ジャカルタから高速で西へ1時間強、セランで下りてたらたらと北へ走ると、30分ほどでバンテン・ラーマ(古バンテン)という田舎町に着きます。
今でこそさびれた港町ですが、このバンテン・ラーマこそ、栄華を誇ったバンテン王国の王都だったのです。
例によって空想のタイムマシンを使い、1580年、最盛期のバンテン王国を訪れてみましょう。
バンテン王国は、オランダ人の来航以前にはジャワ島の西半分を支配した強大なイスラム王朝でした。その王都が置かれた港湾都市バンテンは、バタヴィア(今のジャカルタ)が大発展する前には、マルク諸島の香辛料や、中国・日本の陶磁器をヨーロッパに輸出する唯一最大の貿易中継基地として、大いに繁栄していたのです。
ではさっそく、首都に足を踏み入れてみることにします。
しかし、町の住民にカタカナ発音で「ここはバンテンですよね?」と聞いても、相手はにこにこ顔のまま「へ?」と凍り付いてしまうでしょう。日本人的なその発音ではインドネシア語 (マレー語)の banteng=「野牛」になってしまうからです。Banten
は正確には「バントゥン」に近く発音しなければなりません。
さてさて、ずいぶん活気溢れる町ですね。貿易で栄える港町だから当然か。
港の脇にはカラガントゥ市場 (Pasar Karanghantu) があります。住民の大多数はスンダ人ですが、海洋商人のマレー人やジャワ人も多くいます。
それに、外国人が多いですね。
何より中国人がたくさんいます。バンテンの町に住み着いている人たちも多く、自分たち独自の中国式寺院も建てています。
アラブ人もたくさんいるし、青い目のポルトガル人も胡椒交易でやってきています。
町の中心部に行ってみましょう。
町の交通機関の中心は、何と船です。町の隅々まで運河が掘られ、どこへでも船で行けるのです。
さあ、バンテン王の住むスロソワン (Surosowan) 宮殿の前にやってきました。
ここはアルン=アルンと呼ばれる王宮前の広場です。インドネシア(ジャワ〜バリ)では一般的に王宮前にはアルン=アルンという広場が設けられています。
おや、何かお祭りでしょうか、人が集まっています。
ははあ、伝統芸能「ドゥブス (Debus) 」の公演ですね。
うわあ、鋭い刃物を舌の上で引いたり、燃えさかる紙を食べたり、頭の上でクルプック (インドネシア特産エビせんべい) を揚げたり、ぶっといクギを腹に当てて大きな木づちで思いっきり叩いたり……でも演者はけが一つしない。
何でもこの見せ物は北スマトラのアチェ王国から、イスラム教の伝来と共に伝わったそうです。信仰により内面を鍛えれば、不死身の体を手に入れられるというメッセージがあるそうで、先代の国王マウラナ・ハサヌッディンがイスラム教の伝道キャンペーンの一つとして積極的に利用して発展したということです。
それからもう一つ、これは見せ物と言っていいかどうか……ともかくあっちの方でゆっくりと舞いを舞っているような黒装束の集団がいますよね。あれは「プンチャク・シラット (Pencak Silat) 」と言って、バンテン王国独自の護身術なのです。いざとなれば短刀を振りかざして戦う伝統武術だそうです。
さ、お祭り見学はこの辺にして、回りを見渡してみましょう。
右手には、王国の人々の信仰の中心を成すモスク、ムスジッド・アグン・バンテン (Mesjid Agung Banten) がそびえています。
ムスジッド・アグン・バンテン
左に見える白い建物は、祈りの時間を告げる尖塔 (ムナラ) 。
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アラブ式の丸屋根ではなく、ジャワ風の赤い瓦葺き屋根なのが特徴ですね。
このモスクには、先代の第2代国王マウラナ・ハサヌッディン (位1552−1570) の墓もあります。
さて、正面を向いて、スロソワン王宮に入っていくとしましょう。
スロソワン宮殿入口
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丸階段をのぼってパレスに入って行くわけですね。
奥に進むと水浴場も見えてきます。
スロソワン宮殿水浴場
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このパレスに住んでいるのは第3代の現国王マウラナ・ユースフ (位1570−1580) です。
彼はここ首都バンテンの発展に尽くし、この王宮はじめ、ムスジッド・アグン、市場、港などを建設・整備しただけでなく、飲み水の乏しいバンテンの町のために、郊外に人工池まで作りました。上の浴場の水もそこから引かれてきているのです。
ではそのタシク・アルディ人造湖 (Danau Tasik Ardi) を訪ねてみましょう。
タシク・アルディ人工池
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この池から王都までは水道管を通して上水道が引かれました。しかも、土器製の水道管を通過する間に水が浄化される仕組みになっていたのです!
あれ? そこの茂みに黒装束を着た変な奴が……?
あ、逃げた! ……誰だったのかな?
え、何? 「バドゥイ族」? イスラム教も近代文明も一切拒否して、山に籠もってひっそり生活している民族? しかも、彼らはこの西ジャワのスンダ地方を支配したヒンドゥー王国パジャジャランの末裔かも知れないと言われているんだって?……
そういえば、バンテンのユースフ王がパジャジャラン王国を滅ぼしたのって、確か1579年、つまり去年だよな……
なるほど、それなら今まだこの辺にバドゥイが出没するのも納得がいくわ。
さらに南へ向かうと、お、何かな? 葬列みたいだな、盛大な……
おや、何と、ユースフ王が亡くなってしまったようですよ。
棺は小さな霊廟に収められました。覗いてみましょう。
ユースフ王の墓
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真っ白い大理石のひんやりとした霊廟の中に、ひっそりと墓碑が立っています。
ユーフス王が亡くなった頃がバンテン王国の最盛期でした。その後、都は拡大を続けますが、国勢は次第に傾きます。
それを象徴する事件が、1596年6月23日のオランダ人の初来航でした。これ以降バンテンはオランダから絶え間ない圧迫を受けるようになります。
では、ちょいと1617年へ飛んでみましょう。
今日は7月19日、相変わらず暑いです。
あれ、今まで見かけなかった奴が市場を歩いていますよ。えりにびろびろの付いた着物を着て、もんぺみたいなたぶたぶズボンをはいて、髭を生やして……ははあ、あれがオランダ人ですな。
やや、向こうからも西洋人が……何、あれはイギリス商館員?
