シャイレーンドラ朝の凋落
恐るべき侵略者の登場
ジャワ島では紀元前後から稲作農耕が盛んでしたが、特にジャワ中部は広大な平野が開けているため、広い田んぼを切り開き、多くの人口を養うことが可能でした。従って、ジャワ島で最初に巨大な国家が出現するのも、中央ジャワの平原でした。
中部ジャワで最初に勢力を持ったのはサンジャヤ朝でした。
732年のチャンガル碑文(1)には、当時中央ジャワ南部マタラーム地方を統治していたサンジャヤ王は「穀物と黄金に富む」ジャワの国にリンガを建立した、と書いてあります。リンガはヒンドゥー教のシヴァ神のシンボルですから、8世紀前半の中部ジャワには、ヒンドゥー教を奉ずる農業国サンジャヤ朝が君臨していたことが分かります。
ところが、サンジャヤ朝の発展は8世紀中頃、唐突にストップさせられます。なぜなら、同じジャワ中部に突然勃興した「シャイレーンドラ」という王朝に圧倒されてしまうからです。
さて、このシャイレーンドラ朝がどこからやってきたのか、実ははっきりしません(2)。
7世紀前半から中部ジャワ北海岸に存在した「訶陵」という国が、その前身だという説があり、そうだとすれば「8世紀中頃、訶陵王ガジャヤナが都を東方に移し、闍婆城と名付けた」という中国史書の記録は、シャイレーンドラ朝の中部ジャワ征服を暗示しているのかも知れません。
=COLUMN= シャイレーンドラ朝はどこからやってきた?
いずれにせよ、8世紀後半に歴史の表舞台に躍り出たシャイレーンドラ朝は、猛烈な勢いで膨張を始めます。
767年、「崑崙闍婆の賊」がベトナム北部に侵入して放火・掠奪を働き(3)、774年には「死のごとく恐ろしく、悪性で船に乗ってきた人びと」がチャムパー(南ベトナム)を襲撃、シヴァ神殿を掠奪します。787年にも再びジャワの軍隊がチャムパを襲っています。
ここで言う「ジャワ」「闍婆」がシャイレーンドラ軍を意味するのは言うまでもありません。
ことにシャイレーンドラ朝が激しく攻め込んだのは、カンボジアでした。
アラブ商人スライマーンは次のような話を伝えています。
8世紀後半のある日、若いクメール人の王は、大臣たちに「ザーバジュ(=ジャワ)の大王の首を盆に載せて眺めてみたいものじゃ」と豪語しました。
これを聞いて怒ったジャワの大王は、1000隻の軍船を率いてクメールの都を急襲し、クメール王の首を刎ね、それをミイラにして後継者のもとに送りつけて、「二度と不心得を起こさぬように」と命じたのです。
それ以来クメールの王たちは毎朝ザーバジュを方角を拝むのを習慣とした----と言います。
このお話のどこまでが史実か分かりませんが、8世紀後半のある時期、カンボジアのクメール王国がシャイレーンドラ朝の属国になっていたのは事実だと見られます。
例えば、カンボジアはそれまでヒンドゥー教一色だったのに、8世紀末になると初めて菩薩像----つまり大乗仏教の仏像が作られています。そして、大乗仏教はシャイレーンドラの国教だったのです!
シャイレーンドラの侵略の魔の手が、スマトラ島〜マレー半島で栄えていたシュリーヴィジャヤ王国に伸びたのも間違いないでしょう。シュリーヴィジャヤの唐への朝貢が742年以降ふっつり途絶えるのがそれを物語っています。
シュリーヴィジャヤを制圧して手に入れたマラッカ海峡は、シャイレーンドラ朝の外征の財源となり、カンボジアへの軍事侵攻の基地ともなったのです。
シャイレーンドラ朝の対外発展は、東南アジアどころか、インド洋を越えてアフリカ東海岸まで到達した可能性があります。
と言うのは、アフリカ東岸に面するマダガスカル島の住民はインドネシア系(正確にはアウストロネシア語族インドネシア語派)に属するからです。
マダガスカル島民がいつ、どのようにしてインドネシア方面からマダガスカルへ移住してきたかははっきりしませんが、西暦1000年前後と言われていますから、シャイレーンドラ朝の急拡大で東南アジアが混乱に陥った8世紀後半、インドネシア語派の一部の西方進出(あるいは逃亡?)が行われた確率は高いと思われます。
=COLUMN= マダガスカル島民の謎
今接すると礼儀正しく穏やかなジャワ人たちにも、このように猛々しい、血気盛んな時代があったのです。
ボロブドゥールの建立
周辺諸国を荒らすだけ荒らし回ったシャイレーンドラ朝は、今度はその有り余ったエネルギーと財力を国内に費やし、仏教の大寺院の建設を始めます。それがかの有名なボロブドゥール寺院です。
世界最大の大乗仏教遺跡ボロブドゥールは、ジャワ中部クドゥ盆地西南のやや小高い丘にそびえ立つ、シャイレーンドラ朝の記念碑とも言うべき巨大なモニュメントです。
9段のピラミッド型石造構築物で、なかなか凝った演出を見せてくれます。
