インドネシア歴史探訪
民主化、混乱、そして……?

 スハルトの突然の退陣で副大統領から昇格したインドネシア共和国第3代大統領ハビビ大統領は、十分な権力基盤を持っておらず、次の本格的な政権への単なる橋渡しと考えられていましたが、様々な改革・開放を実行、1999年6月には平和裡に総選挙も終了させ、「独立の父」スカルノ、「開発の父」スハルトを継ぐ「民主政治の父」とも呼べる業績を残しました。
 ところが皮肉なことに、自らが自由化した世論により、ハビビはスハルト汚職の不十分な追求、バリ銀行疑獄、東ティモール問題などの失政の責任を問われ、次期大統領レースから脱落します。

 ハビビに代わって、1999年10月に開かれた国民協議会で大統領に選ばれたのは、保守派イスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ」議長アブドゥルラフマン・ワヒド (通称グス・ドゥル)です。闘争民主党のメガワティ党首は副大統領に就任、その他旧与党ゴルカルの人間も含め、国民融和を目指す挙国一致内閣が作られました。
 ところがワヒド大統領の人を食ったキャラクターは政治の世界では通用せず、無用の混乱を残し、2001年7月に国民協議会から大統領を罷免されるという前代未聞の幕切れに終わります。
 副大統領から昇格したメガワティ大統領は、どのように国を導いていくのでしょうか。その時、インドネシアの政治、経済、社会、文化はどのように変わっていくのでしょうか?

  • ハビビ政権の1年5ヶ月 (1)----改革路線の3ヶ月
  • ハビビ政権の1年5ヶ月 (2)----反動化と社会不安の再燃
  • 期待はずれのワヒド政権
  • 21世紀のインドネシアは……?


    ハビビ政権の1年5ヶ月 (1)----改革路線の3ヶ月

    スハルト辞任
    スハルト大統領の辞任
    スハルト大統領が辞任し、大統領職が副大統領ハビビ(右端)に渡される一部始終はテレビで生中継されました。
     1998年5月21日、スハルト大統領はテレビ・カメラの前で辞任を表明し、政権はその場で副大統領B. J. ハビビに受け渡されました。

     ハビビ新大統領は南スラウェシ州パレパレ出身で、初のジャワ人以外のインドネシア大統領です。しかし彼の権力基盤は、会長を務めた「インドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI(3))」を中心とする都市のイスラム知識人層しかなく、極めて脆弱でした。
     この弱点を補い、ハビビを支えたのが、ウィラント国防相兼国軍司令官です。
     5月のトリサクティ銃撃事件やジャカルタ大暴動を背景に、プラボウォ中将と権力闘争を繰り広げた彼は、スハルト辞任直前には国軍内での主導権を握り、ハビビ政権誕生の影の立役者ともなりました。

     この二人を軸としたハビビ新政権の姿勢は、最初の3ヶ月とそれ以降でかなり変化しました。

     発足したての頃は、反KKN(カーカーエヌ)Korupsi, Kolusi, Nepotism=汚職・癒着・縁故主義)を合い言葉に政治浄化を求める国民の声に配慮し、報道自由化、政治犯釈放、アチェからの撤兵、自治権付与を前提とした東ティモール交渉の再開など、矢継ぎ早に改革を実施しました。暴動と政治混乱を嫌気して6月17日に16,800Rp/US$の底値を付けたルピア相場は値を戻し、IMFも緊急融資を再開しました。

     並行して政財界ではスハルト派の追放が進められました。
     ウィラント国軍司令官と対立していたプラボウォ中将は、スハルト退陣翌日に陸軍戦略予備軍(コストラッド)司令官を解任され、8月には軍事評議会で、陸軍戦略司令官時代に活動家誘拐に関与した事実が明らかにされ、軍籍剥奪・名誉除隊処分となりました。
     与党ゴルカルの要職を占めていたスハルト親族やクローニー(取り巻き)たちも次々と政界追放の憂き目に遭い、スハルト三男トミーの国民車メーカーには10月初めに奢侈税等の追徴が決められました。
     前政権と密接な関係を築いていた華人系財閥グループも、大きな打撃を被りました。ルピア暴落で膨大な不良債権を抱え込んだ上、スハルトとの緊密さがあだとなり、その後のビジネスに逆風となったのです。

