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稲作農耕を学び、紀元後数世紀の間にジャワ人、スンダ人、マレー人……などに分かれたインドネシアの人々。彼らが最初に築いた国は、どのようなものだったのでしょうか?
インド文明の流入国家と言えるものが芽生え始めたのは、稲作農耕が根付いた後の、紀元後1〜2世紀ぐらいからでしょうか。それ以前の根菜焼畑農業ではまだ生産力が低く、集落以上の大規模な国家組織を維持していくのは不可能だったと思われます。ここに、2〜3世紀頃、インド商人が押し寄せてきました。彼らのもたらした文化はインドネシアのみならず、東南アジアに大変大きな影響を与えるのです。 インド商人が大挙して東南アジア方面に進出してきたのは、インド経済が爆発的に発展したためです。
当時ユーラシア大陸の東には後漢、西にはローマ帝国が栄え、東西貿易が盛んに行われ、インドはその中継基地として繁栄しました。
このようにインド(特に南インド)と文化的接触を続けた東南アジアでは、国家の形成も、インド文明の強烈な影響の下に行われます。東南アジアの人々は、国を建てるにあたり、その仕組みも、文字・言語も、果ては宗教までインドから輸入するのです。インド文明の刺激がなかったら、国家の誕生はもっと遅かったかも知れず、国家のあり方自体が全く異なっていたかも知れません。
古代インドネシアに生まれた“インド風”国家インドネシアで最も古い国家の記録は、4世紀頃ジャワ島(あるいはスマトラ〜ジャワ一帯?)にあった「ヤーヴァドヴィーパ」です。「ヤーヴァ(A)」はサンスクリット語で「大麦」を意味するとされ、すでにジャワ方面で穀物農耕が盛んだったことを意味しています。 中国僧の法顕(ほっけん)は、セイロン島から中国に帰る途中、414年にこの国に漂着しました。彼は著書『仏国記』の中でこの国を「耶婆提(やばてい)」と音訳し、「バラモン教が盛んで、仏教は言うに足りない」と記しています。 もう、5世紀初めのジャワ方面にはヒンドゥー教を信奉する社会が成立していたわけです。
七つの碑文の内容を総合すると、当時ムーラヴァルマンという王がいて、その祖父の名はクンドゥンガ、王朝を開いたのは父のアシュヴァヴァルマンだ……てなことが書いてあります。 おじいさんの名前「クンドゥンガ」はインドネシア語系(2)ですが、お父さんの時代には「〜ヴァルマン」というサンスクリット名になったわけですから、東カリマンタンのような片田舎でさえ (!) 4世紀後半にインド式の国家が成立したと考えていいでしょう。ここでもヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)が盛んでした。
5世紀前半には、西ジャワに「訶羅単(訶羅陀)」という国があり(3)、国王はヴィシャヴァルマンというサンスクリット名を名乗っていました。 中国宋代の歴史書『宋書』には、「訶羅単」の他にも「婆達」(ジャワ中部? バタック?)(4)、「婆皇」(バリ?)(5)など、ジャワ方面の国名が挙げられています。
6世紀になると、中部〜東部ジャワには「丹丹」という国がありました(6)。この国は、稲作農耕に立脚していますが、支配層は例に漏れずインド化していました(7)。
大乗仏教の渡来これまで見てきた“インド化”された初期王国は、すべてヒンドゥー教を信奉していました。しかし6世紀頃から、仏教国家も出現するようになります。 しかもそこで行われていた仏教は、スリランカ (セイロン) 島から東南アジアに伝わった上座部仏教(南伝仏教)ではなく、「北伝仏教」と呼ばれる大乗仏教だったのです。 古代東南アジアの大乗仏教は、なぜ、どのように伝わったのでしょう?
4〜5世紀の北インドにはグプタ朝という強大な王朝が栄え、東南アジアにも大きな影響を与えていました。この国ではヒンドゥー教の他、大乗仏教も盛んで、中部インドのナーランダー僧院はその研究センターとして多くの学僧を集めていました。 また、カンボジア方面でも、シヴァ教を奉ずるクメール人の国家「真臘(しんろう)」が6世紀後半からメコン川を下りつつ勢力を拡大し、7世紀前半には下流の「扶南(ふなん)」を併合してしまいました。この時、扶南国にいた大乗仏教の教団も、マレー半島を南下し、インドネシア方面に避難したと思われるのです。 こうして、6世紀末のインドネシアには、仏教を信奉するインド型国家が登場します(8)。 その一つが「赤土(せきど)」国です。この国はかなりの大国で、インド式の官僚制度を持ち、「人々は仏法を敬い、バラモンを最も大事にする」(『隋書』)そうです。西部ジャワ(スンダ地方)〜南スマトラ(ランプン地方)にあったと考えられています(9)。
赤土国は隋の煬帝が607年に使節を送って以来、毎年隋に朝貢しますが、610年を最後に消息を絶ちます。
間もなくインドネシア地域には、シュリーヴィジャヤ王国(スマトラ島)やシャイレーンドラ朝(ジャワ島中部)という有名な大帝国が出現するのですが、これら両国もサンスクリットを用い、インド風の文物を取り入れていた点では、今まで見てきた“インド化した”初期国家と変わりはありません。
註A. 「ヤーヴァ」はのち「ジャヴァ (闍婆) 」へと転訛し、現在の「ジャワ」の語源となりました。インドネシア語派の人々はサンスクリットの [v] を発音できず、 [u/w] に変えてしまう傾向があります。
1.
インド人が東南アジアに押し寄せたのには、もう一つ理由がありました。 2. 但しタミール語説もあり。 3. 訶羅単は、430〜462年の間5回にわたって宋の文帝に朝貢。 4. 婆達は、435、449、451年と宋に朝貢。 5. 婆皇は、449〜466年の間6回にわたって朝貢。 6. 丹丹国の位置ははっきりせず、マレー半島のタムブラリンガ(現ナコンシータマラート)だとする説もあります。6〜7世紀の間、しばしば中国に使節を派遣しました。 7. 王はサンスクリットで「クシャトリアシュリンガ」と称して金の冠をかぶり、白衣の上に宝石のネックレスを着け、体に香料をまぶしていました。そして8人のバラモン僧が大臣として王を補佐したといいます。
8. 最近 (2000年2月) 日本語版が出版されたデイヴィッド・キーズ著 (畔上 司 訳) 『西暦535年の大噴火』には、ジャワ島東端のクラカタウ火山が西暦535年頃、史上最大級の爆発を起こしたという大胆な仮説が提示されています。 9. 赤土国の位置は議論のあるところで、スマトラ島のパタニより南方に位置していること以外よく分かっていません。マレー半島南部にあったモン・クメール語族の国という説もあります。 |