インドネシア歴史探訪
国家の誕生

 稲作農耕を学び、紀元後数世紀の間にジャワ人スンダ人マレー人……などに分かれたインドネシアの人々。彼らが最初に築いた国は、どのようなものだったのでしょうか?

  • インド文明の流入
  • 古代インドネシアに生まれた“インド風”国家
  • 大乗仏教の渡来


    インド文明の流入

     国家と言えるものが芽生え始めたのは、稲作農耕が根付いた後の、紀元後1〜2世紀ぐらいからでしょうか。それ以前の根菜焼畑農業ではまだ生産力が低く、集落以上の大規模な国家組織を維持していくのは不可能だったと思われます。

     ここに、2〜3世紀頃、インド商人が押し寄せてきました。彼らのもたらした文化はインドネシアのみならず、東南アジアに大変大きな影響を与えるのです。

     インド商人が大挙して東南アジア方面に進出してきたのは、インド経済が爆発的に発展したためです。

     当時ユーラシア大陸の東には後漢、西にはローマ帝国が栄え、東西貿易が盛んに行われ、インドはその中継基地として繁栄しました。
     特に、紀元後1世紀半ば(45/47年頃?)にモンスーン(貿易風)を利用する画期的な航海法が編み出されたため、南インドはローマ帝国との交易で非常に栄え、貿易赤字に悩んだウェスパシアヌス帝が金の持ち出しを禁止したほどでした。
     インド商人は、中国との交易にはマレー半島を経由するルートを用いました。そのため無数のインド人が東南アジアを訪れるようになったのです(1)
     3世紀末になると南インドとローマの交易は衰え、アーンドラ王国の没落などを招きますが、代わってインド東南海岸では4世紀以降パッラヴァ朝が栄えます。この国は東南アジアに強い影響を与えたようで、各地にパッラヴァ文字で書かれたサンスクリット語の碑文が残されるようになります。

     このようにインド(特に南インド)と文化的接触を続けた東南アジアでは、国家の形成も、インド文明の強烈な影響の下に行われます。東南アジアの人々は、国を建てるにあたり、その仕組みも、文字・言語も、果ては宗教までインドから輸入するのです。インド文明の刺激がなかったら、国家の誕生はもっと遅かったかも知れず、国家のあり方自体が全く異なっていたかも知れません。
     東南アジアの「インド化」は3〜4世紀の間に急速に進み、もう4世紀のうちには、サンスクリット語の王名、ヒンドゥー教信仰……といったインド文化の原理に基づくインド的“ヒンドゥー国家”が成立したと思われます。


    古代インドネシアに生まれた“インド風”国家

     インドネシアで最も古い国家の記録は、4世紀頃ジャワ島(あるいはスマトラ〜ジャワ一帯?)にあった「ヤーヴァドヴィーパ」です。
     「ヤーヴァ(A)」はサンスクリット語で「大麦」を意味するとされ、すでにジャワ方面で穀物農耕が盛んだったことを意味しています。
     中国僧の法顕(ほっけん)は、セイロン島から中国に帰る途中、414年にこの国に漂着しました。彼は著書『仏国記』の中でこの国を「耶婆提(やばてい)」と音訳し、「バラモン教が盛んで、仏教は言うに足りない」と記しています。
     もう、5世紀初めのジャワ方面にはヒンドゥー教を信奉する社会が成立していたわけです。

    ユーパ碑文
    ユーパ碑文 (七つのうちの一つ)
    表面に書いてあるパッラヴァ文字の字体から、紀元400年頃作られたと考えられます。東カリマンタン州クタイ県出土。
     同じ5世紀初めに、カリマンタン(ボルネオ)島東部マハカム川中流クタイ地方に、パッラヴァ文字で書かれたサンスクリット語の「ユーパ (供犠石柱) 碑文」が建てられました。
     七つの碑文の内容を総合すると、当時ムーラヴァルマンという王がいて、その祖父の名はクンドゥンガ、王朝を開いたのは父のアシュヴァヴァルマンだ……てなことが書いてあります。
     おじいさんの名前「クンドゥンガ」はインドネシア語系(2)ですが、お父さんの時代には「〜ヴァルマン」というサンスクリット名になったわけですから、東カリマンタンのような片田舎でさえ (!) 4世紀後半にインド式の国家が成立したと考えていいでしょう。ここでもヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)が盛んでした。

     5世紀前半には、西ジャワに「訶羅単(訶羅陀)」という国があり(3)、国王はヴィシャヴァルマンというサンスクリット名を名乗っていました。
     一方、5世紀中頃に西ジャワのボゴール付近には「タルマ国(タルマナガラ)」(中国史料では「多羅摩」)があって、プールナヴァルマン王が現在のタンジュン・プリオク港近くで運河の工事をしていました。彼はその業績をパッラヴァ文字によるサンスクリット碑文に記しています。「訶羅単」はこのタルマ国の別名だという説もあります。
     いずれにせよ、スンダ族の土地であったジャワ西部でも、5世紀にはインド化された王国が成立していたわけです。

     中国宋代の歴史書『宋書』には、「訶羅単」の他にも「婆達」(ジャワ中部? バタック?)(4)、「婆皇」(バリ?)(5)など、ジャワ方面の国名が挙げられています。

     6世紀になると、中部〜東部ジャワには「丹丹」という国がありました(6)。この国は、稲作農耕に立脚していますが、支配層は例に漏れずインド化していました(7)


    大乗仏教の渡来

     これまで見てきた“インド化”された初期王国は、すべてヒンドゥー教を信奉していました。
     しかし6世紀頃から、仏教国家も出現するようになります。
     しかもそこで行われていた仏教は、スリランカ (セイロン) 島から東南アジアに伝わった上座部仏教(南伝仏教)ではなく、「北伝仏教」と呼ばれる大乗仏教だったのです。
     古代東南アジアの大乗仏教は、なぜ、どのように伝わったのでしょう?