     その一方で、息を吹き返したのが、諸政党です。
     スハルト時代に禁じられていた新党結成が解禁となったため、7月頃から政党新設ラッシュとなり、それまでわずか3つだった政党数は、翌年1月半ばまでには200以上に達します。特に注目されるのが、スハルト時代に一貫して政治の蚊帳(かや)の外におかれていたイスラム勢力の政党結成です。
     保守系イスラム団体「ナフダトゥール・ウラマ (NU)」は7月23日、「民族覚醒党(PKB)」を結成、1984年以来14年ぶりに政治活動に復活。これに対し、5月政変時に学生に大変大きな影響を与えて、一時は国民のオピニオン・リーダーと見られた、改革派イスラム団体「ムハマディア」のアミン・ライス議長は、「国民信託党 (PAN)」を設立して、都市イスラム層に近い与党ゴルカルとの提携を模索します。

     一方、与党ゴルカルはKKN(汚職・癒着・縁故)議員を追放、イメージ刷新を図りましたが、7月の総裁選では、ハビビ大統領が支持基盤のICMI勢力を後押しし、腹心アクバル・タンジュン国家官房長官を勝たせたため、退役将校グループが反発して離脱、正義統一党を結成しました。
     こうしてゴルカルも国軍偏重から脱却し、ICMIを通じてイスラム勢力に接近を試みます。

     この頃から、スハルト時代には力でねじ伏せられていたインドネシア各地での分離主義的な動きが活発化します。
     東ティモールイリアンジャヤでは7月頃から反政府暴動が発生。北スマトラのアチェ地方でも8月に独立運動を弾圧するための「軍事作戦地区(DOM)」指定が解除されると、国軍による過去の虐殺なども明るみに出、国軍に対するテロ行為が始まります。


    ハビビ政権の1年5ヶ月 (2)----反動化と社会不安の再燃

     9月半ば、ロシア経済の突然の破綻で米ドルが下落します。おかげで円が急騰、それにつられてルピアの対ドル相場も10月以降急速に値を戻し、10月21日には戻り高値7,100Rp/US$を示現します。
     ルピア上昇は輸入物価を沈静化させ、インフレ率も10月以降落ち着きを見せるようになりました。

     こうした経済的な安定に自信を持ったのか、9月頃から政府の強硬な姿勢が目立ち始めました。
     ウィラント国防相は続発するデモに強硬姿勢を示し、政府は9月、中央銀行の流動支援 (短期資金の融資) を期限までに返済出来なかったとして、サリム・グループの中核を成すセントラル・アジア銀行(BCA)に、サリムが所有する主要グループ企業の持ち株一部を引き渡すよう命じました。サリム・グループの身ぐるみを剥ぐようなこの仕打ちは、華人系実業家に対する見せしめと言われ、華人資本を多く海外へ逃避させました。

     ハビビ大統領と与党ゴルカルが国軍勢力と距離を置き、都市部イスラム層に近付いて、協同組合や中小企業とのつながりを強めるのを見て、華人系コングロマリットは政権と距離を置き、提携先をナショナリストや国軍に近いメガワティに乗り換える動きが出てきました。

     勢力分布が明らかになるにつれ、派閥抗争に絡むテロ事件も発生します。
     9月頃から、東ジャワのバニュワンギ周辺で黒魔術師(ドゥクン・サントゥット(1))250人以上が連続して惨殺される事件が発生します。犯人グループは黒覆面を着用して計画的に行動していることから「ニンジャ(忍者)」と呼ばれ、恐れられました。

     10月に「表現の自由」を規制していた政令が撤廃され、1994年に発禁処分を受けた総合週刊誌『テンポ』が再刊したのは、スハルト体制の終焉を象徴する出来事でした。
     またイリアンジャヤ州の「軍事作戦地区(DOM)」指定も解除され、同月4日ウィラント国防相は「1999年4月に警察軍を国軍から分離し、文民統制下に置く」と発表しました。

     11月9〜13日、次回総選挙の日程等を決める国民協議会(MPR)臨時総会が開かれました。
     これに合わせて10日、民衆の声を代弁するとされる民主化運動の在野リーダー4人が政府に8項目の要求を突きつけました。
     この4人とは、

    • メガワティ・スカルノプトゥリ……インドネシア民主党(PDI)メガワティ派(闘争派) (1999年2月に党名を「闘争民主党」に変更) のリーダー。スカルノ元大統領の娘。
       庶民的人気はナンバーワンだが、反スハルトのシンボル的イメージが先行し、政治手腕は未知数。

    • アブドゥルラフマン・ワヒッド(通称グス・ドゥル)……保守派イスラム団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の議長で、新党「民族覚醒党(PKB)」の総裁。NU創始者ハシム・アシュアリ師の孫に当たる。

