インドネシアは今でこそイスラム教人口の多い地域ですが、15世紀以前はヒンドゥー教に支配された世界でした。
しかし、同じヒンドゥー的世界とは言っても、インド文化に塗りつぶされていた9世紀までと、それ以降とでは、根本的に違います。
10世紀からはジャワ人の民族文化が形成され、それがヒンドゥー文化と混じり合って、独特の「ヒンドゥー・ジャワ文化」を生み出す時代です。
影絵芝居ワヤンもガムラン音楽も、密教的な寺院建築もジャワ人固有の神秘主義も、現在のジャワ文化の中核となっているものは皆、このヒンドゥー・ジャワ文化から作り出されたのです。
プランバナンの建設
大噴火と王国の東遷
新生シュリーヴィジャヤと英雄エルランガ
クディリ王国の繁栄
プランバナンの建設
シャイレーンドラ朝 サンジャヤ朝 大乗仏教 ヒンドゥー教 ボロブドゥール プランバナン 8C後〜9C前半 9C後半
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9世紀前半、出現時と同じくシャイレーンドラ朝が急速に没落していった後、中部ジャワの覇権を握ったのは、サンジャヤ王朝が統治するマタラーム地方の王国でした。
プランバナン寺院群
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サンジャヤ朝はシャイレーンドラ朝とは異なり、仏教ではなくヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)を奉じていました。
そのため彼らは、壮大なヒンドゥー教寺院群プランバナンを建設することに心血を注ぎました。
彼らはボロブドゥール(シャイレーンドラ朝が建てた仏教建築)によほど対抗意識を燃やしたと見え、工事は、ボロブドゥール完成(9世紀前半)から間もない9世紀半ばから始まり、敷地もボロブドゥールのすぐ東隣を選ぶほどでした。
プランバナン遺跡のシヴァ神殿 「ロロ・ジョングラン」
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壮大なプランバナン寺院群の中でもひときわ見事なのが、「ロロ・ジョングラン(細身の処女)」の名を持つ中央のシヴァ神殿です。856年にサンジャヤ朝のピカタン王が建てたと言われるこのチャンディ(寺院、神殿)は、燃え立つ炎を思わせる妖しいフォルム−−いわゆる火焔(フランボワン)様式−−で作られた、ジャワ建築史上の傑作です。
サンジャヤ朝がこのような大建設を続けることが出来たということは、当時の中部ジャワにそれだけの労働人口がいたことを意味します。おそらく平野に広がった広大な水田が、王国の基礎となる大人口を支えていたのでしょう。
大噴火と王国の東遷
ウォノボヨ出土の金杯 ラーマーヤナ譚が描かれたこの精巧な聖杯は、900年頃中部ジャワのウォノボヨで盛んに作られた金細工の一つ。
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サンジャヤ朝は繁栄を続け、バリトゥン王(位899〜910)の時代にはジャワ東部も支配し、東岸スラバヤ地方のメダン(Medang)[スマトラ島北部のメダン(Medan)とは別の場所なので注意!]に都を築くほどの勢いを見せます。
しかし、中部ジャワに於けるサンジャヤ朝の命運は、長くはありませんでした。
10世紀初頭、神殿群の建設は突然中止され、中部ジャワの造形芸術の黄金時代は唐突に終わりを告げます。もはや二度とボロブドゥールやプランバナンのような巨大石造建築が作られることはなく、都も捨てられ、サンジャヤ王家は東ジャワへ移ります。
一体何が起こったのでしょう?
