中国のお坊さん、義浄(ぎじょう)がインドに向かう途中、672年にスマトラ島のパレンバンを訪れた時には、「赤土」とも「マラユ」とも全く違う国が栄えていました。

     義浄はその国の名を「室利仏誓」と書いていますが、これをフランス人学者ジョルジュ・セデスは、サンスクリット碑文にある「シュリーヴィジャヤ」であると同定しました (シュリー=接頭語、ヴィジャヤ=「勝利」)。
     この国は大乗仏教を信奉しており、「城壁で囲まれた町には1000人以上の仏僧がおり、学問と善行に専念している。彼らはインドにあるのと全く同じ科目を学習し、その規則や儀式は少しも違いがない」(義浄)。
     当時の仏僧と全人口の平均割合を用いてシュリーヴィジャヤの首都パレンバンの人口を推定すると、2万人だというから、7世紀としては桁外れの大都会です。

     義浄は北東インドのナーランダー僧院で11年間学んだ後、帰路再びシュリーヴィジャヤを訪れました。688年のことです。この時には、パレンバンの北方200キロにあるマラユ国にもすでにシュリーヴィジャヤの支配が及んでいました。
     マラユだけではありません。682年からは周辺各地に遠征を開始、686年にはジャワ島にも遠征軍を送ります(1)。その結果、シュリーヴィジャヤは13の都市を勢力下に置く大帝国(2)となり、マレー半島の要衝ケダーも695年までに領土の一部となりました。

     このように、7世紀後半にパレンバン方面から勃興したシュリーヴィジャヤは、瞬く間にスマトラからマレー半島にまたがる大帝国を築いてしまったわけです。


    シュリーヴィジャヤ“帝国”の正体

    シュリーヴィジャヤ王国

     7世紀後半〜〜14世紀半ばにかけてスマトラ島のパレンバンを中心に栄えた通商国家。

    〔時代〕 7〜11世紀が全盛
    〔地域〕 スマトラのパレンバン、ジャンビ、さらにマラッカ海峡を越えてマレー半島西岸のケダーまでも含む
    〔首都〕 パレンバン (副都ケダー)
    〔特色〕 マレー商人の海洋帝国。経済的に大繁栄
    〔経済〕 海上貿易に依存
    〔文化〕 インド文化の影響を受け、大乗仏教を奉じたが、遺跡等はわずか。

     ところで一体、このシュリーヴィジャヤとはどういう国だったのでしょう?

     一言でいえば、「マレー人が築いた海上通商国家」なのです。

     「え? シュリーヴィジャヤってスマトラでしょう? マレー人はマレーシアに住んでいるんじゃないの?」とおっしゃる人もいるでしょう。
     しかし、マレー人はもともとスマトラの南東岸に住んでいました。というより、マレー人はスマトラ東南部のシュリーヴィジャヤ王国で形成された民族だと言ってもよいでしょう。実際、シュリーヴィジャヤ王国の遺跡からは、古マレー語の碑文がいくつも見つかっています。マレー人がマレーシアに広がるのは15世紀以降に過ぎません。

     ではなぜ、スマトラ島の一角の民族が、このような大帝国を築くことが可能だったのでしょう?
     それはひとえに、彼らの原住地パレンバンが貿易の一大拠点として繁栄したためです。
     7世紀以降、東に唐、西にイスラム帝国ウマイヤ朝アッバース朝が成立して再び国際貿易が活発になると、西方のアラブ商人やペルシア商人がインド洋を越え、遥か東南アジアまで直接やって来るようになりました。おかげで既存のマレー半島経由の貿易ルートはすたれてしまい、代わってマラッカ海峡ルートが脚光を浴びるようになります。
     それにつれてスマトラ島東南岸のパレンバンやジャンビといった港の重要性が急に高まりました。それまでどちらかと言えばさびれた漁村だった(?)パレンバンには、豊富な物資と富が集まるようになり、マレー人も海洋商人として活躍を始める……
     シュリーヴィジャヤ興隆の秘密は、こんなところにあったのではないでしょうか。