    • アミン・ライス……近代主義イスラム組織ムハマディアの議長で、イスラム新党「国民委託党(PAN)」総裁。
       ムスリム知識人協会(ICMI)の専門委委員長を務めた関係からハビビとも近く、与党ゴルカルとの連携も視野に入れている。政界進出意欲は強い。

    • ハメンクブウォノ10世……ジョクジャカルタ特別州の州知事で、ジョクジャカルタ王家の末裔。王家に対する国民の畏敬の念は大変強い。

     であり、次期大統領の有力候補とも言われる人たちです。
     要求はジャカルタ郊外チガンジュールにあるグス・ドゥル議長の自宅で発表されたので「チガンジュール声明」、4人の民主化リーダーたちは「チガンジュール・グループ」と呼ばれるようになりました。

    UI前のデモ
    インドネシア大学前から出発するデモ隊
    スマンギ事件の翌日、学生や市民は各所で抗議デモを行いました。
     ところが、国民協議会(MPR)臨時総会の最中、学生デモ隊と治安部隊は衝突を繰り返し、11月13日には国会議事堂近くのアトマジャヤ大学前で軍がゴム弾・催涙弾を発砲、学生16人が死亡する惨事となりました(スマンギ事件)。

  • 学生デモ写真集 (1998年11月14日)
  •  さらに22日にはジャカルタ北部クタパン地区でイスラム教徒がキリスト教会22軒に放火、14人が死亡する事件が発生。30日には東ヌサトゥンガラ州クパンで逆にキリスト教徒がモスクを襲うなど、騒乱は宗教対立の様相を呈し始めます。

     学生たちはハビビ政権に対する不満を爆発させ、ほぼ連日デモを繰り返し、スハルト前大統領の不正蓄財調査の速やかな着手、国軍の二重機能撤廃、国軍議席の削減、などを要求しました。
     検察庁は12月にスハルトを召喚、捜査の手はその子息やクローニー(取り巻き)たちにも及びました。
     ところが、これ国民の怒りを和らげるための茶番だったことが、翌1999年2月下旬、ガリブ検事総長とハビビ大統領との電話会話の録音テープが暴露されたことであきらかになります。

     肝心の経済の建て直しの方も、遅々として進まず、1998年(暦年)にはインフレ率77.6%、経済成長率(最終予測値)マイナス13.68%を記録、失業率は22%に達しました。

     社会混乱もさらに広がりました。
     1999年の年明け早々、アチェの住民と国軍兵士が衝突して多数の死者を出し、1月19日以降は東部マルク州アンボンでイスラム教徒とキリスト教徒の対立が暴動に発展、3月中旬までに公式発表で約200人、推定で1300人以上の犠牲者を出す大惨事となりました。
     アンボンの混乱が収拾に向かった3月15日以降、今度は西カリマンタン州サンバスで、先住民ダヤックとマドゥラ島からの移民が激しく衝突、同月末までに165人の犠牲者を出しました。そのほとんどはマドゥラ人で、切断された生首が街頭に並べられました。  インドネシアは、宗教抗争・民族紛争という新たな爆弾を抱えることになったのです。

     東ジャワの呪術師連続殺人事件、スマンギ事件、クタパン騒乱、アンボン暴動、サンバス騒乱……これらはいずれも外部者が地元の住民対立に油を注いで騒乱を誘発させるという点で共通した手口を示しており、NUのグス・ドゥル議長は1999年1月、黒幕として旧スハルト派の行動隊「パンチャシラ青年団」(2)を名指しで非難しました。
     総選挙に伴う社会的緊張が予想される1999年のインドネシアで、暴動を操る煽動者がいるとの見方は、否が応でも、首都ジャカルタを中心に再び社会不安を高めました。

     さらに1999年1月27日、ハビビ政権は歴史的な方針変更を行いました。東ティモール独立容認の姿勢を示したのです。が、その直後から東ティモールでは独立維持派が民兵団を組織し、独立派住民への襲撃を開始しました。準備不足のハビビ政権は、事態を掌握しきれませんでした。