あ、喧嘩を始めた。
おお、オランダ商館次席が東洋人の助っ人を20名ばかし連れて助けに参上したよ。何? あの助っ人、全部日本人なの? あ、殴り始めた。
わ、今度はイギリス側も日本人やバンダ島人の用心棒を連れて……あああ、オランダ商館を襲ってるよ。結局、黒人1名死亡、日本人1名を含む4名が重傷だって。
それから4ヶ月後の11月22日、もっと大きな衝突が発生したみたい。ありゃりゃ、イギリス側が200人の軍勢でオランダ商館を襲撃してる。オランダ人はみな逃げ出したけど、日本人傭兵5人は踏み止まって戦い、1名死亡、4名が重傷だって。
困ったバンテン王スルタン・マフムッド・アブドゥルカディル (位1596−1651) は外出自粛勧告を出しました。
にも関わらず英蘭両国は互いに物資搬入を妨害しあい、1621年命令違反で出港した日本人12名が捕らえられ殺される騒ぎも起きます。外人同士が自分の都で勝手に騒ぎを繰り広げられちゃあ、王様としてはたまったものではなかったでしょう。
それどころか、1633年には貿易独占を狙ったオランダ艦隊が、バンテン港を封鎖したりします。ちなみにこの時、封鎖を破って出掛けようとした数名の日本人が拿捕されたと言いますから、バンテンに住んだ日本人は自ら商船を持ち、独自の通商活動を繰り広げるほどの財力を築いていたようです。
さて、次は1685年に行ってみましょう。
おや。ずいぶんと感じが変わりましたよ。オランダ人の力が格段に増したようです。それに、町にはオランダ人以外の西洋人の姿が目に付きません。
何でも、1680年から3年間、国王スルタン・アブドゥルファター (ティルタヤサ大王) (位1651−1683) と王子スルタン・ハジが争い、王子はオランダの手を借りて父を捕らえ、王座に就いたのだそうです。そしてその見返りに、オランダ人に膨大な貿易特権を与え、オランダ人以外のヨーロッパ人を全員追放する約束をしたそうです。
オランダ人が父王ティルタヤサ大王を倒したのは、彼が名君で、多数の貿易相手をバンテンに呼び込み、バタヴィアの繁栄を奪う気配を見せたからなんですと。
オランダが実質バンテンを支配し始めたことは、町の北西岸にオランダが強固なスピルウィク (Speelwijk) 要塞を築いたことからも明白です。王宮の目と鼻の先に、外国の軍事要塞を建てられるなんて……
では、そのスピルウィク要塞に行ってみることにしましょう。
外堀から見たスピルウィク要塞
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17世紀オランダの築城技術の粋を凝らして作られたものです。椰子が茂っているのがいかにもジャワ島らしいですねえ。
画面向かって右側を向いてみましょう。
外から見たスピルウィク要塞と監視塔
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物見櫓というんですか、監視塔がいかにも中世ヨーロッパの城って感じですね。手前の細い道を山羊の親子が歩いています。
今度は正面を向いてみます。
外から見たスピルウィク要塞と監視塔 (その2)
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あまり変わり映えしなかったですか。
では要塞内部に踏み込んでみましょう。
スピルウィク要塞内部より東北角を望む
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あっちの隅に近付いてみます。
スピルウィク要塞東北隅
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登ってみると……
スピルウィク要塞東北隅屋上
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牢固な城壁です。
ここは降りて、今度は反対側の隅に行ってみましょう。
スピルウィク要塞西北隅
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ここは確か監視塔があるところです。
さっそく石段を登りましょう。
スピルウィク要塞監視塔
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出たっ。
それでは中に入ります。
スピルウィク要塞監視塔からの眺め
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ふーん。オランダ兵はいつもこんな穴蔵から外を眺め、敵を監視していたんですかね。
ちなみにこの外の眺め、20世紀には椰子の生い茂る湿原ですが、17世紀当時にはすぐ目の前まで海岸線が迫っていました。だから水平線上に現れる敵艦隊を警戒していたわけです。
最後に、背後に広がる城内の様子を眺め渡しておきましょう。
スピルウィク要塞西北隅屋上から見下ろす要塞内部
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さて、あとはバンテン王国、さびれる一方です。
特に1748〜1753年に王位継承を巡る内乱が起き、オランダの大幅な介入を許してからは、没落は急でした。
バンテン王国の歴史も終わりに近付きましたが、最後に1815年に寄っておきましょう。
この年、ラフィウディン (Rafiudin) 王は、母に素晴らしい贈り物をしました。過日の栄華を忍ばせる華麗なカイボン (Kaibon) 宮殿を建てたのです。
正面から見たカイボン離宮
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赤い煉瓦の宮殿本体も忘れがたいのですが、白い城壁がまた素敵です。
カイボン離宮の城壁
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ね。バリ風の割れ門 (ガプラ) が連なって出来ているんです。
最後に全景を眺め、バンテン王国とお別れすることにしましょう。
カイボン離宮全景
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