インドネシア歴史探訪
栄光のマジャパヒト王国

 インドネシアの歴代王朝の中でも、マジャパヒト王国は、シュリーヴィジャヤ王国と並んで最も有名です。
 それは、この王国がインドネシア史上の最大領土を実現し、10世紀以来のヒンドゥー・ジャワ文化の頂点を築いたからです。しかしそれは同時に最後のヒンドゥー・ジャワ国家でもありました。

  • クリス(短剣)の呪い
  • 妖術大戦争
  • インドネシアの元寇
  • 名宰相ガジャ・マダ


    クリス(短剣)の呪い

     エルランガ王の血を引く伝統あるクディリ王国は、1222年に、どこの馬の骨とも知れぬ男に滅ぼされてしまいます。

    伝・王妃デデス
    王妃デデス(伝)
    魔性の女デデスをかたどったと言われるプラジュナパーラミター (般若波羅蜜) 菩薩像。1300年頃作。その妖しい美しさはジャワ彫刻の最高傑作。是非、ジャカルタの国立博物館で本物を!
     この男の名はケン・アンロク (またはアロク)。盗賊出身で、東ジャワのトゥマーペル地方の領主の下で働くようになりますが、その妻ケン・デデスと道ならぬ恋に陥り、ある計略を巡らせます。
     アンロクは当代随一の刀鍛冶ガンドリンに鋭利な短剣(クリス)を作らせます。しかし、出来が遅いのに腹を立て、ようやく仕上がった品を手にするが早いか、作者を試し斬りにしました。刀鍛冶は苦しい息の下から、「貴様の子孫はこの刀の下で死ぬ。この一振りの剣で7人の王が死ぬだろう」と呪いをかけました。
     さて、アンロクはこの短剣を友人に貸しました。友人がこれを多くの人々に見せびらかしたのを見すまし、ある夜それを盗んで領主を殺しました。友人は直ちに捕らえられて処刑され、アンロクはまんまと領主の座とその妻を、一度に手に入れたのです。

     その後ケン・アンロクは兵力を蓄え、1222年にクディリ朝を攻め滅ぼして、トゥマーペル(シンガサリ)を都に新王朝を開きました。
     この「シンガサリ朝」は、インドネシア史上極めてユニークな王朝です。わずか70年しか続かないのに、その歴史は実に波瀾万丈に富んでいます。

     アンロクは国王に即位しますが、わずか5年後の1227年、殺した領主の息子に暗殺されてしまいます。アンロクを刺した短剣(クリス)は、ご想像通り、あの呪われたクリスでした。
     この息子はそのまま第2代の王アヌーシャパティ(位1227〜1248)として即位しますが、21年後、彼もまた同じ短剣で殺されるのです(その墓が東ジャワにあるシヴァ神殿チャンディ・キダルです)
     そして、アヌーシャパティを暗殺した男も、トージャヤ王(位1248)として王位に就いて数カ月後、二人の甥に殺されます。
     その後もシンガサリ王家では血で血を争う争いが絶えなかったと言われます。これもやはりクリスの呪いなのでしょうか?


    妖術大戦争

    チャンディ・ジャゴ寺院 (16KB)
    チャンディ・ジャゴ寺院
    1280年に建てられ、マジャパヒト時代の1343年に改修された仏寺。表面を覆う浮彫が有名です。
     血の匂いが漂うシンガサリ宮廷は、宗教でも、淫靡な香りを秘めた奇妙な密教にふけっていました。
     それは仏教ヒンドゥー教シヴァ信仰が混交した「カーラチャクラ派」と呼ばれるもので、儀式では飲酒とセックスが行われ、シヴァ神の姿の一つであるバイラーヴァ神を礼拝しました。この神は4本腕で、髑髏を散りばめた冠、耳飾り、首飾りなどで全身を着飾った、奇怪な神です。
     そこでは仏教とヒンドゥー教の区別はもはや意味を成さなくなりました。例えば、第4代国王ヴィシュヌヴァルダナ(位1248〜1268)の遺骨は、半分がチャンディ・ムレリ神殿にシヴァ神の化身として埋葬され、もう半分はチャンディ・ジャゴ寺院に仏教の菩薩の化身として祀られています。

    仮想歴史ツァー  シンガサリ朝寺院めぐり

     ところで、シンガサリの諸王がなぜこれほど熱心に宗教に入れ込んだかについて、面白い説があります。
     当時はモンゴル族が全世界を席巻しつつありました。イスラム諸国を軒並み滅ぼし、ロシアを征服し、東ヨーロッパを荒らして、中国を制圧下に置いたモンゴルは、13世紀後半には東南アジアへの進出を試みていました。
     1258年北ベトナム征服、1274年第一次日本遠征(文永の役)、1281年第二次日本遠征(弘安の役)、1284年南ベトナム征服、1287年パガン朝(ミャンマー)滅亡……
     こうした情勢に危機感を抱いたジャワの国王たちは、モンゴルの侵略の意図に対し、強力な対抗手段を執ることにしたのです----但し呪術で。
     当時の政治の舞台で呪術が占めた役割は、現在の我々からは想像もできないほど大きなものでした。元朝のフビライ・ハーンがラマ教僧侶たちに戦勝祈願させたことに対抗して、シンガサリの諸王はカーラチャクラ派の密教で“武装"したのです。