    期待はずれのワヒド政権

     1999年6月7日、熱気に満ちた雰囲気の中、総選挙が実施されました。その結果は、
    1. 闘争インドネシア民主党 (PDI-P)(得票率33.7%)……メガワティ党首率いる民族主義政党 (旧インドネシア民主党闘争派)。イスラム色が薄く、一般庶民、華人、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒らの支持が強く、国軍との距離も近い。
    2. ゴルカル党(得票率22.4%)……スハルト政権下の与党。
    3. 民族覚醒党 (PKB)(得票率12.6%)……ナフダトゥール・ウラマのグス・ドゥル議長が総裁。
    4. 開発統一党 (PPP)(得票率10.7%)……イスラム系既存野党。スハルト退陣後、イスラム色を前面に押し出した。
    5. 国民委託党 (PAN)(得票率7.1%)……アミン・ライスが率いる近代主義イスラム政党。
    と、いずれも過半数を制するには至りませんでした。

     その後8月30日に行われた東ティモール住民投票で78.5%が独立を支持しましたが、これを不満とする併合派民兵は独立派襲撃を強め、数日で600人あまりを殺害しました。
     オーストラリアやアメリカを中心とする国際世論は国連平和維持部隊 (PKF) の即刻派兵を主張、インドネシアに圧力を掛けたため、ハビビ大統領は9月12日にPKF受け入れを発表、9月20日以降多国籍軍が東ティモールに展開しますが、オーストラリアとの関係は極めて悪化し、10月まで連日デモが繰り広げられました。
     同じ頃発覚したバリ銀行への公的資金注入に絡む大型汚職事件も、大統領再選を目指すハビビ陣営にとって大きなマイナス点となりました。

     10月に召集された国民協議会 (MPR) は19日、322票対355票でハビビ大統領の在任中の責任演説を否決し(事実上の不信任)、ハビビはこれを受けて20日早朝、大統領選への出馬を辞退しました。
     20日の大統領選は、闘争民主党総裁メガワティと、イスラム系中道会派が支持するNUのアブドゥルラフマン・ワヒッド (通称グス・ドゥル) との一騎打ちとなりました。
     結果はグス・ドゥルが373票を集め、313票のメガワティを破って第4代インドネシア共和国大統領に就任しました。

       この意外な結果に、メガワティを熱烈に支持する一般大衆は怒り、ジャカルタ、ソロ、バリ島デンパサールなどで示威・破壊行動を繰り広げました。
     しかし、緊迫した空気の中で行われた翌21日の副大統領選では、メガワティが396票で開発統一党 (イスラム系) 総裁ハムザ・ハズ (284票) を引き離して逃げ切り、スハルト退陣後1年5ヶ月に渡る政変劇に終止符を打ったのです。

     大統領ワヒド (グス・ドゥル)、副大統領メガワティ、MPR議長アミン・ライス、国会議長アクバル・タンジュン (ゴルカル党総裁)……「チガンジュール・グループ」の3人までが政権入りし、ゴルカルと協力する「挙国一致」政権がこうして誕生しました。大統領選出・組閣の間、国軍が中立を守ったことも特筆すべきです。
     グス・ドゥルは、視力障害や歩行困難という身体的なハンディキャップをものともせず、就任直後から精力的に外遊を繰り返します。
     ところがその間、周囲を驚かすアドリブ発言を連発、国会運営は大混乱に陥ります。アチェ独立勢力との和平を巡っても発言がころころ変わりました。
     この政権には他にも、過去の腐敗摘発、ジャワ人中心の政権に対する外島派の不満(4)など課題は多かったのですが、グス・ドゥルは有効に対処する能力を持ちませんでした。

     2件の資金疑惑が相次いで浮上した頃から、風向きはにわかに変わります。大統領の説明を求める国会の要求を無視し続けたことも状況悪化に拍車を掛けました。
     ワヒド大統領が2001年に入っても議会を無視する態度を改めなかったため、遂に議会にはグス・ドゥル降ろしの大合唱が広がりました。アミン・ライス国民協議会(MPR)議長は、臨時MPRを開いて大統領弾劾審議に入ると牽制。しかしグス・ドゥルは「MPRに弾劾する権利はない。弾劾は違法だ。MPRが召集されたら戒厳令を布告する。国が分裂してもいいのか」と国家の統一を人質に脅す始末。
     あまりにも頻繁に側近の任免を繰り返したことも祟り、グス・ドゥルの周囲からは有能な人材は離れていきました。同時に彼の権力・影響力も急低下。反大統領勢力をきちんと取り締まらないということでビマントロ警察長官に停職命令を出し、副長官に任命したハイルディンを「臨時長官」に格上げしましたが、完全に無視され、ビマントロは執務を続け、警察は依然としてビマントロに忠誠を誓いました。

     警察権力すら把握できなくなればお終いです。アミン・ライスがMPRを2001年7月21日に繰り上げ開催した時、グス・ドゥルは遂に戒厳令を発布 (7月23日午前1時過ぎ) しましたが、誰も従わず、MPRは粛々と行われ、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領の罷免と、メガワティ副大統領の大統領昇格を決めました。
     裸の王様が追放された瞬間でした。


    21世紀のインドネシアは……?

