椰子の葉をそよがす夕暮れ時の風に乗ってムスジッド(モスク)から流れてくる、郷愁に満ちたアザーン(祈りの時間を告げる朗唱)は、ジャカルタで最も印象的なものの一つです。
現在のインドネシアは、人口2億の9割、1億8000万人のイスラム教徒を抱える世界最大のイスラム地域です。
にも関わらず、インドネシアにイスラム教が広まったのは、歴史の上では比較的最近のことなのです。
インドネシアでイスラム教が盛んになったのは16世紀以降の最近400年の話であり、それ以前は約1000年にわたってヒンドゥー文化(ヒンドゥー教、仏教)が支配的でした。
イスラム教徒は遅くとも8世紀からインドネシアに来航していたのに、イスラム教はそれから800年間、インドネシアには全く浸透しなかったのです。
では、それまで見向きもされなかったイスラム教が、15世紀にインドネシアで急拡張したのはなぜでしょう?
インドネシアのイスラム化はどのように行われ、どんな影響をもたらしたのでしょう?
東南アジア最初のイスラム国家
マレー人の新時代
ジャワのイスラム化
東南アジア最初のイスラム国家
13世紀の終わり、ちょうど東ジャワにマジャパヒト王国が成立したのと同じ頃、スマトラ島の北西端サムドゥラ及びパサイには、東南アジア最初のイスラム教国が成立しました(サムドラ・パサイ王国)。
1292年にサムドゥラのすぐ南東のペルラク港を訪れたマルコ・ポーロは、この港には多数のムスリム(=イスラム教徒)が来航し、彼らがつい先頃原住民をイスラム教に改宗させた、と記しています。
では北スマトラの人々を改宗させたイスラム商人は、具体的にはどこからやってきたのでしょうか?
メダン(北スマトラ)の大モスク 「ムスジッド・ラヤ」
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サムドゥラには1297年の年代を持つスルタン・マリク・アッサーリフ(アル・サレーとも呼ばれる)の墓碑があります。
王家はベンガル出身です(1)が、その墓の形はインド西岸グジャラート地方にあるイスラム墓とおんなじです。しかもその墓石が、インド西岸グジャラート州カンバイ湾の奥にあるカンバイ港から運ばれてきたものだということが、研究の結果、分かっています。
グジャラート地方は11世紀以来イスラム勢力がたびたび侵入した地域で、特に13世紀初めには、ゴール朝が北インド一帯を征服、イスラム化を遂行したばかりでした。なおかつ、13世紀と言えばモンゴル人が中央アジアから中近東にかけてのイスラム諸国を軒並み屠(ほふ)っている最中です。
イスラム世界の危機に際し、布教の熱意に燃えるグジャラート商人が、カンバイ港からスマトラ北端のサムドゥラにおもむいて宣教したとしても、おかしくはないでしょう。
当時のグジャラートなどの商人が、スーフィー派(イスラム神秘主義)に属していた(2)ことは重要です。呪術的・神秘主義的な世界観を根強く持つインドネシアの住民にとって、スーフィズムは、厳格なアラブ・イスラムの教えよりもずっと受け入れやすかったのです (ワリ・ソンゴの伝説参照)。当時のスマトラ住民は、イスラム教をヒンドゥー教や密教(仏教)の一派と考えていたふしがあります。
東南アジアのイスラム教の起源がインド経由だという事実は、また、ある興味深い仮説を引き出してくれます。
東南アジア島嶼部の最も重要な輸出商品は、言うまでもなく胡椒です。これを求めてはるばるヨーロッパ人がやってきて、しまいには東南アジアを植民地にしてしまうくらいです。
ところで、胡椒は東南アジア原産ではなく、イスラム商人の手でインドのマラバール地方から移植され、商品作物として栽培されるようになったとされます。
とすれば、北スマトラにイスラムが布教された13世紀に胡椒も輸入されたということは、充分に考えられます。もしそうなら、スマトラ島北西端のサムドゥラは、北インド系イスラム商人の一種の植民地だった可能性が強くなります。事実、サムドゥラはこの後も長く東南アジアに於けるイスラム信仰の中心となるのです。
いずれにせよ、サムドゥラ・パサイは13世紀末〜14世紀の間、交易の中心として大いに栄えます。
なお、この「サムドゥラ」という地名はのち島全体を指すようになり、なまって「スマトラ」となりました。