最も可能性の高いのがメラピ山の噴火です。
メラピ山は歴史時代を通じてこの一帯で最も活動的な活火山です。噴火はしばしば熱雲や火砕流を伴い、その後も雨が降るたびに土石流が大地をえぐり、肥沃な田畑を耕作不能の地へと破壊します。
この時も、メラピ山の噴火が町や水田を全滅させ、中部ジャワの王国を滅ぼしたのではないでしょうか。実際、プランバナン遺跡群では多数の寺院が建設途上で放棄され、一部は火山灰に埋没していました。その後数百年にわたり中部ジャワは人の住める状況ではなくなったと考えられます。
ジャワ生まれのオランダの地質学者ベンメルンは、中部ジャワのメラピ山麓の破局をもたらした噴火を1006年頃と推定しましたが、金子史朗氏はサンジャヤ王家の東遷が928年なので噴火はその直前に起こったと見ています。
928年頃のメラピ山大噴火で国を失ったサンジャヤ王家のシンドク王(1)(位929〜947)は、命からがら東部ジャワへ逃れ、そこに新たに王国を建てました。
プナングンガン山 ブランタス下流のデルタ平野から見た姿。
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シンドク王の根拠地はブランタス川下流ポロン川近くの南の霊山プナングンガン山麓と言われます。ブランタス流域は農業に適した沃野であるだけでなく、河川を介して容易にジャワ島北岸に通ずることが出来ました。王は、ここを基地にシュリーヴィジャヤとの通商を行い、次第に国力を充実させていったと思われます。
大噴火以降、東ジャワが政治・経済・文化の中心となりますが、このことはジャワ人の歴史上大変大きな意味を持ちます。
まず第一に、東ジャワという地理は、インドからの直接の文化的影響を受けにくいため、この時代以降ジャワ人による独特の密林的文化が形成されます。
また、シンドク王家の王女がバリ島支配者ウダヤナ王に嫁いだため、バリ島の文化から強い影響を被るようになったことも重要です。王の墓所に神聖な沐浴場が設けられたり、洞窟を利用した宗教施設が作られたりしたのはその一例です。 (一方、7世紀頃からペジェンを中心にインド風の王国を築いていたバリの方も、ジャワ族から多大な影響を被ります。)
さて、東ジャワという森林地帯でインド文化から隔絶され、バリ文化と混ざり合った結果、生まれたのが、いわゆる「ヒンドゥー=ジャワ文化」なのです。これはジャワ人の個性が初めて前面に出た、ジャワ人固有の民族文化でもありました。ジャワ人という民族は、ヒンドゥー=ジャワ文化のもとで確立したと言っていいでしょう。
東ジャワに移ったサンジャヤ王家は大いに栄え、この王家の庇護のもと、ヒンドゥー=ジャワ文化も順調に発展を遂げます。
ヒンドゥー=ジャワ文化の代表は、人形影絵芝居「ワヤン」(2)です。
水牛の皮を切り取って作った薄っぺらな手足の長い人形は現身(うつしみ)の影であり、その影をさらに白い布に投影することで、ジャワの人々は「影の影」を通じて先祖の霊と交感したのです。
ワヤンの上演記録は、すでに907年の碑文に見られますが、その後サンジャヤ朝メダン王国で発展して、文学や音楽の要素も吸収した総合芸術として大成します。
例えばワヤンの語り手(ダーラン)が物語る演目(ラコン)は、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』等のサンスクリット叙事詩を翻案したものが多く、ジャワ文学の興隆を準備しました(3)。
また、ワヤン上演を彩る合奏音楽「ガムラン」は、17種の青銅製の旋律打楽器から成るアンサンブルで、女性歌手(プシンデン)も加えて、ワヤンの神話世界を豊かに膨らませます。ガムラン音楽の神秘的な響きと独特の音階、精緻な対位法、絶妙なテンポの緩急などは、19世紀末ヨーロッパ音楽に衝撃を与え、ドビュッシーの印象派音楽を生み出すきっかけの一つともなったのです。
新生シュリーヴィジャヤと英雄エルランガ
東部ジャワのメダン王国は、ダルマヴァンシャ王(位991〜1016)のころ最盛期を迎えます。この王は992年頃、シュリーヴィジャヤ王国を攻撃して数年間パレンバンを危機に陥れたのです。
シュリーヴィジャヤ? そう言えば、この頃シュリーヴィジャヤ王国はどうしていたのでしょう?
10世紀後半、中国に宋(960〜1127)が成立して南海貿易が再び盛んになると、シュリーヴィジャヤ(この時代には「三仏斉」として知られた)(4)も勢いを盛り返しました。相変わらず大乗仏教が盛んで、南インドの大国チョーラ朝とも友好を結んでいました。
ここに、向こう見ずにもダルマヴァンシャ王が戦いを挑んだわけです。
果たして1016年、東部ジャワはシュリーヴィジャヤ王国の報復攻撃を受けました。ダルマヴァンシャ王は殺され、王国は崩壊しました。
この混乱の中から現れたのが、英雄エルランガ(アイルランガ)王です。
彼はダルマヴァンシャ王の女婿で、バリ島のウダヤナ王とサンジャヤ王家の王女との間の長男です。バリに生まれ、東ジャワの宮廷に育った彼は、シュリーヴィジャヤの攻撃を逃れて中部ジャワのヴァナギリ(ウォノギリ)山麓の密林の僧院に身を潜め、忠実な家臣ナロッタマと共に再起のチャンスを待ちます。