     事実、第5代クルタナガラ王(位1269〜1292)が1286年にマラユ王国 (スマトラ島ジャンビ) に送って拝ませたという父王像は、碑文によれば実際は観音像の一種であり、この熾烈な呪術戦争のための秘密兵器の到着を、マラユの人たちは大喜びで出迎えた、と伝えられます(1)

     そうした妖術戦略が功を奏して(?)、クルタナガラ王はシンガサリ王国の最盛期を作り出します。勢力はマラユの他、バリ島、マドゥラ島、ジャワ島西部スンダ地方などにも及びました。
     すっかりいい気になったクルタナガラは、1289年に元の使節がジャワを訪れた時も、その顔に入墨をして(または使節の鼻をそいだとも、顔に侮辱的な文句を彫り込んだとも言われる)追い返しました。

     ところが、落とし穴は思わぬところにありました。
     クディリ朝の子孫と称するジャヤカトワンが兵を起こし、首都シンガサリに攻め入ったのです。例の密教儀式でべろべろに酔っていたクルタナガラ王は、総理大臣と共に殺され、シンガサリ朝は滅亡しました。1292年5月のことです。

     ジャワは大混乱に陥りました。しかもここに、追い打ちをかけるようなニュースが飛び込んできました。
     使者を侮辱されて激怒したフビライ・ハーンが、ジャワ討伐の大軍を差し向けたというのです。
     1293年初め、2万の兵、1000隻の船から成るモンゴルの軍勢は、ジャワ北岸のトゥバンに姿を見せました。

     王を失って動乱のただ中にあるところへ、最強最悪の侵略者がやってきたのです。インドネシアは史上最大の危機に立たされました。
     どうする、ジャワ?!


    インドネシアの元寇

    クルタラージャサ王
    クルタラージャサ王 (ラーデン・ヴィジャヤ)
    王の死に際し、彼をヴィシュヌ神として表現した像。
     危機のジャワを救ったのは、クルタナガラ王の女婿ラーデン・ヴィジャヤでした。
     彼は、クルタナガラ王がジャヤカトワンに攻められた時、救援しようとしましたが果たせず、いったんジャヤカトワンに降伏しました。
     ヴィジャヤはブランタス川下流の不毛の地へ追放されました。従者の一人のマドゥラ人が近くのマジャ(果物)の実をかじってみましたが、余りに苦くて(パヒット)、ぺっと吐き出してしまいました。それ以来この地は「マジャパヒト (Majapahit)」と呼ばれるようになりました。

     元の大軍の到来は、ラーデン・ヴィジャヤにとっては天の助けでした。
     彼はモンゴル軍にうまくとりいり、懲罰の対象はジャヤカトワンであると説明し、元軍にジャヤカトワンを攻撃させました。
     そして、ジャヤカトワンが倒されるや否や、今度は計略を用いてモンゴル軍を追い出したのです。1293年4月24日のことでした。

    =COLUMN=  東ジャワに隠されたフビライ・ハーンの財宝?

     その後ラーデン・ヴィジャヤ自らクルタラージャサ・ジャヤヴァルダーナ(位1293〜1309)という長ったらしい名前の初代国王に即位し、「マジャパヒト王国(1293〜c.1520)を開いたのです。
     とは言え、彼の治世の大半は国内の平定に費やされました。ようやく東ジャワ全体を支配下に収めたとは言え、反乱は9回に及び、マジャパヒトは建国当初は非常に不安定な国家だったのです。


    名宰相ガジャ・マダ

    ガジャ・マダ (4KB)
    ガジャ・マダ
    彼をかたどったとされるトロウラン都城跡出土のテラコッタ像。
     このような不安定さを克服し、マジャパヒト王国を最盛期に導いたのは、親衛隊長ガジャ・マダでした。
     1319年の首都反乱鎮圧で頭角を現した彼は、果敢な決断力を買われて順調に昇進し、1330年にはマハ=パティ(総理大臣)に就任します。
     事実上の最高権力者となったガジャ・マダは、酒色を絶って前代シンガサリ朝と同じ領域を回復することを誓い、領土拡張戦争に邁進しました。版図は東ジャワだけでなく、バリ島、マドゥラ島へと拡大し、近隣諸島各地の支配者とも国交を結びました。

