スンダ人
Sundanese
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 西部ジャワの山地を中心に居住する人びと。

〔系統〕 アウストロネシア語族インドネシア語派/西インドネシア語群に属す

〔使用言語〕 スンダ語

〔分布地〕 西部ジャワ山間部

〔生業〕 水稲中心の農耕民

〔属する宗教〕 古くはヒンドゥー教や仏教。16世紀以後イスラム化。


スンダ語

 インドネシア語派の中の西インドネシア語群の一つ。


スンダ人の歴史

 ジャワ島西部の本来の住民はスンダ人で、かつてはスンダ地方全域に広く分布していた。

紀元前後〜5世紀
 インド商人を介してヒンドゥー教、仏教文化が流入。

5世紀
 ジャワ島西部のスンダ地方にいくつもの国家が成立。
 西ジャワのボゴール地方を中心に「タールマー国 (タルマナガラ) 」が存在。
 また、『宋書』「南夷伝」に見える「訶羅単(からたん)」--430〜462年の間5回にわたって中国の宋に朝貢--もスンダ地方の国だという(生田滋による)。

5世紀中頃
 タールマー国王プールナヴァルマンが碑文を建立(南インドのパッラヴァ文字で書かれている)。
 碑文によれば、この時期プールナヴァルマンは現タンジョン・プリオク港付近で水利工事などをしていた。

 その後、スンダ人はパジャジャラン王国などを築く。

14世紀
 ジャワ人マジャパヒト王国が西ジャワにも勢力を伸ばしてくる。

1351
 マジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダが計略をもってパジャジャラン王女とマジャパヒト王の婚礼を進め、その結婚披露宴でパジャジャラン国王シリワンギ一族を皆殺しにした。
 しかしパジャジャラン王国はマジャパヒトに屈せず。

15世紀後半
 ジャワ中・東部北岸にイスラム港市国家群が成立、マジャパヒト王国を徹底攻撃。

16世紀初め
 中・東部ジャワ海岸地帯のイスラム港諸市はドゥマクを盟主として国家連合を形成、いよいよその矛先を西ジャワに向けた。
 パジャジャラン王国は、イスラム国家連合の脅威に対抗するため、当時到来したポルトガルと手を結び、その主要な外港スンダ・クラパ(現ジャカルタを使わせる。

1526/27
 バンテン港は、ドゥマク国の援助を受けたイスラム教徒ファレテハン(ファタヒラー)に奪われる。

1527年6月2日
 バンテン王となったファレテハンとドゥマク国のイスラム連合軍は、ポルトガル軍を駆逐して良港スンダ・クラパを奪い、ジャヤカルタ=「勝利の町」と命名。これが「ジャカルタ」の語源になった。

1579
 パジャジャラン王国は、バンテン王国の第2代スルタン、ユースフに併合されて滅ぶ。

 かくしてイスラム系ジャワ族は、西ジャワ海岸地帯にチレボン、ジャヤカルタ(現ジャカルタバンテンなどの移民都市をどんどん築いた。
 西部ジャワはスンダ人の地域だったわけだから、スンダ地方におけるこうしたイスラム国家の成立は、ジャワ人の発展なのであり、スンダ人は内陸部プリアンガン地方(ジャカルタ南方)に封じ込められた。
 ジャワ人に圧迫されたスンダ人は高原都市バンドゥンを築く。

1677
 プリアンガン地方は「トゥルーノジョヨの乱」最中にオランダ東インド会社(VOC)の助けで即位したマタラーム王国スルタン、アマンクラット1世(位1645〜1677)によってVOCに割譲される。
 これはオランダ領東インドの最初の植民地だった。

1694
 オランダ東インド会社(VOC)はプリアンガン地方で、綿糸、木蝋、胡椒、藍などを農民に栽培させ、それを会社が言い値で買い叩く「義務供出制度」を開始。

1686−1706  ウントゥン・スロパティ(スラパティ)の反乱
 VOCの圧政を不満として西ジャワで蜂起し、中部ジャワに移動してマタラーム王国の支援を受け、さらにジャワ東部へ逃れてオランダやマタラームを攻撃し、第1次ジャワ継承戦争(1704−1708)にも介入するほどの勢いを示す。

 米、コーヒー、茶を栽培。
 織物、□染布などの工芸品にすぐれる。

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更新日:1999/01/20

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