エルランガにとっては天の助けと言うべきか、ちょうどその頃、南インドのチョーラ朝は従来の友好政策を転換し、シュリーヴィジャヤへの侵略を開始するのです。
1017年、ケダーを攻撃し、1025年にはシュリーヴィジャヤ本国(つまりパレンバン)を襲って国王を捕らえ、財宝を掠奪し、各地を攻撃しました。
この襲撃でパレンバンとケダーはほぼ壊滅し、長いことチョーラ朝の属国となりました。11世紀後半には繁栄の中心がマラユ王国(ジャンビ)に移ってしまいます。
こうした状況から考えて、11世紀初めのチョーラ朝の攻撃がシュリーヴィジャヤの最盛期に幕を降ろしたことは間違いないでしょう。
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エルランガ像とチャンディ・ベラハン寺院
上のヴィシュヌ姿のエルランガ像は、元来は下のベラハン寺院の二つの女神像(左:ラクシュミー、右:シュリー)の間に据えられていました。
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シュリーヴィジャヤの脅威が取り除かれた今こそ、エルランガの出番です。
1019年、彼は隠遁生活を止め、王に即位しました。間もなく父の後を継いでバリ王となり、1028年頃から内陸部の各地を平定、1030年頃には東ジャワの一大勢力となりました。シュリーヴィジャヤも彼の力を侮り難く、王女の一人を彼にめあわせた(5)ほどです。
1037年、彼はついに東部ジャワをほぼ統一、ブランタス・デルタのプチャンガン山に僧院を建てました。
エルランガが東ジャワの再統一に成功したのは、シュリーヴィジャヤがチョーラ朝の餌食となって没落した一方、チョーラの攻撃から免れた東ジャワのトゥバンやスラバヤといった港に東西の商人が集まるようになったからでしょう。
通商で繁栄した宮廷には宮廷詩人(プジャンガ)たちが集まり、文学好きのエルランガのためにジャワ語の詩歌を詠みました。サンスクリット文学のジャワ語への翻訳が始まったのもこの頃です。
エルランガは1045年頃、退位して隠居生活に入り、1049年に亡くなりました。
東ジャワのベラハン寺院(プナングンガン山東側)がその墓であり、聖水による沐浴場の形(バリ様式)を取っています。王は霊鳥ガルーダに乗った4本腕のヴィシュヌ神として表現されています。その両側にあるシュリとラクシュミーの像は二人の妃を象徴していて、そのどちらかが例のシュリーヴィジャヤ王女だと考えられています。
《仮想歴史ツァー》
エルランガ王の眠る山
繁栄するクディリ王国
ゴア・ガジャ石窟寺院(バリ島ウブドゥ近郊ブドゥル村) 11世紀前半、東ジャワの文化的影響下に建てられたペジェン王朝初期の遺跡。
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エルランガの王国は二人の息子に分割相続されましたが、やがてクディリ地方を中心とした国に統一されます。これを普通「クディリ朝」または「ダハ朝」と呼びます。
この王国は200年弱続き、ジョヨボヨ王の時代には最盛期を迎えました。バリ島、カリマンタン島西南部、ティモール島、スラウェシ島南部、テルナテへ勢力を広げ、『マハーバーラタ』をジャワ語に訳すなど文化的にも繁栄しました。
=COLUMN=
ジョヨボヨ王の予言
バリ島は、エルランガ王の治世以降ヒンドゥー=ジャワ文化の影響下に置かれ、ペジェン (現ウブドゥ近郊) 中心に存在した王国は、以後古代ジャワ語を使うようになります。
註
1. シンドク王は正確には王族ではなく、ワワ王(位924〜929)に仕えた家臣で、東ジャワに移った後も「マタラーム公」を称しました。
2. 水牛の皮(クリット)を切り取った人形を使う影絵芝居は、特に「ワヤン・クリット」と呼ばれて区別されますが、本来はワヤンと言えばこの、牛皮人形で演じられるものを指しました。
布地に物語を描き出す「ワヤン・ベベル」、木製の立体人形を使う西ジャワの「ワヤン・ゴレック」、人間が演ずる「ワヤン・オラン」などはいずれも後代に生み出されたバリエーションです。
3. ジャワ語による最古の法典もこの頃編纂されています。
4. 10世紀後半、歴史に再登場する「シュリーヴィジャヤ」は、漢籍史料では「三仏斉」、イスラム史料では「セルバザ」、アラブ語記録では「ザーバジュ」、インド史料には「ジャーヴァカ」「シャーヴァカ」と書かれていますが、これらを「シュリーヴィジャヤ」と見なすのは史料の読み間違いだとする説もあります。
その説によれば、「三仏斉」は、交易国家の連合体を形成していた地域の名称に過ぎず、かつてのシュリーヴィジャヤ(=パレンバン)は今やその国家群の一つに過ぎず、普通言われるような「シュリーヴィジャヤ帝国」という広範な政治統一体は、10世紀以降は存在しない、ということになります。
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