まず、下6段の方形基壇の回廊壁面に彫られたレリーフ(浮彫)を見て回るうちに自然とお釈迦様の一生を学びぶことが出来ます。
そして、続く上3段の同心円壇では、小型ストゥーパに入った多数の仏像が立体マンダラとなって、涅槃の境地へ至る解脱を疑似体験できる仕組みになっています。
さしずめ大乗仏教の疑似体験型テーマパークといったところでしょうか。
但し、ボロブドゥールは一貫された設計思想のもとに建築された構造物ではありません。
ボロブドゥールの建設は780年から833年まで50年以上かかっていますが、その間工事は5期にわたって断続して行われ、その都度デザインが変更されています。
設計が変更された理由は、石の重みに地盤が耐えられず、崩壊の危険が出てきたためです。
ムンドゥット寺院
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また、ボロブドゥールと、近隣のムンドゥット寺院、パウォン寺院は、一直線上に並んで建っているので、これらは複合建築群(コンプレックス)を成していたと思われますが、失われた遺跡も多く、今となってはボロブドゥール・コンプレックスが本来どのようなプランのもとに建てられようとしていたのかを知るのはほとんど不可能です。
近隣を荒廃させたシャイレーンドラ王家が、こんな巨大な建物を建立するほど熱心な仏教徒だったとは呆れてしまいますが、ボロブドゥールを建設したのは信仰心からというよりも、国内外のライヴァルを威圧し、感嘆させるためだったような気もします。
いずれにせよ、注目すべきことは、シャイレーンドラ朝のもとでジャワ人の発展が始まったことでしょう。
マレー人はスマトラ中心の通商帝国シュリーヴィジャヤで民族形成を遂げますが、ジャワ人の場合は中部ジャワの穀物生産力を背景として、次第に力を蓄えてくるのです。その揺籃期のジャワ人の、若い、ふつふつと煮えたぎる血潮を、最初に噴出させたのが、シャイレーンドラ朝だったのです。
シャイレーンドラ朝の凋落
しかし、おごれる者は久しからず。
シャイレーンドラ朝の黄昏(たそがれ)は思ったより早くやってきます。
海外での覇権は、9世紀の初めには早々と失われます。
カンボジアでは、ジャワから帰還したクメール王ジャヤヴァルマン2世が802年、「ジャワの支配を断ち切る」と高らかに独立を宣言、アンコール朝を開いて後の最盛期の基礎を築きます。
国内でも内紛があったらしく、急速に勢力を失っていきます。
832年にサマラトゥンガ王が死ぬと、その子は王位を継ぐには幼すぎたので、その姉プラモヴァルダーニが摂政に就きましたが、実権はその夫ラクリヤーン・ピカタンに移りました。ところが彼は、例のサンジャヤ王家出身だったのです(4)。こうして中部ジャワの覇権は次第にサンジャヤ朝の手に戻されてゆきます。
そして、832年以降、シャイレーンドラ朝は碑文からも中国史料からもすっかり姿を消してしまいます。
これに呼応するように、833年を最後にボロブドゥールの改修工事も最終的にストップするのです。
その後のシャイレーンドラ王家の消息を伝える碑文が一つだけ残されています。
それによると、後継者争いに破れたシャイレーンドラ家の最後の王子バーラプトラは、856年、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国へ逃れてその王女と結婚し、シュリーヴィジャヤ王となりました。
こうしてジャワのシャイレーンドラ朝は、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国と一つに合体した----と考える学者も多いのですが、実際にはシャイレーンドラ朝がシュリーヴィジャヤ王国に影響を与えることはほとんどなく、やがて歴史の忘却の彼方に消え去ってゆきました。
最盛期は70年も続かなかったのではないでしょうか。一陣の突風のように現れては去って行ったシャイレーンドラ朝……
その後には、中部ジャワにはサンジャヤ朝が復興し、ボロブドゥールに負けない石造大寺院群プランバナンを建設します(但しこれはヒンドゥー教シヴァ信仰のチャンディ(寺院))。
そして、スマトラ方面でもシュリーヴィジャヤ王国が復活、以前にも増す繁栄を取り戻すのです。
註
1. ジャワ中部メラピ山南方Wukir山麓、クドゥ盆地のボロブドゥル東南チャンガル(Canggal)にあるシヴァ神殿に732年頃建てられた碑。
2. シャイレーンドラ朝の起源に興味のある方は、拙稿「シャイレーンドラ朝はどこからやってきた?」をご覧あれ。
3. 『大越史記全書』による。
4. ロンドン大学のド・カスパリス教授による王家系図の研究によります。