     4〜5世紀の北インドにはグプタ朝という強大な王朝が栄え、東南アジアにも大きな影響を与えていました。この国ではヒンドゥー教の他、大乗仏教も盛んで、中部インドのナーランダー僧院はその研究センターとして多くの学僧を集めていました。
     ところが、5世紀後半からグプタ朝は騎馬民族エフタルの激しい攻撃にさらされ、6世紀中頃までに滅んでしまいます。
     保護者を失ったナーランダー僧院からは、グプタ王族も含め多くの人々が東南アジアに亡命してきたと考えられるのです。

     また、カンボジア方面でも、シヴァ教を奉ずるクメール人の国家「真臘(しんろう)」が6世紀後半からメコン川を下りつつ勢力を拡大し、7世紀前半には下流の「扶南(ふなん)」を併合してしまいました。この時、扶南国にいた大乗仏教の教団も、マレー半島を南下し、インドネシア方面に避難したと思われるのです。

     こうして、6世紀末のインドネシアには、仏教を信奉するインド型国家が登場します(8)

     その一つが「赤土(せきど)」国です。この国はかなりの大国で、インド式の官僚制度を持ち、「人々は仏法を敬い、バラモンを最も大事にする」(『隋書』)そうです。西部ジャワ(スンダ地方)〜南スマトラ(ランプン地方)にあったと考えられています(9)

     赤土国は隋の煬帝が607年に使節を送って以来、毎年隋に朝貢しますが、610年を最後に消息を絶ちます。
     おそらくこれは、スマトラ島南部で大きな政治変動が起こったからです。そして7世紀後半、赤土国に代わって登場してくるのが、シュリーヴィジャヤ王国なのです。

     間もなくインドネシア地域には、シュリーヴィジャヤ王国(スマトラ島)やシャイレーンドラ朝(ジャワ島中部)という有名な大帝国が出現するのですが、これら両国もサンスクリットを用い、インド風の文物を取り入れていた点では、今まで見てきた“インド化した”初期国家と変わりはありません。
     注意を引くのは大乗仏教が盛んだったことくらいでしょうか。 


    A.   「ヤーヴァ」はのち「ジャヴァ (闍婆) 」へと転訛し、現在の「ジャワ」の語源となりました。インドネシア語派の人々はサンスクリットの [v] を発音できず、 [u/w] に変えてしまう傾向があります。

    1.  インド人が東南アジアに押し寄せたのには、もう一つ理由がありました。
     貿易の拡大と共に、インドでは貨幣経済が急激に広がりました。北インドのクシャーナ朝はローマ金貨を真似た金貨の鋳造を始めるし、南インドのアーンドラ王国ではローマ金貨をそのまま流通させました。しかしそれでも交易用の金が不足するようになりました。おまけに、インドに対する巨額の貿易赤字に悩まされたローマ帝国は、1世紀後半にインドへの禁輸出を禁止してしまいます。
     金不足に直面したインド人にとって、東南アジアは魅力溢れる土地でした。マレー半島からは金が出たからです。当時のサンスクリット語文献はマレー半島東南部付近を「スヴァルナブーミ(黄金の国)」と呼んでいます。

    2.   但しタミール語説もあり。

    3.   訶羅単は、430〜462年の間5回にわたって宋の文帝に朝貢。

    4.   婆達は、435、449、451年と宋に朝貢。

    5.   婆皇は、449〜466年の間6回にわたって朝貢。

    6.   丹丹国の位置ははっきりせず、マレー半島のタムブラリンガ(現ナコンシータマラート)だとする説もあります。6〜7世紀の間、しばしば中国に使節を派遣しました。

    7.   王はサンスクリットで「クシャトリアシュリンガ」と称して金の冠をかぶり、白衣の上に宝石のネックレスを着け、体に香料をまぶしていました。そして8人のバラモン僧が大臣として王を補佐したといいます。

    8.   最近 (2000年2月) 日本語版が出版されたデイヴィッド・キーズ著 (畔上 司 訳) 『西暦535年の大噴火』には、ジャワ島東端のクラカタウ火山が西暦535年頃、史上最大級の爆発を起こしたという大胆な仮説が提示されています。
     当時陸続きだったジャワ島とスマトラ島は、この爆発で出来た大カルデラ、つまりスンダ海峡に分断され、膨大な火山噴出物は成層圏の塵となって1年半もの間太陽を覆い、世界を「核の冬」さながらの危機に陥れた。世界中で干ばつ、洪水、ペストが発生し、マヤ文明やナスカ文明は消滅、中央アジアの遊牧民も生活できなくなり、騎馬民族としてユーラシアの都市文明に侵入した。スラヴ人が大挙して現在の東欧に移動するのも、東ローマ帝国が弱体化するのもこのためだし、新羅・日本が仏教を導入したのも難民流入等で各国が政情不安に陥ったから……。
     もしこのような大噴火が実際に起こったとすれば、西ジャワや南スマトラにあった王国は全て壊滅でしょうから、ここで大規模な勢力交替が起こったことも肯けます。噴火の数十年後、大乗仏教を奉ずる仏教徒が新天地としてここにやってくることもあったかも知れません。
     ただ、島を割るほどの巨大噴火があったなら、必ず地質学的に明白な証拠が出てくるはずです。仮説としては面白いのですが、この検証が済むまでは、歴史事実として受け入れるのは保留しておきましょう。

    9.   赤土国の位置は議論のあるところで、スマトラ島のパタニより南方に位置していること以外よく分かっていません。マレー半島南部にあったモン・クメール語族の国という説もあります。

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    更新日:1999/05/04; 2001/01/06

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