マレー人の新時代
スマトラに伝来したイスラム教は、まずマレー人の間に広がりました。
当時マレー人は、強大なマジャパヒト王国の下で発展しつつあったジャワ人に押され気味で、1380年代には、かつてのシュリーヴィジャヤ王国の首都、パレンバンもマジャパヒト王国に占領されてしまいます。
この時、パレンバン王家出身のパラメーシュヴァラという男は国外に脱出し(1390年頃)、まずトゥマシックに渡ります(3)。
トゥマシックは別名を「シンガプーラ」と言い、今のシンガポールでした。パラメーシュヴァラはいったんこの町の実権を握りますが、5年後に追われ、ムアルでも6年過ごしたのち追われ、結局やや北方のマラッカに定住し、国を開きました。「マラッカ王国」の誕生です。1400年か、それより数年以内の出来事でした。
マラッカ王国の他にも、マレー半島にはいくつものマレー人の植民地国家が生まれていました。しかし当時タイ人のアユタヤ朝(1350〜1767)がマレー半島を南下しつつあり、マレー人小国家は次々とタイに征服されてゆきました。
そこでマラッカのパラメーシュヴァラが頼ったのは中国の明(みん)でした。
当時、明の永楽帝(えいらくてい)(位1402〜1424)が積極的な対外政策を推進中で、鄭和(ていわ)率いる大艦隊を繰り返しインド洋方面に派遣しました。
パラメーシュヴァラはいち早く明に取り入り、アユタヤ朝やマジャパヒト王国の脅威から守ってくれるよう要請しました。答えはOKで、それ以降マラッカ王国は鄭和艦隊の武力を背景に独立を守り通すことができたのです。
胡椒貿易の拠点マラッカ海峡を占めたマラッカ王国は大いに繁栄し、マレー半島一の強国となります。
しかし、永楽帝の死後、中国は再び内向きの政策を取り始め、マラッカ王国に再び危機が訪れます。
1445年と1456年にアユタヤ朝の遠征軍が攻めてきましたが、マラッカは独力で国を守り抜きました。この戦いの際、イスラムが国家宗教として採用され、アユタヤとの戦いは「聖戦」として戦われたと考える学者もいます。時のマラッカ王ムザッファル・シャー(位1445〜1459)は建国以来初めてスルタン(イスラム世界の世俗支配者)の称号を用い、これ以降マラッカ王国から東南アジア各地に精力的にイスラム教が伝えられるのです。
15世紀後半にはマラッカ王国は極盛期を迎えます。
その直接の勢力はマレー半島南部全域とその対岸スマトラ島東南海岸一帯に及びましたが、それ以上に、交易の拠点として各地に港市国家が成立したことが重要です。
15世紀後半に成立したこれらイスラム海岸都市の中でも、特に次のものは有力でした。
- アチェ……スマトラ北端。
- パレンバン……東南スマトラ。
- バンテン……ジャワ西北端。発音は正確には「バントゥン」。
- ドゥマク……中部ジャワ北岸。「デマク」とも書かれる。ジャワ北岸のイスラム国家群の中では最も強力。
- マカッサル……スラウェシ島南部。現ウジュン・パンダン。
ムスジッド・アグン・バンテン 16世紀後半にバンテンに建てられた古ジャワ様式のモスク。
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これらの都市国家はマラッカ王国との交易網上に発生した、一種のマレー商人の植民地で、イスラム教を奉じ、マレー語(ムラユ語)とアラビア文字を用い、マラッカ王国の権威に服し、「ヒカヤット」や「スジャラー」と呼ばれる文学伝統を保持する一つの文化圏を形成しました。いわゆる「マレー世界」の成立です。
東南アジアのイスラム教は、このマレー人の海上貿易ネットワークを通じて各地に急速に広がって行くのです。
ところが、16世紀の初頭、マラッカ王国の繁栄はあっけなく終わってしまいます。
1509年、ポルトガル艦隊がマラッカに出現し、1511年にはアフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル艦隊によってマラッカは占領されてしまうのです。
しかし、ポルトガルによるマラッカ占領は、マレー人のマラッカ王家の滅亡を意味しませんでした。王家は各地を転々としたのち、マレー半島南端にジョホール王国を築きました。またスマトラ島の北端にはアチェ王国が成立します。