     束縛を嫌う商人たちの築いた国家だとすれば、豪華な宮殿や大神殿が残されていないのも当然です。
     また“帝国”とは言ってもその支配の形態は独特で、広大な領土と異民族を支配すると言うよりは、重要な貿易基地にマレー人を次々と送り出し、王国は彼らの交易活動に便宜を図ってやる代わり、税金を徴収したのではないでしょうか(3)

     シュリーヴィジャヤの今ひとつの特徴は、大乗仏教を保護したことです。
     東南アジアの古代国家のほとんどは古代インド文明(特に南インドのパッラヴァ朝)の強い影響をこうむっています。シュリーヴィジャヤも例外ではなく、公用語はサンスクリットだし、インド文化の文物をいろいろ取り入れています。しかし、宗教に関しては、他の国のようにヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)ではなく、仏教、それも大乗仏教なのです。
     もちろん仏教とてインド伝来の宗教には違いありませんが、シヴァ信仰の多い中で大乗仏教に宗旨替えするには、それなりの理由があるはずです。
     その答は、やはり当時の国際情勢に求められます。

     6世紀中頃、北インドではグプタ朝が滅び、大乗仏教の中心ナーランダー僧院から大勢の仏僧が東南アジア目指して亡命したと思われます。またカンボジア方面でも7世紀、大乗仏教国「扶南(ふなん)」が、シヴァ教徒のクメール人の国家「真臘(しんろう)」に圧迫され、やがて滅ぼされてしまいます。この時にも多数の大乗仏教の信者たちがマレー半島を南下、インドネシア方面に逃亡したと考えられるのです。
     この結果、スマトラ南部やジャワ西部には7世紀に大乗仏教国がいくつか生まれますが、中でもシュリーヴィジャヤは東南アジアに於ける大乗仏教の一大避難地となったのでした。

     ただし、そこは計算高い商人たちの国のこと、大乗仏教を保護したのも実際には貿易のためだったようで、国内では相変わらず「水の精」を崇める土着の呪術的信仰が盛んでした。 


    マレー人とシュリーヴィジャヤ

     8世紀に入ってもシュリーヴィジャヤの発展はとどまることを知りません。パレンバンとケダーというスマトラ島2大貿易拠点を支配して、マラッカ海峡を手中に収めたマレー人の祖先たちにとって、怖いものはありませんでした。

     マレー語はスマトラ、マレー半島、ジャワ島の貿易共通語となり、古マレー語碑文はジャワ島各地でも見つかります。20世紀に入りインドネシアの国語にも採用されたマレー語の国際性は、この頃から形成されていたのです。
     想像をたくましくすれば、マレー人自身もシュリーヴィジャヤの盛んな交易活動の中から生み出されたのではないでしょうか。つまり、もともとは「マレー人」という民族は存在しておらず、貿易を通じた各地の民族との交流を通じて誕生したのかも知れないのです(4)
     いずれにせよシュリーヴィジャヤは、8世紀後半にはマレー半島北部のリゴール(=現在のタイ南部、ナコンシータマラート)まで支配する勢いを見せました(5)

     ところが、シュリーヴィジャヤの発展は突然、思いもかけぬ新勢力の勃興で中断されます。

     新たに登場した国の名前はシャイレーンドラ朝。中部ジャワに巨大な仏教遺跡ボロブドゥールを建造し、インドネシアの歴史に新たな1ページを加えることになるのです。


    1.   古マレー語の碑文(683,686)による。

    2.   『新唐書』による。

    3.   生田滋氏も「シュリヴィジャヤ国が各地の異民族を支配したという場合よりも、各地にマレー族が移住し、シュリヴィジャヤ国は彼らを支配していたという場合のほうが多かった」と書いています。

    4.   同じことが最近、中国人の起源についても言われています。つまり、元来「中国人」というものはいなかったが、四方の諸民族が貿易のために生み出した記号=「漢字」と「中国語」が一つの文化体系となり、それを母体とする新しい民族が生まれ、周辺民族を同化していったのが中国人である----というものです。

    5.   リゴール碑文(775)による。

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    ©1999 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/01/01

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