     バリ島征服には手を焼いたようで、次のような伝説が残っています。

     11〜14世紀に栄えたバリ島のペジェン王朝最後の王ダレム・ベドゥルは、魔力でマジャパヒト遠征軍を撃退し続けた。
     が、ある日、自分の首を切ってはくっつけて遊んでいるうち、誤って川に落としてしまった。やむを得ず近所の豚の首を切って付けたが、その姿を恥じた王は塔に閉じこもり、二度と現れなかった。
     こうしてペジェン王国は滅んだ。

     1343年ガジャ・マダの派遣軍に敗れ、マジャパヒト王国の直接の支配下に置かれたバリ島には、大量のヒンドゥー・ジャワ文化が流入するようになります。

     ジャワ西部スンダ族のパジャジャラン国王一族を討伐し、ガジャ・マダの野望が達成されたのは、1357年、時あたかも若き王ラージャサナガラ(位1350〜1389)の治世が始まったばかりの頃でした。この王は、むしろあだ名の「ハヤム・ウルック (若いおんどり)」で知られています。
     マレー半島、カリマンタン沿岸、南スラウェシ、ハルマヘラに及ぶ広大な地域を従えたガジャ・マダは、征服戦争の完了を宣言し、平和外交に転じました。
     経済・文化は豊かな実りを見せ、ハヤム・ウルック王の治世はヒンドゥー・ジャワ文化の黄金期を築きます。
    チャンディ・シンゴサリ神殿 (13KB)
    チャンディ・シンゴサリ神殿
    前王朝シンガサリ朝最後の王クルタナガラを祀った霊廟で、大帝国建設の満願成就の証としてガジャ・マダが建設。
     建築はチャンディ・シンゴサリ神殿に代表される繊細・優美なジャワ様式で建てられました。
     文学は質量共に東南アジア随一を誇り、内容的にもジャワ的要素が卓越するようになりました。物語はジャワを舞台に展開され、ジャワ独自の英雄も登場、内容もジャワ人の心情にそぐうものとなりました。宮廷詩人(プジャンガ)プラパンチャがガジャ・マダの命でハヤム・ウルック王に献じた年代記『ナーガラクルターガマ』は、古代ジャワ文学の最高傑作と言われます。
     宗教でも、仏教とヒンドゥー教シヴァ信仰の融合というジャワ独特の傾向はさらに進みます。この時代(14世紀後半)の作品『スタソーマ』には仏陀シヴァ神の教えが究極的には同じだと説く部分があり、現在のインドネシア共和国の国是の一つ「ビンネカ・トゥンガル・イカ (多様性の中の統一)」もそこから取られています。 

    仮想歴史ツァー  マジャパヒト王国に行ってみよう!

     マジャパヒト王国の成立は、ジャワ商人の海外発展を本格化させたという意味でも重要です。
     それまでマラッカ海峡の通商権はシュリーヴィジャヤ王国を築いた海洋民族マレー人に独占されてきましたが、マジャパヒト王国の発展と共に、ジャワ人(本来内陸の農耕民族)の海外での活躍が盛んになります。
     マジャパヒトがスマトラ島を侵略し、パレンバンを支配するようになった1380年代以降は、ジャワ人の商業活動がマレー人を圧倒するほどになりました。
     本来スマトラ島の住民だったマレー人がマレー半島に移り住むのは、このためです。マジャパヒトの侵略とジャワ商人の圧迫を受けたマレー人は、15世紀以降、活動の本拠地をマレー半島南部に移し、マラッカ王国を築き上げることになるのです。そして、このマラッカ王国こそ現在のマレーシア連邦の祖先に当たるのです。

     1364年、ガジャ・マダは死に、1389年にはハヤム・ウルック王も世を去ります。
     これ以降、マジャパヒトの勢力はゆっくりと長い下り坂をたどって行きます。
     1401〜1406年には王位争いで激しい内戦が起こりますが、まだ国は安定していました。
     マジャパヒトを根底から揺るがすのは、こんな些細な権力闘争ではなく、もっと大きな情勢の変化です。それは千年に一度の大変化といっても良いでしょう。
     一体それは何か?
     それは、イスラム教の到来でした。
     1480年代以降、ジャワ島北岸に成立した数多くのイスラム小国群は、マジャパヒトの領土を激しく侵食し、切り崩していきます。住民はあっという間にイスラム教に塗り替えられ、ヒンドゥー文化はバリ島へと追いやられてしまいます。
     こうして、華麗なヒンドゥー・ジャワ文明はマジャパヒト王国と共に滅んでいきました。


    1.   オランダのジャワ文学研究家ベルフの説(1950)。

  • 次の時代に進むよ 前の時代に戻るよ 「インドネシア歴史探訪」ホームページへ

    ©1998 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/07/17

    ご意見・ご希望きかせてね eden@tcat.ne.jp
    inserted by FC2 system