    メガワティ
    メガワティ・スカルノプトゥリ
    スカルノ元大統領の娘でインドネシア第8代副大統領、その後第5代大統領。闘争民主党の総裁。
     しかし、メガワティ新政権も、ワヒド前政権以上に妥協の産物です。新副大統領に選ばれたのは開発統一党のハムザ・ハズ党首ですが、彼こそは1999年の大統領選挙の際、「女性がトップに立つことはイスラムの教えに反する」としてメガワティの大統領当選に強硬に反対した中心人物のはずです。この事実一つをとっても、新政権がいかに微妙なバランスの上に立っているかを示しています。
     メガワティ政権の特徴は、国軍と結びついた保守主義で、その意味では民主改革路線は後退し、スカルノ=スハルト時代を継承している側面があります。メガワティ政治の特色を「オルデ・バルー・ヤン・バルー(新たな新秩序)」と呼ぶ人もいます。
     反面、国民生活は落ち着きを取り戻しつつあります。民主化以降の混乱に嫌気が差したインドネシア国民は、生活の安定と引き換えなら、ある程度の保守反動は受け入れる用意があるように見えます。

     メガワティ大統領は就任直後から極めて厄介な難題を抱え込みます。イスラム過激派の取り締まり問題です。
     2001年9月11日、国際テロ組織アルカイダによる衝撃的な対米同時多発テロ事件が発生しました。アメリカのブッシュ大統領は同盟国に対テロ戦争への参画を呼びかけます。
     親米的なメガワティ政権はこれに追従しますが、隣国フィリピンの女性大統領アロヨほど断固とした処置を取れませんでした。なぜでしょう? インドネシア国民の間には想像以上にイスラム諸国への親近感が強く、それが反米・反イスラエル感情となって噴き出し、下手をするとメガワティ政権自身が危うくなるからです。
     しかし、過激派取り締まりを徹底しなかったツケは1年後にやってきます。
     2002年10月12日深夜、バリ島南部の繁華街レギャン地区のディスコ「サリ・クラブ」などで連続爆弾テロ事件が発生し、200人以上の犠牲者を出す惨事となります。アルカイダから資金提供を受けた東南アジアのイスラム過激派「ジェマー・イスラミア」の仕業でした。爆弾テロはその後も首都ジャカルタなどで繰り返されます。
     治安悪化と「テロ撲滅に本腰を入れない」マイナス・イメージが植え付けられ、外国資本もインドネシアへの投資を控えるようになりましたが、それでもメガワティはテロ組織の壊滅には二の足を踏んでいます。イスラム文明への自負と西欧への劣等感がないまぜになった複雑な対米感情、「ムシャワラー(話し合い)」を好み徹底捜査のような手法を嫌う国民性……民衆に広く浸透しているイスラム主義がどれほどデリケートなものか知り尽くしている彼女は、手を着けかねているのかも知れません。

     その一方で、国家の統一が脅かされる事態には実力行使をためらわない姿勢は、父スカルノ譲りです。
     アチェ独立紛争を巡っても、2002年12月にいったん独立闘争組織「自由アチェ運動(GAM)」と和平合意を結んでおきながら、GAMの武装解除が進まないことに業を煮やし、2003年5月19日に和平協議が決裂すると、アチェ州に「軍事非常事態宣言」 (=戒厳令) を敷き、国軍にGAM掃討の本格的な軍事作戦を命ずる強硬振りを示しています。

     メガおばさん、インドネシアをどこに連れて行こうとしているのでしょうか。

     いずれにせよ、1965年の「9月30日事件」のような大量虐殺を引き起こすような社会の「パナス (過熱)」「アモック (狂乱)」状態は避けなければなりません。
     今こそこの国の歴史と文化に根付くインドネシア人の知恵が試されるのです。


