|
インドネシアの歴代王朝の中でも、マジャパヒト王国は、シュリーヴィジャヤ王国と並んで最も有名です。 それは、この王国がインドネシア史上の最大領土を実現し、10世紀以来のヒンドゥー・ジャワ文化の頂点を築いたからです。しかしそれは同時に最後のヒンドゥー・ジャワ国家でもありました。
クリス(短剣)の呪いエルランガ王の血を引く伝統あるクディリ王国は、1222年に、どこの馬の骨とも知れぬ男に滅ぼされてしまいます。
アンロクは当代随一の刀鍛冶ガンドリンに鋭利な短剣(クリス)を作らせます。しかし、出来が遅いのに腹を立て、ようやく仕上がった品を手にするが早いか、作者を試し斬りにしました。刀鍛冶は苦しい息の下から、「貴様の子孫はこの刀の下で死ぬ。この一振りの剣で7人の王が死ぬだろう」と呪いをかけました。 さて、アンロクはこの短剣を友人に貸しました。友人がこれを多くの人々に見せびらかしたのを見すまし、ある夜それを盗んで領主を殺しました。友人は直ちに捕らえられて処刑され、アンロクはまんまと領主の座とその妻を、一度に手に入れたのです。
その後ケン・アンロクは兵力を蓄え、1222年にクディリ朝を攻め滅ぼして、トゥマーペル(シンガサリ)を都に新王朝を開きました。
アンロクは国王に即位しますが、わずか5年後の1227年、殺した領主の息子に暗殺されてしまいます。アンロクを刺した短剣(クリス)は、ご想像通り、あの呪われたクリスでした。
妖術大戦争
それは仏教とヒンドゥー教シヴァ信仰が混交した「カーラチャクラ派」と呼ばれるもので、儀式では飲酒とセックスが行われ、シヴァ神の姿の一つであるバイラーヴァ神を礼拝しました。この神は4本腕で、髑髏を散りばめた冠、耳飾り、首飾りなどで全身を着飾った、奇怪な神です。 そこでは仏教とヒンドゥー教の区別はもはや意味を成さなくなりました。例えば、第4代国王ヴィシュヌヴァルダナ(位1248〜1268)の遺骨は、半分がチャンディ・ムレリ神殿にシヴァ神の化身として埋葬され、もう半分はチャンディ・ジャゴ寺院に仏教の菩薩の化身として祀られています。 《仮想歴史ツァー》 シンガサリ朝寺院めぐり
ところで、シンガサリの諸王がなぜこれほど熱心に宗教に入れ込んだかについて、面白い説があります。
事実、第5代クルタナガラ王(位1269〜1292)が1286年にマラユ王国 (スマトラ島ジャンビ) に送って拝ませたという父王像は、碑文によれば実際は観音像の一種であり、この熾烈な呪術戦争のための秘密兵器の到着を、マラユの人たちは大喜びで出迎えた、と伝えられます(1)。
そうした妖術戦略が功を奏して(?)、クルタナガラ王はシンガサリ王国の最盛期を作り出します。勢力はマラユの他、バリ島、マドゥラ島、ジャワ島西部スンダ地方などにも及びました。
ところが、落とし穴は思わぬところにありました。
ジャワは大混乱に陥りました。しかもここに、追い打ちをかけるようなニュースが飛び込んできました。
王を失って動乱のただ中にあるところへ、最強最悪の侵略者がやってきたのです。インドネシアは史上最大の危機に立たされました。
インドネシアの元寇
彼は、クルタナガラ王がジャヤカトワンに攻められた時、救援しようとしましたが果たせず、いったんジャヤカトワンに降伏しました。 ヴィジャヤはブランタス川下流の不毛の地へ追放されました。従者の一人のマドゥラ人が近くのマジャ(果物)の実をかじってみましたが、余りに苦くて(パヒット)、ぺっと吐き出してしまいました。それ以来この地は「マジャパヒト (Majapahit)」と呼ばれるようになりました。
元の大軍の到来は、ラーデン・ヴィジャヤにとっては天の助けでした。 =COLUMN= 東ジャワに隠されたフビライ・ハーンの財宝?
その後ラーデン・ヴィジャヤ自らクルタラージャサ・ジャヤヴァルダーナ(位1293〜1309)という長ったらしい名前の初代国王に即位し、「マジャパヒト王国」(1293〜c.1520)を開いたのです。
名宰相ガジャ・マダ
1319年の首都反乱鎮圧で頭角を現した彼は、果敢な決断力を買われて順調に昇進し、1330年にはマハ=パティ(総理大臣)に就任します。 事実上の最高権力者となったガジャ・マダは、酒色を絶って前代シンガサリ朝と同じ領域を回復することを誓い、領土拡張戦争に邁進しました。版図は東ジャワだけでなく、バリ島、マドゥラ島へと拡大し、近隣諸島各地の支配者とも国交を結びました。 バリ島征服には手を焼いたようで、次のような伝説が残っています。 11〜14世紀に栄えたバリ島のペジェン王朝最後の王ダレム・ベドゥルは、魔力でマジャパヒト遠征軍を撃退し続けた。1343年ガジャ・マダの派遣軍に敗れ、マジャパヒト王国の直接の支配下に置かれたバリ島には、大量のヒンドゥー・ジャワ文化が流入するようになります。
ジャワ西部スンダ族のパジャジャラン国王一族を討伐し、ガジャ・マダの野望が達成されたのは、1357年、時あたかも若き王ラージャサナガラ(位1350〜1389)の治世が始まったばかりの頃でした。この王は、むしろあだ名の「ハヤム・ウルック (若いおんどり)」で知られています。
文学は質量共に東南アジア随一を誇り、内容的にもジャワ的要素が卓越するようになりました。物語はジャワを舞台に展開され、ジャワ独自の英雄も登場、内容もジャワ人の心情にそぐうものとなりました。宮廷詩人(プジャンガ)プラパンチャがガジャ・マダの命でハヤム・ウルック王に献じた年代記『ナーガラクルターガマ』は、古代ジャワ文学の最高傑作と言われます。 宗教でも、仏教とヒンドゥー教シヴァ信仰の融合というジャワ独特の傾向はさらに進みます。この時代(14世紀後半)の作品『スタソーマ』には仏陀とシヴァ神の教えが究極的には同じだと説く部分があり、現在のインドネシア共和国の国是の一つ「ビンネカ・トゥンガル・イカ (多様性の中の統一)」もそこから取られています。 《仮想歴史ツァー》 マジャパヒト王国に行ってみよう!
マジャパヒト王国の成立は、ジャワ商人の海外発展を本格化させたという意味でも重要です。
1364年、ガジャ・マダは死に、1389年にはハヤム・ウルック王も世を去ります。
註1. オランダのジャワ文学研究家ベルフの説(1950)。 |