ジョホール王国はマラッカのポルトガル人に対抗する大勢力となってマレー半島各地を支配下に置き、アチェ王国もスマトラ島南部まで勢力を伸ばします。おかげでポルトガルの影は薄くなり、せっかくのマラッカ経営でも利益を上げることが出来ませんでした。
その後ジョホール王国はイギリス植民地となり、現在のマレーシア連邦の中核となるのです。
ジャワのイスラム化
タナ・ロット寺院 16世紀にジャワからバリ島へ逃れたヒンドゥーの高僧ニラルタが、海岸から突き出た小島の美しさに魅せられて建立。
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一方ジャワ島では、北岸に成立したイスラム小国群(ドゥマク、チレボン、ジェパラなど)が栄華を誇ったマジャパヒト王国を内陸部に閉じ込め、1480年代以降激しく領土を蚕食して1520年頃までに滅ぼしてしまいます。
マジャパヒトの王族やヒンドゥー教徒たちはバリ島へ亡命しました。現在バリ島がインドネシアで唯一ヒンドゥー文化を残しているのは、こういう事情です。バリ島民たちは、自分たちはマジャパヒト王族の末裔だと信じています。
ジャワ北岸地方に広がったイスラム小国家の中で最も優勢だったのは中部ジャワのドゥマク国でした。
ドゥマクは16世紀に入るといよいよジャワ島西部の侵略に着手します。
1526〜27年、ドゥマクの支援を受けたファレテハン(ファタヒラー)率いるイスラム軍は、スンダ人の王国パジャジャランやポルトガルから主要港バンテン、スンダ・クラパ(=現ジャカルタ)、チレボンを奪い取り、次々とジャワ人の移民都市を築いてゆきました。
西ジャワには本来スンダ人の土地です。だから、スンダ地方におけるこうしたイスラム国家の成立は、イスラム化したジャワ人の発展という側面を持っており、スンダ人は内陸の山間部に封じ込められることとなりました。
追いやられたスンダ人がプリアンガン高地に築いた最後の砦が、今日の高原都市バンドゥンです。
16世紀半ば、ドゥマクを中心とする国家連合は、今度は中部ジャワ内陸部への進出を企てました。
10世紀の壊滅的な噴火以来、おそらく無人の原野だったこの地に建てられた植民国家は、「マタラーム王国(マタラーム・イスラム)」と呼ばれます。
ちょうどその頃、ドゥマクで内紛が起こり、ドゥマクはバンテン王国、チレボン王国などいくつかに分裂します。
《仮想歴史ツァー》
バンテン王国---栄華の日々
間もなくマタラーム王国も独立し、大発展して1590年代にはスラバヤを除く中部・東部ジャワ海岸地帯の全港市国家を支配下に置き、さらに西部ジャワのバンテン王国を攻撃ほどになりました。
この国は、スルタン・アグン(位1613〜1646)の時代には最盛期を迎えます。
1620〜1625年頃に良港スラバヤを攻め落とし、中部・東部ジャワのほぼ全域を手中に収め、西のバンテン王国とジャワ島を二分する強大な国家となったのです。
スルタン・アグンの膨張政策は、中部・東部ジャワのイスラム化を徹底しました。彼がバリ島征服に失敗したため、バリ島や小スンダ列島(ヌサ・トゥンガラ)には辛うじて伝統的なヒンドゥー文化が残されましたが、もし遠征が成功していたら、バリ島もイスラム一色に塗りつぶされ、今見るような珍しい文物は一切失われていたかも知れません。
野心家アグンは間もなく西方の強国バンテンの征服を思い立ちました。ジャワ全島を一気に統一してしまおうと考えたのです。
しかし、その進路上にはオランダ東インド会社のバタヴィア総督府(現在のジャカルタ)がありました。
そこでアグンはまずこのバタヴィアを片付けてしまおうと考え、1628〜1629年にバタヴィアへ総攻撃を掛けたのです。
ジャワの王国とヨーロッパ勢力の史上最初の武力衝突、その結果やいかに?!
註
1. S. Q. ファティミの説(1962)。従ってパサイ国のイスラム教はグジャラート以外の地域の影響も当然受けていると思われます。
2. アンソニー・ジョーンズの説(1957)。
3. パラメーシュヴァラがトゥマシックに渡ったのは、1401年に起こったマジャパヒト王国の王位争いから逃れるためと考え、渡航時期をそれ以降とする説もあります。
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