    *     *     *

    頭巾を被ってバイクに乗るイスラム女性 (4KB)
    頭巾を被ってバイクに乗るイスラム女性
    ジルバップ(頭巾)をかぶってイスラム教徒を自覚しつつ近代文明を取り込む姿は、21世紀のインドネシアを象徴するかのようです(1999年12月、ジョクジャカルタにて)
     しかし、少し長いスパンで見れば、経済の問題は心配には及ばないでしょう。
     インドネシアは資源と若い人口に恵まれた国であり、経済発展のポテンシャルは大きいと言えます。
     アジア諸国の経済回復と共に、必ずや立ち直ることでしょう。
     国家の統一の問題も同様です。
     東南アジアは伝統的に多民族・多宗教に寛容な地域なので、故意に社会的緊張を煽られることがなければ、国家がばらばらになることはあり得ません。東ティモールに引き続き、アチェイリアンジャヤが独立しても、経済・社会的には密接なつながりを持ち続けますから、交通や情報通信の発達により、1世紀後には形質的にも文化的にもさらに均質な、真の意味での「インドネシア民族」が誕生するでしょう。

    *     *     *

     ただ、それより長い未来を見渡す時、道のりは平坦ではありません。
     いや、インドネシアに限らず、全ての人類がいばらの道を進むことになるでしょう。
     環境破壊による気候の激変が、遅くとも21世紀末には現在の社会・経済システムを崩壊させることは不可避だと思われるからです。

     人類の人口は21世紀後半に100億人に達すると言われますが、現在の地球にそれほどの人口をまかなう力はありません。しかもその頃には気候変動で土地の水没、森林減少、穀倉地帯の砂漠化などが相次ぎ、10億人とも言われる環境難民が国境を越えて移動し始め、先進諸国を震撼させているはずです。

     崩壊はゆっくりではなく、カタストロフィック(破局的)にやってくるでしょう。
     何かが引き金となり、全ての歯車が逆回転を始め、あっという間に現代文明は動きを止めてしまうのではないでしょうか。大虐殺や核戦争が起こるかも知れません。
     その後、世界はいくつもの地域経済に分断されるでしょう。
     これらの地域が新しい気候帯に適応して経済発展し、数百年かけて新しい民族と文化を生み出し、次の世界の中核文明として発展して行くでしょう。

     インドネシアは100万年前、ジャワ原人の頃から人類文明の揺籃地でした。
     ここ百年ばかりの地球温暖化くらいでは、インドネシアの優位さは揺るがないでしょう。
     次の世界の核となる文明も、ここインドネシアから生み出される可能性は大きいと考えますが、みなさんはどうお思いでしょうか?


    1.   「ドゥクン・サントゥット」とは、ドゥクン(呪術師)の中でも人に危害を及ぼす黒魔術を行う者のことですが、普段は身分を明かすことなく、表向きはイスラム教の導師を兼ねていることが多いのです。
     その多くはナフダトゥール・ウラマ (NU)の会員であり、黒魔術師でなくても殺されたNU会員も少なくありません。

    2.    パンチャシラ青年団(Pemuda Pancasila)は、1959年にスハルト大統領が首都の暴力団一掃を目的に結成した右翼団体。全国の暴力団を組織した与党ゴルカル傘下の行動隊で、以前はスハルトの三男フトモ・マンダラ・プトラ(通称トミー)の私兵でした。あらゆる暴動を裏で操るとされ、その名を聞けば泣く子も黙ると恐れられています。
     退役将軍の息子ヤプトと共に団長を務めるヨリス・ラウェヤイは、イリアンジャヤ出身の元国会議員で、1998年11月の国民協議会開催に際しては暴力的な自警組織「パン・スワカルサ」を率いました。

    3.   ICMIをインドネシア語のアルファベットで読むと「イー・チェー・エム・イー」ですが、巷では「イーチェ・ミー (=It's me!) 」と呼んでいるようです (1998年年末)

    4.    事実、新正副大統領決定直後の1999年10月22日、ハビビ前大統領の出身地スラウェシ島南部のマカッサル (旧ウジュンパンダン。10月13日付けで地名変更) では、約1万人の学生が激しいデモを展開、「独立」を宣言しました。
     彼らは新国旗を掲げ、新国歌「スラウェシ・ラヤ」を歌いながら国営RRIマカッサル放送局を占拠して「独立宣言」を放送し、空港にも押し寄せました。地方議員数名も賛同の署名をしています。
     同じ22日、ジャカルタのゴルカル党本部にもマカッサルの学生らが押し掛け、総裁アクバル・タンジュン、副総裁マルズキ・ダルスマンを非難すると共に、ハビビへ「東インドネシア国 (東インドネシア・ラヤ) 」の大統領就任を要請しました。

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    ©1999-2003 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1999/10/24; 1999/11/27; 1999/12/05; 2003/10/07

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